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【第二二三節/晦冥 五】

 いざ飛び出してはみたものの、東門の戦域に戻るのはそれだけで一苦労だった。


 何しろ避難民の数はユディトが呼び出された時よりも遥かに増えており、満足に誘導もなされていないためあちこちで混乱をきたしている。燈台の前に配置された護衛兵たちと一触即発の睨み合いになっていたり、空き家になった上流階級の邸宅に飛び込む者もいる。


 恐らく自分たちの屋敷にも強盗紛いの連中が群がっているだろう。しかしそんなことは、今のユディトにとってはどうでも良かった。


 馬は使えない。いくら何でも避難民たちを轢き殺して進むわけにはいかない。


 ではどうするかと言うと、継火手としての身体能力を頼りに家々の屋根を飛び越えていくしかなかった。奇しくもイスラがカナンと初めて出会った日にやっていたことと同じ方法である。エルシャの家々の屋根には大抵の場合家庭菜園が作られており、家屋も少しでも多く造るため過密気味である。そのことが返って良い方向に働いてくれた。


 避難民に逆流して城壁の方へ向かうにつれ、逃げ惑う人々の中に兵士たちの姿が散見されるようになった。ふと南側の正門の方を見ると、城壁の頂に手を掛けたネフィリムたちが這い上がろうとしているところだった。あれほどの大物を止められなかったということはすなわち、防衛部隊が敗走したということである。


 エルシャの、事実上の落城であった。


 それでもユディトは、貧民街に設けられた仮指揮所へと辿り着いた。


 肩で息を切らせ、少年のように短くなった髪を汗まみれの額に張り付かせた彼女を、誰もが驚いたような表情で迎えた。継火手ユディトと言えば、輝く滝のような長い髪の毛が代名詞であったからだ。


「ユディト様、御無事で……!」


 駆け寄ってきた継火手タマルが、ユディトの両手を握り締めた。イザベルが水と手拭いを持ってくる。それを受け取り、一息ついてから、ユディトは本陣がもぬけの殻と化していることを二人に伝えた。


「……ごめんなさい、タマルさん。貴女のような人たちにばかり、苦労を掛けさせてしまって」


 ユディトは深々と頭を下げた。タマルが目を白黒させる。


「そんな! ユディト様の責任ではありません、どうかお顔を上げてください!」


 そうは言われても、しばらくは頭を下げていたかった。


「こうなってしまっては、もう戦い続けることも不可能です。正門も破られ、夜魔が市内に雪崩れ込もうとしています。かくなる上は、少しでも戦力や避難民を連れて、エルシャを脱出しないと……」


 脱出の可能性を探るために頭を働かせた時、ユディトはふと違和感を覚えた。


 他の戦区が潰走しているというのに、タマルに任せていた貧民街側は不思議と落ち着いている。現に指揮官代理の彼女が話し込んでいる余裕があるくらいなのだ。兵士たちにしても、負傷兵を看護する者以外はさほど慌ただしく走り回ってはいない。もちろん呑気に構えているわけではないし、ユディトらの会話を不安げに見ている者もいるが、そうやって周りを見る余裕があること自体、戦場では珍しい。


「タマルさん、まさか……ギデオンはまだ……?」


「はい。今も最前線で戦い続けておられます」




◇◇◇




 この時、エルシャに攻め寄せる夜魔の軍勢の重心は、間違いなく東門の一点に置かれていたことだろう。


 彼らには統率された意思があるわけではない。あるのは動物的な本能と、人の恐怖や狂気といった歪みに引き寄せられる嗅覚のみである。


 だからこそ、絶体絶命の死地で一片の恐れも無く傲然と胸を張る男に、かえって引き寄せられたのかもしれない。


 彼らは一切攻撃を加えようとしなかった。グレゴリも、アルマロスも、アタナトイも、あるいはネフィリムでさえも、ただ取り囲んで見下ろすだけである。中には辺獄に現れた見者ハサイェも紛れていただろうか。


 彼らの持つ、無数の赤い眼球は、円陣の中で対峙するギデオンとホロフェルネスをじっと観察していた。


 かつて千傷の闇渡りと呼ばれた男は、今や完全な異形と化していた。ウルクの大坑窟が吹き飛ばされた際、体内に隠し持っていた黒炎のお陰で何とか生き延びることが出来たが、その時はすでに人の形を成してはいなかった。


 そんな有様になってなお生き延びようとする執念を夜魔が食らった。最早ホロフェルネスは人でもなければ夜魔でもなく、永遠にこの地上を彷徨い続けるしかない亡者である。


 だが、当の本人はそのことについて全く無頓着だった。大爆発の際に脳髄をほとんど失ったためでもあるが、元より性根の部分が破綻している人間だ。自分が完全な怪物と化したことについて、一切葛藤が無かった。


 今や彼の肉体も、正真正銘、怪物のそれと化している。大剣と一体化した右腕を振り回し、鰐のような頭から唾液を撒き散らす姿は、御伽噺に出てくる魔人そのものだった。もしもティヴォリ遺跡での出来事を見た者がいたなら、即座に夜魔憑きの魔人との関連に気付いたことだろう。


 大剣の表面に浮かんだ爪や鱗が飛び出し、ギデオンに向けて殺到する。剣匠は建物や残骸を盾にして一部をやり過ごし、それでもなお向かってくるものは神速の剣捌きで叩き落した。


 あっさりとやっているが、放たれた数は優に百を超え、しかも微妙に軌道をずらして襲い掛かってくる。並みの人間では簡単に全身の肉を削ぎ落されるだろう。ましてや、そんなものを放つ怪物に向かって突進するのは、勇気を通り越して蛮勇である。


 しかし、そもそもギデオンは恐怖を感じていなかった。勇気とは恐怖を克服して始めて生じるものである。


 この攻撃は以前に一度見たことがある。最初は驚かされたが今となっては何の新味も無い。


 そんな分かり切った攻撃を捌くのに、どうして恐怖を覚える必要があるのか?


