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【第二二三節/晦冥 一】

 エデンから慌ただしく撤退した救征軍は、その本拠を北西の荒野へと移していた。


 しかし最早、軍などと大それた名で称するのは難しい。カナンが束ね、オーディスが組織化した軍隊は、今や元の難民の集まりへと逆戻りしていた。ペトラやヒルデの努力によってどうにか集団としての状態を維持してはいるものの、それは単に他に逃げ場が無いからでもあった。


 難民の誰かが、あの山のように巨大な夜魔を指して『セリオン』と呼んだ。獣という意味の単語だが、闇渡りの間ではそれとは別の隠語としても使われる。


 夜の世界を生きる闇渡りにとって、焚火の明かりが届かない藪の向こうにはどんな危険が潜んでいるか分からない。熟練した者ならば臭いや気配、鳴き声で敵を察知することが出来る。獅子なら獅子、虎なら虎、狼なら狼、熊なら熊と。


 だが、本当に恐ろしいのは、自分の記憶に無い気配を漂わせる獣である。どんなに闇に慣れた者でも、時として正体不明の敵を闇の向こうに感じることがあるという。それが果たして勘違いなのか、夜魔なのか、あるいは他の何かなのかは分からない。どこまでも感覚的な問題なので、誰も真面目に証明しようとはしなかった。


 しかし闇に対する根源的恐怖こそが、正体不明の獣……セリオンそのものではないか、と聡い者は考える。


 そしてエデンに出現したこの巨大な夜魔は、まさにセリオンの名を戴くに相応しい怪物であった。


 最初は「でっかい夜魔」としか言っていなかったペトラも、ふと気が付くと自然に「セリオン」という単語を使うようになっていた。


「ともかくセリオン・・・・から距離を取るよ! あいつがエデンに引きつけられてる間に、少しでも遠くに逃げるんだ!」


 馬車の屋根に立ったペトラが声を張り上げる。当初こそ茫然自失となっていた彼女だが、今では完全に立ち直り、それどころか全体の精神的支柱とさえ化していた。誰もが狂乱に陥っている中でその冷静さは極めて浮き立って見えたが、これにはカナン不在という状況の奇妙さを押し隠す目的もある。


 もし今の段階でカナンの負傷が知られたら、その時点で集団は千々に分裂してしまう。


 無論、難民たちの中には気づいている者もいるだろう。今までカナンが発揮してきた存在感に比べれば、いくらペトラの豪胆さがあっても見劣りしてしまう。


 だからこそ、今は脚を止めずに動き続けてもらう必要があった。考える余裕を与えれば、誰かがすぐに事態の異常さに気付くことだろう。


 ペトラは屋根を二度踏みつけた。だが、すぐに二回分の応答が返ってくる。未だ目覚めず、という合図だ。コレットが懸命に天火を送り込んでくれているが、出血量があまりに多すぎたせいで脈は弱まり続けている。即死でなかっただけでも奇跡的というべきなので、ここからさらに彼女の回復を求めるのは、奇跡以上の奇跡ということになる。


 そしてカナンの意識が戻らない以上、イスラも側を離れられない。今の彼に出来ることは、熱を失いそうになる彼女の手を強く握り締めることだけだった。




◇◇◇




 闇渡りのラハは、まさに逃げ惑うしかない一民衆に過ぎなかった。いくら気丈で勝気な彼女といえど、あんな現実の範疇を大きく超えたような脅威を前にしては、なす術も無く背中を向けるしかなかった。それでも、いつの間にか親とはぐれた子供たちの手を引いている辺り、面倒見の良さはどこまでも染み付いてしまっている。


 背後では星を落としてきたかのような閃光と轟音とが延々と続き、逃げる彼女の背を強く圧迫する。ずいぶん昔に「振り返って見てはならない」という禁断の炎を見てしまったがために、天罰で塩の柱に変えられてしまった女の話を思い出した。


 くだらない御伽噺だと思っていたが、今ならその女の気持ちが良く分かる。禁断の炎は、出会いたくない時に限って出会ってしまうものなのだ。災いを直接目の当たりにすれば、相応の災難が自分の上にも降り掛かる。だから決して振り返ってはならない。


 しかし一方で、自分に破滅をもたらすものをどうしても見てみたいという欲もある。それは恐怖から発する欲だ。恐ろしい。だからこそ正体を見極めたい。そうして愚図々々しているうちに、災いに追い付かれてしまう。禁断の炎とは、時として山火事であり、雪崩であり、洪水であり、猛獣であり、そして敵対部族による侵略でもあったのだろう。


(誰が振り返るもんか!)


 ラハの眦に涙が浮かんだ。その涙が、彼女に振り返るという選択肢を忘れさせた。


 堪えようの無いほどの悔しさが彼女の胸を切り裂いた。別の場所で血を流し倒れたカナン同様に、ラハの心もまた血を流していた。


 怪物の砲撃は、古くなって壊れやすくなっていたエデンの街並みをいとも簡単に崩壊させてしまった。


 きっとあの儚く美しい小庭もまた、ほんのひと時だけ夢見た未来を巻き込んで、瓦礫の山に変わってしまったことだろう。


「畜生、畜生っ!!」


 結局こうなるのか。闇渡りの見る希望など、いつもこんな末路しか迎えられないのか。一晩だけしか飛ぶことを許されない蜉蝣のように、浮いたと思ったら落ちていくことしか出来ないのか。


 涙を流しながらも、俯かず憤怒の形相で前を睨み付ける。自分でも意識しないまま、両手の中にある子供たちの手を白くなるほど握り締めていた。自分の横顔を子供たちが見ていることにも、ラハは気が付かなかった。

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