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【第二二三節/晦冥 三】

 エルシャの大燈台に置かれた本営へ向かう途中、ユディトは馬上から市内の様子を観察していた。


 覚悟はしていたが酷い有り様だった。ネフィリムの投げ込む巨石によって家々は潰され、火災があちこちで発生している。だが誰も消そうとはしない。統率者が欠けているために、群衆たちはただの有象無象と化している。途中何度も、降りて声を掛けようかと思ったが、いくらユディトの力をもってしても止められないだけの混乱が市中を満たしていた。


 火災の件などは、エルシャを包む混乱の一要素に過ぎない。そもそも避難準備が満足に出来ていないために、戦火を逃れてきた人々が大通りにまで溢れ出ている。どう考えても持っていけないだけの荷物を荷車に押し込んでいる者もいるが、えてして車をひっくり返しては、地面に持ち物を散乱させて通行の邪魔をしていた。


 そんな被災者を狙う暴徒までもが現れ、獲物になりそうな者を見つけては容赦無く襲い掛かっている。明らかに闇渡りと分かる肌の者まで紛れ込んでいる始末だ。伐剣を振り回す様には、最早隠そうという意思など微塵も見受けられない。


(……あるいは、エルシャここはもうとっくに夜の世界の一部になっている、ということか)


 すでにネフィリムの投擲は、大燈台の基部を抉り始めている。ユディトが守っていた東側はもとより、正門も限界が近いだろう。むしろ防衛部隊の不利を察知したからこそ、市民たちの不安感情に火がついて一斉に逃走を開始したのだ。


 こうなるであろうことをユディトはあらかじめ予想していた。籠城戦とは軍隊だけで行うものではない。その背後にある、守るべき民草と協調することによってはじめて成功するものなのだ。だからこそ、彼らをいかに守り、なおかつ戦闘に支障をきたさないようにするかという点まで考え抜かなければならない。


 だが、そこまで手を回すことが出来なかった。時間的問題もあるが、そこは不眠不休で取り組めば良い。


 問題は、ユディトにエルシャ全体を差配するだけの権限が無かったことだ。


 いくら大祭司の娘とはいえ、いくら能力を証明してきたからとはいえ、ユディトは正式に継火手になって一年も経っていない。あまりに若過ぎたのだ。むしろ、貴重な街道警備隊を五百名も預けられただけでも破格と言うべきだろう。


 戦の準備を進めるなかで、ともすれば若さゆえに驕り過ぎているのだろうか、と何度となく思いもした。しかし東門の弱点や貧民街の構造を調べ上げ、配下の部隊にも私費を投じて少しでも良い装備を持たせるなど、やるべきことを全てやり切ってなおユディトには余力があった。それでいて他の部隊はさほど準備が進んでいない。結果的に、自分の能力が浮き彫りになった形だが、何一つ嬉しくはなかった。



(権限が欲しい……いや、欲しかったッ!)



 避難民たちを文字通り蹴散らしている伝令兵たちの後ろで、ユディトは手綱を強く握り締めた。彼女の苦悶の表情に気付く者は誰もいなかった。


 こうなればせめて、今からでも戦力の再配置と避難指示を進言すべきだとユディトは思い直した。


 だが、大本営となっている神殿内の議事堂に到着した時、彼女の最後の期待は無残に裏切られた。




「…………は?」




 誰もいなかったのである。


 大祭司も、将軍も、名家の継火手も、誰もいない。ユディトの頭の中にはエルシャ社交界の重鎮たちが肖像画付きで記録されているが、その中の誰一人として現れなかったのである。


 護衛の兵士たちは神殿の外に配置されていた。恐らく一部の伝令兵を除いて、出入りさせないようにしていたのだろう。また神殿の別の部屋からは、天火を持たない祭司たちが一心不乱に祈りを捧げる声が聞こえてくる。よもや上位の者たちに見捨てられたなど夢にも思うまい。


