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【第二二三節/晦冥 二】

 セリオンはエデンに対する砲撃に執心しているが、怪物の巨体から発せられる闇は、たゆむことなく大小様々な夜魔を生み出していた。その足元は最早伏魔殿の様相を呈しており、産み落とされたは良いが何を成せば良いのか分からない夜魔たちが茫然と突っ立っている。通常型の夜魔はネフィリムに踏み潰され、そのネフィリムもセリオンの長大な尾によって藁同然に掃き捨てられていた。


 しかし、その一部が難民たちの不安や恐怖を嗅ぎ付け、隊列も何も無く一斉にこちらへ向かいつつあった。一部とは言っても、軍勢の頭数は救征軍と比べ物にならない。


 一時的に部隊の指揮権を預かったゴドフロアは、四三三名まで減ったウルバヌス兵と二百名程度の操蛇族を引き連れて防衛線を構築した。また、そこでアブネルより彼の麾下の戦闘部隊を預けられている。この部隊の戦力は約四百名程度で、辺獄への遠征以前より戦い続けてきた最も練度の高い者たちによって構成されている。


 エデンの北西に広がるこの丘陵地帯はペヌエルと呼ばれ、辺獄の他の場所同様に岩石が転がる荒涼として土地だった。かつては様々な植物によって彩られていたのかもしれないが、今となっては名も知れない雑草が点在するのみである。身を隠すような遮蔽物も無いため、防衛拠点としては甚だ不適当だが、無防備な本隊を護るにはこの場所に布陣するほか無かった。


 また、この最悪の状況下で唯一の好事として、ラヴェンナに向かっていた補給部隊が戻って来てくれた点が挙げられる。物資も何も持たずにほとんど無着陸で飛び続けてきたため、人も竜も疲労が著しいが、それでも百という人手と五十頭以上の竜が合流してくれたのは心強い。今は後方に下げて休息させるしかないが、いよいよ切羽詰まってしまったら彼らにも最後の力を振り絞ってもらわなければならないだろう。


 クリシャも戻っていない。ラヴェンナ上空での閃光を見たきり、誰も彼女とヴォイチェフを補足していなかった。


 辺獄という過酷な旅程を考えれば、ここまで戦力が残っているのは奇跡的と言ってすら良い。しかしどこまでも不利で、勝ち筋の見えない戦いであることは明白だった。


 そしてその認識は、一兵士たちの間にさえ浸透している。


「……勝てると思うか、プフェル?」


 緩やかな丘陵に布陣した軍の一角で、サロムはプフェルに向かってそう問いかけた。周りでは他の兵士たちが迎撃の準備のために動きまわっているが、その手つきは決して軽やかではない。


「勝つって何さ」


 相棒のつっけんどんな答えに、サロムは思わず鼻白んでしまった。プフェルは淡泊な少年で、何につけても欲が薄い。時々、自分の命を軽んじているのではないかと思うことさえあった。


 だが、今になってそうではないのだとサロムは悟った。プフェルが本当に絶望しているのはこういう時なのだ。顔は青ざめ、唇は震えださないようにキッと締められている。それでも時々、わなわなと筋肉が動くのを止められない。華奢な身体は、軽く突けば倒れてしまいそうだ。素っ気無い態度は、自分の恐怖から目をそらすための儀式のようなものなのだろう。


 かく言う自分も、到底平静とは言い難いだろう。正直、ズボンが濡れていないかどうかの自覚すら無い。


「凄い数だな」


「見たら分かること、いちいち言わないでくれる?」


「怒るなよ」


「怒ってないって」


「じゃあ……怖いか?」


 当たり前じゃないか!! という絶叫は、周囲にいた者たちに共通する思いであったに違いない。視線が一斉に二人に向けられた。


「勝てるわけないだろ、あんなの! 何なんだよ……っ、ようやくエデンまで来たっていうのに、何であんな奴が出てくるんだよ! わけが分からない!」


 プフェルが地面にしゃがみ込んだ。これほどまでに弱り切った彼を目にするのは、サロムにとっても初めてのことだった。すぐに立ち上がらせようとするが、プフェルはすすり泣いたままその手を振り払う。冗談じゃない、泣きたいのは俺だって同じだ。そんな言葉が口から洩れかけた時、ごつごつとした分厚い手がプフェルの頭を掴んだ。


