ツァラハト全土において厄災が絶頂を迎えるなか、煌都パルミラだけは唯一組織的な抵抗を継続していた。
黒線から現れた夜魔の第一波を退け、僅かな休息の後に第二波と衝突した彼らは、依然揺るがぬ闘争心と勇気をもって自らの地所を護らんとしていた。むしろ、到底対抗不可能と思えるような攻勢を凌ぎ切ったことによって、士気は当初よりも膨らんでいたほどだ。
都市の各所に設置された投石機やバリスタが面制圧を行い、城壁に配された弓兵たちが盛んに援護射撃を加え、城壁を登ってきた夜魔たちに対しては兵士たちが数人がかりで抑え込んだ。通常型やアルマロスはおろか、自分たちの身の丈以上のグレゴリに対してさえ噛り付いて見せた。
当然、人ならざる者と戦うのは容易ではない。相応の犠牲が出る。グレゴリの頭を潰そうとして背中によじ登った者が、振り払われてそのまま城壁の外へと放り出される例が続出した。
また、アルマロスの刃とて決して侮れるものではない。長い四肢のために間合いに差があり、足さばきは俊敏で、加えて命を顧みない大胆不敵な攻め手が採れる。そもそも城壁を登ってくる速さが他の種類よりも段違いに速かった。一般兵はもとより、最精鋭の都外巡察隊士ですら不覚を取ることがあった。
継火手や、彼女たちから天火を預かった守火手が抑えに動いたが、戦域の広さと戦力比に対して絶対数が足りていない。その上、城壁に向けて一心不乱に突進してくるネフィリムやアフタブートを迎撃するので手一杯になっていた。
それでも、パルミラの防御は崩れない。
無論、各員が全力を尽くしていたからではある。だがそれに加えて、戦に先立って積み上げられた様々な準備が効き始めていた。
守火手や都外巡察隊士の持つ剣には、難民団から「貸与」された高品質の聖銀が使われている。天火を吸う性質があるそれらの武具は、継火手がいない場所でも疑似的に天火としての能力を示した。これによって、強力な夜魔を倒すのに用いる時間が格段に短くなった。
当たり前だが、そうした精鋭を常に一か所に置いておくことは出来ない。故に都外巡察隊はもっぱら遊撃隊としての任務を主としていた。そして彼らの俊敏さを最大限に活かしているのは、参謀長ナザラトの的確な分析と、ラエドの迅速な判断あればこそだった。
トビアが上空に待機している点も大きい。戦場全体を俯瞰出来る目があるのは重要だ。閃光弾を使った交信であるためどうしても大雑把な情報になってしまうが、そこは地上から観測出来る事象と符合させることによって精度を高めていた。
そして何より、必要な場所に即座に援軍や物資を送り込むための経路が確立されていた点……すなわち緻密な兵站線が確立されていた点こそが、パルミラの粘り強さの根幹であった。
籠城戦であるが故に、城内に兵站線が存在するのは当然である。それを構築する難易度も、遠征に比べれば遥かに容易であろう。
しかしその「容易」な仕事について、ナザラトは全く手を抜かなかった。むしろ、彼が決戦当日まで心血を注ぎ続けたのはこの分野であろう。
戦場は常に変動する。どれほど月明かりの差し込む日であろうと、人と人とが相争う場には必ず霧が掛かっている。自らの組する陣営を勝利に導くためには、前線の兵士たちが必要とするものを、必要な時節に応じて迅速に提供することが肝要である。
籠城戦は、一見すると物資も人も使い放題のように思える。しかし現実には、複雑な市街地で混乱をきたさないように連絡を確立しなければならない。物と物とがぶつかったままどちらも前線に届かず、いつの間にか部隊が全滅している……そのような可能性とて存在するのだ。
だからナザラトは、事前に立てた部隊の配備計画を基に市街地の一部を開拓していた。狙いは当然、人と物の往来を円滑にするためである。最低でも馬車二台がすれ違えるだけの幅を確保しており、必ず左手側の通路を使用するよう厳命されていた。
だが、パルミラは元々、ティグリス川に点在する中州を繋げて出来た街である。島と島の間には石橋が無数に架けられており、これらを通らないことには前線までたどり着けない。かといって馬鹿正直に橋を使っていたら渋滞は避けられず、ひいては全軍の崩壊を招きかねない。
ならばどうするか。
簡単である。ティグリス川の流れを活かして、兵站線を上下に二重化させるのである。街が丸ごと一つ収まるほどの大河ではあるが、流れは穏やかだ。橋下には貧民たちの住居替わりの筏や、支柱に寄生するような形の家屋が密集しているが、戦闘に先立ってそれらは全て取り壊されていた。そうして開けられた空間に太い綱を張り巡らせ、それを伝って筏や小舟を行き来させる。
この水路を用いた兵站線は、もっぱら負傷者の後送のために使われた。回収にあたるのは三十代以上の予備兵たちで、よほど切羽詰まっていない限りは戦力として投入されない者たちだ。
そうして後方に送られた負傷者たちは、開放された神殿や議事堂で応急措置を受ける。志願してパルミラに残った市民や、あるいは年齢を重ねて天火が弱くなってしまった継火手が救護に当たっていた。
依然として油断ならない戦況であることは確かだが、この時まではパルミラはある程度の余裕を保って戦うことが出来ていた。現に、継火手の一部を戦場から引き抜いて休息にあてることが出来ていたほどである。
だが、ほころびはまさに最後方より生じた。
◇◇◇
「救護要員が足りない?」
本陣に届けられた報告を聞いたラエドは、顔を顰めるよりも先に首を傾げた。ナザラトも怪訝な表情を浮かべている。
夜魔の攻勢は苛烈さを増しているが、どの戦線も極端なほど追い詰められてはいない。中級指揮官たちは整然と、かつ迅速に兵を動かして敵の「処理」にあたっている。無論、負傷者の数は漸増しているが、一気に後方が破綻するほど大量の損害は今のところ出ていない。
人手不足といえば、現在パルミラのどこに行ってもそうである。
(聞き流すべきか?)
