膝から力が抜けそうになった。冷水を浴びせかけられたかのように、全身がサッと冷えていくのが分かった。父の声は決して咎めるようでもなく、怒りも含んでいなかったが、今まで聞いたどんな声音よりも強く彼女の印象に残った。
「儂はすでにカナンを失った。あの子のことを良く分かってやれなんだが、それでも我が娘。失って痛みを覚えんわけがない。
ましてやユディト。お前は儂にとって真に自慢の娘だった。こんな時代、こんな状況だからこそ思うのかもしれんが、他のどのような物もお前とは到底比べ物にならん」
決して満点の父親ではないと、ユディトも思ってきた。カナンほど明確にそりが合わないわけではないが、父が男性なりの物の考え方で、自分たちの生を規定していることには違和感を覚えないでもなかった。
それでも、父の言動の一つ一つは、確かに自分たちを思いやってのものばかりだった。想像力の乏しい人間が、自分の知っている範囲の幸福を他者に与えようとするのは、至極当然のことである。エルアザルもそういう人間の一人だったということだ。
「最早この世界に安全な場所など存在しない。そんなことは承知しておる。エルシャが陥落すれば、次は間違いなくテサロニカだろう。儂のやろうとしていることは、お前に辛いことばかりを強いるものかもしれん。
しかしな、ユディト……儂はお前に、自分より一分一秒でも長く生きていて欲しいのだ。
エルシャは間違いなく死地だが、テサロニカで生き延びることが出来れば……あるいは、この厄災が神の恩寵によって終結するやもしれん。その可能性に賭けたいのだ」
ユディトはまるで、世界の外側にぽつりと一人きりで置かれたような心地になった。
戦火の音、祈りの声が意識から遠ざけられる。着弾したネフィリムの擲弾が燈台を揺らし、天井からぱらぱらと粉塵が零れてきたが、それさえ気にならなかった。
父の言うことは分かる。いや、今や手元に残ったたった一人の娘として、分かってやらなければならないとさえ思う。ユディトは意思の強い女性だが、決して他人の心を無碍に扱ったりはしない。祭司の娘として合理的な物の考え方を叩き込まれてきたが、同時に女性としての柔らかな感性も備えている。
その彼女の感性が……優しさが、血縁としての情が、ユディトを縛り付けた。
義務感や正義、倫理。それらが大事であることは分かり過ぎるほどに分かっている。父の願いがそれらに反することも分かっている。
エルアザル自身にしても、ユディトにこのような選択を強いることは本意ではなかっただろう。父が生き延びさせようとしているのはあくまでユディトだけで、自分はエルシャと運命を共にするつもりなのだ。政治家として俗的な野心は持ちつつも、一方で自分やカナンに義務感を説き続けてきたのは他ならぬ父自身なのだから。
彼は、ユディトの視線からも言葉からも決して目を背けようとしなかった。すでに覚悟を固めたものでなければ、そんな風には振舞えない。
「父上は……
ユディトがそう言って初めて、エルアザルは少しだけ笑って見せた。眦に
「娘のためには何でもする。父親とはそういうものだ」
娘、という言葉が自分だけに向けられたものでないことを、ユディトは即座に察した。
ユディトは知っている。カナンの出奔の後、彼がどれほどの煩悶を味わったかを。白髪もずいぶんと増え、顔の
彼は決してカナンを愛していなかったわけではない。ただ愛し方が分からなかったのだ。
子供が分からないことを一つずつ覚えていくように、子を持ったことのない親もまた、子供と共に一つずつ経験を積み上げていかなければならない。幸か不幸か双子として生まれてきたばかりに、親として困惑も多かったことだろう。
今でもエルアザルの中では、カナンに対して十分なことをしてやれなかったという想いが残っているに違いない。怒りの感情は当然あれど、それと同等か、あるいはそれ以上の注ぎ切れなかった愛情が出口を求めている。
大祭司という立場や名誉に泥を塗ってでもユディトを助けようとするのは、そんな愛情が成させたことなのだ。
その重みを十分想像出来るがために、ユディトは思わず「分かりました」と言いかけた。
「……それでも私は、出来ません」
だが、言えなかった。
エルアザルの表情が曇る。
しかしどこかで、ユディトがそう答えることを分かっていた。そんな表情だった。
ユディトは言えなかった。