「立て」


 闇渡りのアブネルの重々しい声に、プフェルのみならず他の闇渡りまでもが動きを止めた。


「立って戦え。蹲っている奴は死ぬだけだ」


「……戦ったって死にますよ、あんなの」


 捨て鉢になっているからか、プフェルはアブネルにまで噛みついた。戦う前にぶちのめされる奴があるか、とサロムは思ったが、アブネルは新兵を殴ろうとはしなかった。


 代わりに、プフェルの服の襟首をつかんで無理やり立ち上がらせる。それから何故かサロムの襟首も掴み、火打石でも使うかのように両者の頭をゴンとぶつけた。


「な、何するんですか!」


「良い音だ。それだけ石頭なら、夜魔の爪も弾き返せる」


「だからっ……戦ったって無駄なんですよ! 分からないんですか!?」


 プフェルが手を払いのける。だが、それでもアブネルは、いささかも気を悪くした様子はなかった。


 それどころか、軽く微笑を浮かべて「分からん」と言い切った。


 プフェルやサロムだけでなく、他の闇渡りたちも一様にぽかんとした表情を浮かべた。アブネルが放ったあまりにあっけらかんとした言葉に驚かされたこともあるが、何よりもあの鉄面皮が曲がりなりにも笑顔を浮かべたことが信じられなかったのだ。



「俺は戦うこと以外に何をやったら良いのか分からん、程度の低い人間だ。この世の中にはもっと良い生き方がごまんとある事は知っているが、自分がどうやってその道を進んでいけば良いか分からん」



 闇の中、藪の中だ。


 そんなアブネルの呟きに頷く者が何人かあった。



「だが、一つ確実なのは、今日を生き延びなければ明日には行けないということだ。そして、そのためにはひたすら戦い抜くしかない。勝っても負けてもともかく生き抜く。その積み重ねが人を強くする」



 目を閉じなくとも、アブネルの視界の中にはいつも一つの背中が焼き付いて離れない。一体その背中のためにどれほど己の人生を撹拌されたか分からないが、しかし、もし出会っていなければ今日まで生き抜いてくることも出来なかった。


 彼は決して最強の男などではなかった。彼よりも強靭な戦士は何人もいたし、敗北同然の逃走を見せられたことも何度もある。


 だが、その度に彼は強さに磨きをかけていった。負けたその日のうちに、すぐに敵を打ち倒す方法を考えていた。目的の善悪はどうあれ、一途に己を磨き高め続ける姿勢が、いつの間にか彼を闇渡りの王の地位へと押し上げていた。


 そしてアブネルもまた、あまりに強烈な生への渇望を目の当たりにするごとに、知らず知らずのうちに奮い立たされてきた。


「……でも、こんな状況で生き抜こうだなんて……」


「それが闇渡りの生き方だ。俺もお前らも、それ以外に無い。どんなに絶望的であろうが突っ走るしか無い。

 ……お前は、闇渡りでいるのは、嫌か?」


「闇渡り以外の人生を生きたことなんて、無いですから」


 とうとうアブネルは大笑いした。何十年も前に彼とやったやり取りと、全く同じ形になったからだ。困惑するプフェルの頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。「それもそうだ」



「俺もかつては、闇渡りとしての自分にうんざりしたことがあった。何もかもを失って、自信も誇りも砕かれて、それでも生きなければならない。死ねるなら死にたいと何度も思った」



 何かに絶望したのは、一度や二度ではない。狂えるなら狂ってしまいたいと思ったことも数えきれないほどあった。部族を、ダリアを喪った時。その喪失の原因となったサウルまでもが死んでしまった時。名無しヶ丘で灰にされても良いと思った。


 闇渡りの行きつく先は、どこも同じだと思っていた。死ぬ瞬間には四方から闇が押し寄せてきて、地に堕ちた羽虫が蟻に食われるが如く、何も残せずにこの世を去るものだとばかり思っていた。



「だが……やってくるのは闇ばかりではないと、教えてくれた人がいる」



 今の自分の眼前にあるのは、かつて王と呼ばれた男の背中だけではない。


 ティヴォリ遺跡の森の中。首から上が欠けた、古の女神の像が置かれた広場。月明かりに照らされたそこで、他の何よりも神々しい光を纏っていたのは、どこまでもお人好しで泥臭い、一人の少女だった。




 ——どうか諦めないでください。




 あの日、あの時。カナンは自分たちから、諦めるという選択肢を優しく奪い去ってしまった。


 闇に包まれたこの世界で、月明かりや天火以外に輝くものがあるのだと知ってしまった。


 ことによるとそれは、絶望よりも過酷な道であるかもしれない。現にこんな時でさえ諦められずにいる。地獄を見るような戦いになるのは明らかで、そのまま本物の冥府へ直行することになるだろう。若い連中が怯えるのも無理はない。



「俺はカナン様を信じる。あの方には、他の継火手が持っていない力がある。


 その力がきっと、俺たちに暗闇以外の何かを見せてくれるはずだ」



 アブネルは、カナンが決して完璧な人間でないと知っている。彼女とて己の見えている範囲のことに思考を縛られるし、敵対する者たちを言葉だけで完全に制することも出来ない。