一瞬、ラエドはそう考えたが、この報告には何かのっぴきならない危険が潜んでいるような気がした。物証から出た判断ではなく完全に彼の直感である。非科学的、非合理的と言われればそこまでかもしれないが、言語化出来ない経験則は時として合理性を上回る。
原因を調査するよう求めたところ、回答はすぐに返ってきた。
正確には、先ほどの後方への増援要請そのものが言葉足らずだったのだ。
「継火手をもっと寄越せ、だと……!?」
後方で起こっていた事態は、ラエドのみならず本陣にいた高級士官全員を驚愕させた。
なんと、休息のために後方に下がらせていた継火手たちが、率先して負傷者の救助にあたっていたのである。当然だが治療には天火を使い、致命傷を負った者ほど懸命に救おうとしていた。それも一人二人の話ではなく、戻った者の大半が従事しているという。
報告を聞いた時、ラエドは天を仰ぎ、ナザラトは眼鏡を外して片手を顔に当てた。
人道的で、感動的な話だ。名無しヶ丘での統制崩壊を知っているだけに、ラエドの人間的な部分は彼女たちの行為を賞賛してやまない。あれから一年も経っていないというのに、よくぞこれほどの精神的成長を遂げたものだと思う。
だが頑張り過ぎだ。それは、今の彼女たちに求められている仕事ではない。
パルミラが持ちこたえているのは諸兵士の奮戦に因るところ大であるが、それは継火手の持つ天火と法術があればこそである。
残酷な表現になるが、死にかけの一般兵を一人助けるより、その分の天火で十体の夜魔を薙ぎ払ってもらった方が結果的に多くの人命を助けることが出来る。あえて断言するならば、戦力の無駄遣いに他ならない。
(……若いな)
老境に差し掛かったラエドは、人間の生き死にについてある程度達観したと自認している。軍人で、しかも将軍などと呼ばれているせいでもあるだろう。どんな人間もいずれ何らかの形で死を迎える。助かり様のない傷を見た時は、特にそう思わせられる。
だが、前線で戦っている継火手たちは総じてまだ若い。自分自身の命については覚悟することが出来ても、隣人や戦友、あるいは守火手の死については、まだまだ割り切ることが出来ないのだ。そして、それは人として当然の感性である。
むしろ、もっと早い段階で……それこそ、開戦前の時点で、こうなる可能性に思いを致すべきだった。ナザラトも同様の悔恨を抱いていることだろう。装備に気を配り、兵站に心を砕き、戦術を煮詰め、もって全軍の士気を保つ。その考え自体は間違っていない。否、この一件についても、悪人は一人としていない。継火手たちの行為は全て善意から出たものであると信じられる。
だが、戦争という非日常のなかでは、人間精神の最も良い部分が、かえって悪く作用してしまう場合もあるのだ。
「すぐにやめさせろ! 継火手の待機場所はデメテリオ、バラク両氏の邸宅に変更。以後、負傷者との接触も全面禁止じゃ!」
ラエドの命令を受けて走り出そうとした伝令を、ナザラトが引き留めた。
「将軍、後方支援に充てている継火手たちも温存すべきです。負傷者の度合いによって、対象を選別すべきでしょう」
参謀長の提言は真っ当なものだった。それと同時に、彼が今後の戦闘で起こり得る自体を先取りしていることも、ラエドには分かった。
継火手たちによる救護がどの段階で始まっていたのかは分からないが、後方で消耗された天火の影響が、そのうち必ず前線で表出してくるだろう。そうなった場合、二線級かどうかなど気にしていられない。どんなに弱い法術でも、常人が立ち向かうよりは容易に夜魔を打倒し得るのである。
「基準はどうする?」
「歩行可能で、なおかつ頭部、首、胸部、腹部、大腿に出血の無い者を最優先で治療し、再戦力化します。
歩行可能であっても、骨折等で再出撃不可能な場合は市民看護兵に任せます。歩行不可能でも、意識がある場合は同様に市民看護兵に任せ、症状に合わせた治療を行わせます。
歩行不可能であり、意識不明でなおかつ呼吸が無い場合は死亡とみなし、治療や蘇生は行いません。
これを、参謀長ナザラトの提言として明記してください」
「……良かろう。すぐに後方に伝達するように」
伝令が行った後、前線の方を向きながらラエドは「すまんな」と呟いた。ナザラトは眼鏡を拭きつつ「仕事ですので」と返した。