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【第二二三節/晦冥 七】

 第二波の迎撃に立って以来、十時間の間マスィルは最前線で戦い続けた。


 鬼気迫る彼女の戦いぶりは味方の士気を大いに盛り上げ、逆に感情が無いはずの夜魔さえも及び腰にさせるほどだった。法術を使う方が効率的に敵を倒せたが、この間、彼女はほとんど術を使っていない。その分の天火を身体能力の向上に充てることで、無理やりに身体を動かしていた。


 いかに筋力が強化されていようと、酷使すればするほど筋肉は傷つく。特に、複雑な細工をほどこしてある左手の盾のために、何度肩が脱臼しかけたか分からない。


 しかし、身体の痛みを自覚するごとに天火でその箇所を癒し、マスィルは武器を振るった。見る者に痛ましさすら感じさせる戦いぶりだが、彼女は何も被虐心からこうしているわけではない。単に、継火手である自分が少しでも長く戦い、より多くの敵を倒すために必要だと思ったからやったのだ。


 現にマスィルは、他のどの継火手よりも長く戦場にとどまり、多くの夜魔を灰に還した。


 とはいえとうとう限界が来た。正確には、その戦区の指揮官が、マスィルがよろめいて壁に肩をぶつけるの場面を目撃した。本人の意識としては、まだ十時間でも二十時間でも戦えるつもりでいたが、いくら継火手の肉体が頑強でも疲労は否応なしに蓄積される。第一波を凌いだ後も軽い仮眠しかとっていなかったため、睡眠欲も限界に達していた。


 半ば嘆願に近い要請を受けて、ようやくマスィルは戦闘を停止して後退した。今や彼女はこの戦区になくてはならない存在となっている。戦力としても、また旗印としても、いつの間にか彼女の価値は大きく膨らんでいた。


 逆に言えば、万が一の事態が生じた場合、戦域全体の士気が低下することを意味する。


 それならば、たとえ一時現場の負担が増えようと、彼女には休んでもらった方が良い。


「大事なお身体です。こんな時に言うのも奇妙ですが……ご自愛ください」


 指揮官の諭すとも心配するとも言えない微妙な表情を見ると、いかに自分自身を顧みていなかったか思い知らされる気がした。休憩所となっているバラクの邸宅まで下がった時、ふと斧の刃に自分の顔を映してみると、目の下にはっきり隈が浮き出ていた。


 疲れていることも、眠気を覚えていることも認めざるをえなかった。


 その上で「三時間だけ寝るぞ」と心に決めて目を瞑ってから、きっかり三時間後にマスィルは覚醒した。


 豪商バラクの邸宅には広い中庭があり、そこに置かれた長椅子の一つで彼女は休んでいた。中庭とは言っても、開戦に先立って植物はほとんど全て伐採されており、長椅子から少し手を伸ばせば隣の椅子に届きそうな具合だった。


 最初に聞こえたのは、隣の椅子で横になっていた継火手のすすり泣きだった。それだけで事情が察せられた。


(……覚えがあるよ、私も)


 だが、マスィルは声を掛けなかった。悲しみとはどこまでいっても、その人だけの個人的な体験だからだ。ゆっくりと上体を起こした時も、決して隣を見ようとはしなかった。


 妙に頭が冴えていた。本来ならば丸一日眠っても足りないほどの疲労のはずだが、視界は明瞭に開けている。思考や五感も非常に鋭敏と思えた。よほど睡眠の質が深かったのだろう。


 その、鋭敏になった五感が、肌にまとわりつく不快感を訴えた。体臭も鼻に突く。戦っている間はずっと同じ服装だったので、肌着は汗を吸って重たくなっていた。


 屋敷の者に頼んで下着だけでも揃えてもらい、着替えのついでに用を足してから、配給された軽食と香草茶を胃袋に詰め込んだ。従軍用の味気ないものばかりで、パンも口の中にもそもそと残ったが、不味い不味いと思っている間に目の前から消え去ってしまった。食事にせよ着替えにせよ、ずいぶん久しぶりにやったことだった。


(死ぬかもしれないのに食べるって、変だな)


 急に浮かんだ不埒な考えに対して、即座にマスィルはかぶりをふった。


(……そうだ。戦いに勝って、いつもの日常を取り戻すんだ)


 食事を終えたマスィルは、再び武器を手に取って立ち上がった。邸宅の外からは戦の音が盛んに響いている。まるで外界の出来事のようだったが、ここから一歩でも出れば、再び戦火の中で狂ったように戦い続けなければならない。


 屋敷の入り口まで来た時、入れ違いに担架を運び込む男たちとすれ違った。それも一つや二つではない。よく見ると、担架に横になっているのは継火手と思しき少女たちばかりだった。


「不利なのか?」


 そう聞けるほど、マスィルは厚かましくはなかった。見れば分かることである。


(早く戻らないと!)


 だが、頭ではそう思っていても、足が動き出してくれなかった。ぶるぶると震えている。今更になってどうした、と自分自身の身体を怒鳴りつけてやりたくなった。


 しかし身体の反射とは、すなわち精神の反映である。いかに雄々しく振舞おうと、彼女の中にある夜魔への恐れは、必ずどこかの場面で表出する。


 なまじ人間らしい休息をとった後だけに、余計に戦場の過酷さや死への恐怖が甦ったのだ。第一波の時は、演説によってパルミラ全土が一つの生き物のようになっていただけに、彼女の中にも高揚感があった。


 しかし第二波が途切れないとなると、当初の楽観的な見方を維持することは困難になった。いつ終わるのか分からず、またこれが本当に最後かどうかも分からないのである。それはマスィルだけでなく、他のパルミラ人にしても同じである。


 マスィルは門の影へと駆け込みしゃがみ込んだ。猛烈な吐き気に襲われ、ついで振戦しんせんが両肩と両脚を揺さぶった。しかし寒気は無い。無論病気などではなく、単に緊張のためである。そういえば自分は命のやり取りをする場所にいたのだ、と思うと、全身の細胞が戦慄した。


 胃袋を握り締められるような不快感が襲い、先程食べたものが喉元まで逆流した。何とか呑み下すが、口の中に広がった酸の味を感じながら、マスィルは両腕で自分自身の肩を抱いた。


 本当は、別の誰かにやって欲しかったことだった。いや、「誰か」などではない。それが出来たのは世界で一人しかいなかった。分厚い大きな手で、寒気や恐怖に震える自分を慰めて欲しかった。


 だが、今となってはそれも叶わない。



「……大丈夫……! 大丈夫だよヴィルニク……!


 私はまだ戦えるよ……!」



 自分で言った言葉が、情けない程にか細く弱々しいことを、マスィルは意識せずにはいられなかった。


 実際には数十秒ながら、本人は何時間も蹲っているように感じた。


 だが、戦場より一際異様な轟音が鳴り響いた時、彼女は怯えを断って再び立ち上がっていた。

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