ここを出ていくということは……戦っている者たちを置いていくということは……ギデオンを棄てていくことに他ならないからだ。
「ギデオンのことかね」
ユディトは一瞬驚いた顔をした。父は、そういう機微には疎い人間だと思っていたからだ。
「儂とて木の根から生まれたわけではない。お前の振る舞いを見ていたら簡単に分かる。だからこそ、彼をお前の守火手にすることにも反対しなかったのだ。」
簡単に分かるとまで言われたら立つ瀬がない。ユディトは少し顔を赤らめながら頷いた。
「何故、それほどまでに彼を想うのかね」
「……答えないといけませんか?」
こんな時に、なんてやり取りをしているのだろうとユディトは思った。
彼女とて年頃の少女である。普段ならば、父親相手にこんな話は絶対にしたくはない。
あるいは、平和な時に暖炉の前でふと世間話のようにするのであったなら……父を信頼して、打ち明けられたかもしれない。それが最も良い形であっただろう。
言いたいことはすらすらと頭の中に浮かんできた。何故ギデオンを愛するのか? そんな問い掛けは、今までに飽きるほど自問してきた。
小さく息を吸い、覚悟を固めてからユディトは口を開いた。
これが父との最後の会話になるかもしれない。そう思った。
「ギデオンと出会わなければ、私は……自信を持つことの出来ない、卑屈な女に育っていたと思います。
いつもカナンとの比較を気にして、あの子が簡単にやってのけることがどうして出来ないんだろうって悩んで……あの子を憎んでしまっていたかもしれない。
今の私を見て、色んな人が褒めてくれます。綺麗だとか、賢いだとか……でも、私は綺麗になることを目標にしたことは一度もありませんでした。ただあの人に見てもらいたかった。
あの人を想って……少しでも振り向いてほしくて……そうしてがむしゃらに走り続けていたら、いつの間にかエルシャで一番美しい継火手などと持て囃されるようになっていました」
――結局は、登り詰めたいと思うものに出会えるか、その
初めて出会ったあの日、ギデオンが何気なく口にした言葉は、いつもユディトの中にあった。
彼にとっては自明のことであったかもしれない。だがユディトにとっては、あの言葉こそが全ての始まりだった。カナンの双子の姉としてではなく、ましてや比較対象としてでなく、紛れも無いただ一人の存在として生きていく、その始まりとなったのだ。
「私はまだ満足していません。行きたいと思う場所にたどり着けていない。
その場所に手が届くまでは、何もかも通過点に過ぎないけれど……でも、そんな風に生きていく私のことが、私は好きです。
そして、私が自分を愛せるようになった切っ掛けを作ってくれた人を、私は愛しています」
ユディトは剣を抜いた。それを、滝のように流れる美しい金色の髪に添え、迷いなく断ち切った。
少年のように短い髪ばかりになった頭を振り、ユディトは片手に握り締めた髪を父の手の中に押し込んだ。
「父上……ユディトとカナンを、ここまで育てて下さってありがとうございました。
私も妹も幸せ者です。御恩も感謝も、とても言葉では言い尽くせません。きっとあの子も同じ想いのはずです。
姉妹揃って旅立つことを、どうかお許しください」
エルアザルは無言で娘の身体を抱き寄せて、かつて幼子の頃にそうしたように頭を撫でた。限界まで感情を押し殺しながら、それでも震え涙ぐむ声は止めきれないまま、不在の神に祈りの言葉を捧げる。
「天を去られし神よ、どうか我が娘たちの前途に……」
人の心は見えない。だが、ユディトには父の心境を想像することが出来た。張り裂けんばかりの痛みであろう。それにも関わらず、なお自分たちのために祈ろうとする父を想うと、彼女の胸もまた締め付けられるようだった。
なればこそ笑って見せなければならない。ユディトはカナンを恨んだが、ふと思い直した。ひょっとしたら自分が長女として生まれてきたのは、こんな時にカナンの代わりに親へ笑顔を見せるためだったのかもしれない、と。
名残惜しさを引きずりながら、それでもユディトは父から離れた。眦に涙が滲むが、それを弾き飛ばすような煌々とした笑みを浮かべ、「行ってきます」と言った。
「行っておいで、ユディト」
この世に一つしかない笑顔を瞼に焼きつけ、エルアザルは言った。
カナンのことも、そう言って送り出してやれば良かったと思った。