 襲い掛かる飛刃を叩き落しながらギデオンは一気に加速してホロフェルネスとの距離を詰めた。エルバールの刀身に蓄えられた天火が、虚空に鮮やかな残光を描く。


 攻め寄せるギデオンに向けて、ホロフェルネスが右腕を持ち上げた。大剣の中心に亀裂が走り、まるで竜の顎のように上下へと別れる。


『消し炭だァ……!!』


 ホロフェルネスの喜悦交じりの声と共に、黒い炎が剣より噴き出す。その熱量は伊達ではなく、地面に散乱した武器や建材の鉄をいともたやすく灼熱させた。


 だが、ギデオンは避けるどころか、あえて真正面から突撃する。


 天を穿つかのように掲げられたエルバールが、ギデオンの裂帛の気合と共に振り下ろされた。天火を纏った聖剣は邪悪な黒炎を真っ二つに叩き斬る。あたかも、神の恩寵によって大海を割った預言者のようであった。


 しかしホロフェルネスもまた、ギデオンの尋常ならざる力量を理解している。この程度の攻撃で仕留められるとは到底考えていない。


 炎の波を断ち斬った先に、横倒しにされたあぎとの大剣が待ち構えていた。薔薇の茎を切る園丁よろしく、剣を鋏に使ってギデオンを真っ二つにしようとしたのだ。表面には牙が生えて蠢いており、人間どころか神殿の柱でさえ容易に潰せるであろう。


 ましてや、ギデオンは縦に剣を振り下ろしたばかりである。到底斬り返せないとホロフェルネスは踏んだ。


 だが、その予測は、彼がまだ剣匠を甘く見ていた証拠である。


 炎の津波を斬り裂くと同時に、ギデオンは両腕に掛かる負荷などお構いなしに手首を捻り、即座に振り上げられる形へと切り替えていた。敵の先の先を読むのは戦士として当然のことだが、それを実行したうえでさらに技術的に困難な対応策を実行するあたりに、ギデオンの剣腕が如実に現れている。


 確かにエルバールは軽い剣だが、それでも武器であることに代わりはない。ましてや渾身の力で振り下ろした後なので、その慣性を殺しきるだけでも大変である。あえて地面に当て、その反動で斬り上げる方法もあるにはあるが、エルバールが抜けなくなる可能性の方が返って髙かった。


 文字通りの斬り返しが、ホロフェルネスの右肘を破壊した。ちょうど、顎の剣の連結部となっている部分である。


 一瞬にして形成が逆転する。ホロフェルネスは得物を失い、その巨大な体躯の懐にギデオンを招き入れてしまった。


 すぐさま、両膝より不死隊兵士の上体を飛び出させる。接近された際の自衛策の一つだ。どちらも剣と盾で武装しており、特に盾の先端には鋭い鍵爪が生えている。いわゆる隠し玉……あるいは隠し腕といったところだろうか。


 しかし二体の人形はすぐに薙ぎ払われた。のみならず、左膝から下が吹き飛んだ。『お、おおっ……!?』巨躯が地面に片膝を立てる。ホロフェルネスはまだ抗う。左腕に意識を集中し、顎の大剣を再構築する。


 結局、その大剣も実体化することは無かった。左肩ごと断ち斬られる。


 こうなっては無理だ、とホロフェルネスは後退を選んだ。夜魔の身体ならば右脚だけでも十分に跳躍可能である。一旦間合いをとり態勢を立て直すことを図った。


 だが、ホロフェルネスの身体が浮くのと全く同時に、ギデオンもまた跳躍していた。


 右肩から左脇腹にかけて、怪物の巨体が斬り下ろされる。胴体が分離する。胸像と化したホロフェルネスは無残に地面を転がった。


 ギデオンはその残骸を踏みつけ、何事かわめこうとした口にエルバールの切っ先を捻じ込んだ。


 そして、嘆息した。



「……弱過ぎる。てんで話にならん。怪物の力とやらは、この程度のものなのか?」



 剣匠の顔には、勝利の余韻も生存の安堵も、一切浮かんでいなかった。ただ失望感だけが浮かんでいる。


 かつてホロフェルネスには苦戦させられた記憶がある。黒い天火に頼り切った戦い方で、それが無ければ二十回でも三十回でも殺せていた相手だが、面倒な敵であったことには違いない。


 だからこそ、今の自分の敵手として十分な力を見せつけてくれるものだと期待したのだが、こんなにあっさりと決着がついてしまっては歯ごたえが無さ過ぎる。怪物の力などというのも、所詮は虚仮脅しに過ぎなかった……そう思った。


『そうだ、俺じゃあこの程度だ』


 潰した方の口とは別のところから声が聞こえた。見ると、ホロフェルネスの右側頭部に人間のそれと同じ大きさの口が開いていた。


「ならば、もう話すことも無い。すまないが俺は忙しい。これ以上貴様に付き合っている暇は……」


 ぐちゅ、と泥だまりを踏んだような音がした。


 ギデオンはふと辺りを見渡す。それまで二人の戦いを見下ろしていた夜魔たちが、どろどろと溶け崩れようとしていた。消滅ではない。夜魔は死ねば灰になる。これは、それとは全く異なる現象だ。


 溶けた夜魔の肉体は汚泥と化し、それがいくつも合わさって川となった。その向かう先はギデオンである。


 ホロフェルネスが嗤った。



『俺じゃあこの程度だった。


 なら、お前みたいな狂人が夜魔になったら、一体どれほどの化け物になるだろうな?』

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