 今も、独断専行を起こした挙句、重傷を負って指揮を執れないでいることも知っている。


 だが、そんな彼女の欠点全てをひっくるめて、なお信じてみようという堅固な信頼があった。


 アブネルの穏やかな言葉は浮足立っていた闇渡りや兵士たちをいくらか落ち着かせた。もちろん彼の希望論が今の非情な現実を取り去ってくれるわけではないから、不安は依然として残っているし、プフェルやサロムの表情からも恐怖は消えていない。


 それでいて、アブネルを見る視線には今までとは異なった色合いが混ざっていた。元々熟練の戦士として尊敬を集めていた男だ。本人はむず痒く思っているが、憧憬や尊敬の念を抱かれる立場にある。


 しかし、武力に対する憧れだけではない。若い闇渡りたちがアブネルを見る視線には、ある種の信頼感のようなものが芽生えていた。



「……俺はお前たちに、救いになるようなことは何も言ってやれない。俺の中にそんな言葉は無い。


 俺に出来るのは、せめて他の連中に光が差し込むまで粘ることくらいだ。お前たち以外にも、若手の連中はなるべく後方に行くよう配置してある。当然やるべきことはやってもらうが、お前たちは少しでも長く生き延びる方法を考えろ」



 言い終わると、アブネルは二人の肩を軽く叩いた。


 決して強い力で叩かれたわけでもないし、長々と手を置いていたわけでもない。アブネルは他の部隊の指揮を執るためにすぐに離れて行ってしまった。


 だが、この時に感じた深い安堵感を、二人は人生の終わりまで決して忘れることがなかった。




◇◇◇




 救征軍の退避するのを待っていたかのように、エデンの大燈台を護っていた障壁がついに破壊された。ガラスの割れるような音は、すぐさま燈台の外壁が光線によって抉られる轟音へと取って代わられた。セリオンが吼え猛り、胴体に生えた無数の円柱から噴き出る闇は益々濃くなっていく。


 ペヌエルでの布陣を完了した救征軍全部隊は一様に身体を固くしたが、ほどなくして誰しも予想しなかった展開が生じた。



 こちらに攻撃の矛先を向けると思われたセリオンが、唐突にその動きを停止させたのである。



 死んだのか? という誰かの呟きを否定するように、怪物の七つの口からそれぞれ咆哮が漏れ出る。しかしその音量は今までよりも格段に小さくなっていた。


 特別夜目の利く者が視線を凝らすと、エデンの燈台を打ち倒した怪物の体表に、何か植物の根のようなものが張り巡らされているのが見えた。地面を突き破って現れたそれが、鰐を思わせる脚に絡みつき、それぞれの首を締めあげているのだ。


「……何が起きているのだ」


 全軍の指揮権を預かったゴドフロアも、流石に様子を見守るしかなかった。


 だが、燈台の内部で実際にエデンの主と相対したアブネルは、あれが直感的にの仕業であると見抜いていた。あれほど傲慢な口ぶりの者が、わざわざ助け船を出してくれたとは到底考えられない。


 そして、その目的について推理している余裕も無かった。セリオンは動きを止めたが、そこから這い出てきた夜魔共の群れは依然こちらに向かっているのである。あたかも岸辺に波が押し寄せる如く、今まさに先鋒と先鋒とがぶつかろうとしていた。


(……どこまで行ける?)


 全軍の先頭に立ったアブネルが、伐剣を抜き放つ。他の闇渡りや兵士たちも彼の動作に倣った。


(何を見られる?)


 ふと頭の片隅に、一人の女の姿が浮かんだ。神も天使も居ない世界で己の生を貫いた、尊敬してやまない戦士の姿が。


 あるいは軍勢に取り囲まれ、矢や焼夷弾の雨を浴びながらも悠々と笑っていた王の姿が浮かんだ。待ち構える槍衾に向かって笑いながら斬り込み、二度と会うことは無かった。


 彼らの見せてくれた生き様は、今でも自分の中に息づいている。善人か悪人かなど関係ない。二人とも、己のような凡人とは遠くかけ離れた連中だった。


 そんな二人でさえ見られなかった光景を、今の自分は目の当たりにしている。


 そして、自分が彼らを見ていたように、今や自分が見られる側になっている。


「何を見せてやれるか……」


 赤い眼光の津波が押し寄せる。浴びせかけられる矢など気にも留めず、夜魔たちの先鋒が各々の得物を翻した。アブネルのすぐ目の前にまで迫ったアルマロスが刺突の構えを取る。それが突き込まれるよりも先に、彼の振り下ろした伐剣が敵の頭蓋を砕いていた。


 救征軍の最後の戦いが始まった。

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