 彼らに気付かれずに神殿から出ていく通路はいくつもある。今となっては脱出も相当厳しくなっているが、恐らく有力な継火手や守火手が護衛についているのだろう。


 ふと脳裏に、戦塵だらけになって駆け付けてくれたタマルや、傷ついた妹を抱えて真っ青になっているイザベルの顔が浮かんで、あまりの情けなさと申し訳なさに涙が出た。


 罪悪感から居ても立っても居られなくなり、ユディトは神殿の入り口に向けて駆け出そうとした。およそ理性的な判断とは思えないが、この事実を市民や兵士たちに向けて触れ回ろうと思ったのだ。そんなことをすればどれほどの大惨事となるか、普段のユディトならば容易に想像出来ただろうが、今の彼女の胸中はただただ真実を打ち明けたい一心に支配されていた。



「待ちなさい、ユディト」



 彼女を押しとどめたのは、この世の誰よりも聞きなれた人の声だった。



「父上……」



 いつの間にか、議事堂の柱の影に沿うように、父エルアザルが立っていた。ユディトは息を呑んだ。もしかしたら、己の義務感に目覚めて戻って来てくれたのではないか。父親に対する彼女の信頼が、脳裡に都合の良い幻想を生み出した。


 しかし、ユディトの冷徹な理性は気付いていた。他の貴族たちが姿を見せない時点で、最早このエルシャに騎士道精神や倫理観など欠片も残っていないことを。


「エルシャから脱出しなさい。今ならまだ間に合う」


 冗談でしょう? と笑い飛ばそうとした。だが、彼女の口は不自然に引き攣っただけで、思ったような言葉も表情も出てきてはくれなかった。「何を仰っているのですか?」と聞き返すのが精いっぱいだった。


「テサロニカの親族とは話がついておる。従弟との縁談もまとまった。居場所を失うことは無かろう」


「……ちょっと、待って……」


「資産もお前の名義で、向こうの銀行に預けてある」


「父上……」


「急ぐのだ。夜魔共は正門や東門に引きつけられておる。今ならテサロニカ方面は安全だろう」


「父上っ!!」


 全力疾走をしたわけでもないのに、息が上がっていた。現に過呼吸になりかけていた。自身の恐慌を意識して何とか気持ちを落ち着かせる。


 その間、エルアザルは何も言わなかった。ユディトは呼吸を抑え込みながら父の顔を見つめるが、それは強固な意思によって冷たく固定されていた。


「エルシャを棄てろ、と……?」


 エルアザルは沈黙した。だが、沈黙はかえってユディトの感情を掻き立てるだけだった。



「こんな時に冗談を言わないでください! 皆……皆、戦っているのですよ!? 今も最前線で、血を流して……っ」



「エルシャは陥落する。抵抗は無意味だ」



 それはユディトのみならず、彼女と共に戦ってくれた多くの戦士たちを侮辱する言葉だった。瞬間的に目の前が赤く染まり、「言って良いことと悪いことがあります!」と怒鳴っていた。


 かつて、父に向けてこれほど大声を出したこともなければ、反意を剥き出しにしたことも無かった。


 それでも、溢れ出る言葉を止められない。



「恥ずかしくないのですか! いつも偉そうなことを言うばかりで、高い所にふんぞり返って、いざ危機が迫ったら何もしないで逃げ出すなんて! 


 人に苦しみを押し付けるばかりで、自分たちはそれを少しも背負おうとせず、安全なところから命令するばかりだなんて!


 そんなもの、祭司とも継火手とも名乗っちゃいけない……ただの、人間の屑です!


 父上は、私にそんな最低の人間になれと仰るのですか!?」



 ユディトの叫びは幾重にも反響して、議事堂の高い天井へと吸い込まれていった。残響が消えるまでエルアザルは何も言わず、ただ彼女に罵倒されるままになっていた。


 肩をいからせながら、さらに口を開こうとした時、エルアザルがぽつりと呟いた。



「それでも、お前が死んでしまうよりはずっと良い」

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