一度潮目が悪くなると、次々と厄介ごとが積み重なるものだということを、ペトラは経験として知っていた。禍福は
今更、並大抵のことで動揺はしないと自負していたが、それでも重傷の上に意識消失をしたカナンが運び込まれてきた時は、さすがに膝から崩れ落ちそうになった。
せめてもの救いは、退避の終わり際であったために、難民たちに負傷したカナンの姿を見られなかったことだ。ペトラの予想した通り、意地でもエデンに齧りつこうとする者は誰もいなかった。士気も活気も、何もかも無残に叩き潰されてはいるが、とりあえず人をエデンから逃すことには成功したのだ。
僅かな時間の内に状況はどんどん悪くなっていた。すでに燈台を護る障壁はぼろぼろであり、いつ直撃弾があってもおかしくない。その後、あの怪物がどう出るのかも分からない。人間に標的を替えられたらひとたまりも無いだろう。
「イスラ、アブネル。あたしたちも逃げるよ……と言いたいところだけど、夜魔の先鋒がこちらに向かってる。悪いけど、アブネルの部隊はゴドフロアの爺さんと合流して、迎撃にあたっておくれ」
「妥当だな」
アブネルは即座に配下の者を引き連れて行動を開始した。
すでに本陣はもぬけの殻であり、カナンは馬車に乗せられてコレットから治療を受けている。
残っているのは、イスラとペトラの二人だけとなった。
「……イスラ、オーディスは?」
「……」
「裏切ったのかい?」
ペトラの言葉に対して、イスラは自分でも驚くほど強く「違う!」と怒鳴っていた。怒鳴ってから、どうしてここまでムキになるのだろうと不思議に思ったほどだ。
「あいつは裏切ってなんかいない……そう、利用されたんだ……」
しかし、「利用された」と口に出すのも、それはそれで辛かった。
オーディス・シャティオンという男が、あんなに安っぽい罠に引っ掛かったという事実を認めたくなかったのだ。
彼の失敗を認めることが、そのまま自分自身の失敗を認めることのように思えた。
カナンを刺したことに対して、当然怒りはある。だがそれ以上に悔しさの方が大きかった。オーディスがあっさりと負けてしまったという事実が、イスラにとってはやりきれなかったのである。
一つ確実なのは、これから事態がどう動くにせよ、オーディス・シャティオンが二度と自分たちの元に帰ってこないということだ。仮に何等かの方法で洗脳が解けたとしても、自分の犯した失敗に対して責を負おうとするだろう。仕事を投げ出すことは無いかもしれないが、やるだけのことをやり切ったら自裁する道を選ぶはずだ。
オーディスがそういう男だと分かる程度には、イスラは彼のことを理解していた。
そもそも救征軍という構想そのものが、亡きエマヌエル・ゴートに対する義理立てのようなものなのだ。行き場を失った思慕を解決するためだとしても、並大抵の執念で遠征軍を起こしたりはしない。
「オーディスのことは、行方不明ってことにしておく。アブネルにも伏せさせる」
「……済まない」
「あんたが謝ることじゃないさ」
軽く頭を下げるイスラを、ペトラは意外な心持ちで見ていた。一見すると正反対の人種に見えるが、不思議と馬が合っていたのかもしれない。基本的にはさばさばとしたイスラだが、こんな風に湿っぽくなることもあるのだな、と思った。
「それで、あんたはどうする?」
馬車の御者台に脚をかけながら、ペトラは尋ねた。
イスラにはいくつか選択肢がある。
一つはアブネルたちと合流して最前線に赴くこと。戦力が足りない以上、イスラの存在は決して軽いものではない。いくらアブネル麾下の熟練兵たちにやっかまれているとしても、彼の実力そのものは誰しもが認めるところだ。
もう一つは、単身でオーディスの後を追うこと。イスラは「利用された」と言っていたが、その利用した主体の目的次第では、オーディスを止めることが全体の利益につながる可能性もある。
だが、イスラはその二つとは異なる答えを出した。
「連れて行ってくれ、ペトラ。カナンの側に……居させてくれ」
絞り出すような声でイスラは言った。顔が恥じらいのために赤くなっていた。戦えるのに戦いに行かず、倒れた少女の隣に居残るというのは、一戦士として耐え難いものがあった。
自分が座して何もせずにいる間も、他の場所で誰かが傷つき斃れるのだ。自分がいれば軽減出来たかもしれない被害が生じるのを、指をくわえて見るしかなくなる。手元に
誰かから臆病者と
それはそれで的を射ているかもしれない。合理的に考えれば、気絶しているカナンの側に付き添っている必要など無いのだ。一戦力単位として、少しでも多くの夜魔を倒しに行った方が良いに決まっている。
(でも……そういうことじゃない)
他の人たちの目から見れば、自分は戦いに行った方が良いのかもしれない。きっとその方が楽だろう。目の前の敵をただ打ち倒すのは、ある意味非常に安楽な選択肢だ。夜魔は恐ろしくかつ不気味だが、打ち倒すことに対して何の良心の呵責も無い。一切思考を働かせず、ひたすら剣を振り続ければ良いだけだ。
だが、自分たち二人にとって見れば……カナンが、自分を見た時にどう映るかを考えたら……そんな楽な選択肢に縋るわけにはいかなかった。
「俺は……いや、俺たちはいつも、どっちかがどっちかの背中を追っかけてばかりだった。
最初からずっとそうだ。
アラルトの時も、ウルクの時もパルミラの時も、ラヴェンナの時も……俺があいつより先に行ったり、あいつが俺より先に行ったり……挙句、来たい来たいと思っていたエデンに着いても、やっぱり足並みが揃っていない。
……もうそんなのは沢山だ」
それがイスラにとっての、今の素直な気持ちだった。
誰に何と言われようと、後ろ指を指されようと、これ以外の選択肢は全てカナンに対する不義理となる。もちろん先に不義理を働いたのはカナンの方だが、そのことでネチネチと責め続けるつもりはなかった。ちょっとやそっとの裏切りで一々腹を立てているようでは、到底人と付き合ってはいけないとイスラは思った。
ましてや、自分が心の底から護り抜きたいと思った存在なら、なおさらだ。
そんなイスラに対して、ペトラは改めて問うた。
「これが最期になるかもしれないよ。カナンの側でじっとしている間に、夜魔に踏み潰されて死ぬかもしれないよ」
「構わない。今日で何もかもが終わるなら、その時はせめてカナンの隣で死にたい。それに、もしあいつが目覚めたら……二人で揃って、最後の大暴れと洒落込むさ」
迷いが無いと言えば嘘になる。心の中のしこりを感じずにはいられない。本当にこれが正しい選択なのかという自問が絶え間なく湧き出してくる。
だが、そんな悩みの
「悪いと思ってる。こんな時に、こんな呑気なことを言うなんて、正気の沙汰じゃない。でも……!」
「大丈夫さ」
ペトラは相好を崩した。頭の上では未だに閃光が炸裂し続けているにも関わらず、いつもと同じ笑顔を浮かべた。
「その選択が、一番の大正解だよ」
「……ありがとう、ペトラ。
あんたに会えて本当に良かった。カナンもそう思ってるはずだ」
「よせやい、恥ずかしい」
ペトラは鼻の下を指で擦ると、手綱をしっかりと握り締めた。
イスラは馬車に乗り込み、依然として意識を失ったままのカナンの手を握った。