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【第二二三節/晦冥 八】

 パルミラ軍が、膨大な犠牲の末に夜魔の大攻勢を再び凌ぎ切ろうとした時、それは現れた。


 砂漠の地平に仄暗い光が一つ浮かび上がったのだ。


 最初は誰もが、焼夷弾によって発生した火焔であろうと思った。しかしその輝きは、人の生み出し得るものとは決定的に異なる色彩を帯びていた。成程、中心部は確かに普段人々が目にする炎と同様の色をしているが、放射状に拡散するに従って、徐々に血のような赤みが強まっていく。


 最初にその光の正体を把握したのは、上空でティアマトをいなしつつ観測を続けていたトビアだった。


「何だ、あいつ……!?」


 鮮血のような光の中に、人体のようなものが浮かんでいるのが見えた。トビアは意を決して竜を急降下させた。これは詳細に観察しなければならない事態だ。


 風を切って地面へ飛び込む最中、トビアは不可思議な声のようなものを聴いた。未知の言語であり、何を言っているのかは理解出来ないが、奇妙に整った韻律で単語を発していることは分かる。まるで祭司が執り行う祈祷のようだった。


 近づくにつれ、光と、その中に浮かぶはりつけにされた罪人のような姿はより明確になってきた。


 人型と言っても、大きさはネフィリムに匹敵する。背中にまるで流血の滝のような後光を背負い、これまた背中から生え出た無数の腕でその光を支えていた。あるいはその腕こそが光の発生源なのかもしれないが、そこまではトビアにも分からなかった。


 そもそも、首から上が無い。膝から下も崩落しており、何故浮かんでいられるのか分からない有様だ。


 代わりに、頭にあたる箇所には真っ赤な眼球がいくつか浮遊いている。当然だが表情や感情など読み取れない。


 有り体に言えば異形と表現するほかない。しかし夜魔はもとより異形ばかりである。ただ、他と決定的に異なっていたのは、後光を帯びたその姿がある種の神聖さを感じさせるものであったことだ。


 故に、誰かがそれを火産霊イフリートと称したのも、当然の連想と言えよう。


 トビアはもっと距離を詰めようと考えていたが、すぐに断念するしかなくなった。後光から発せられる熱量があまりに凄まじい。それこそ、周囲のネフィリムや蛸頭アフタブートでさえ蝋のように溶かされていた。ティアマトは熱が生じさせる対流によって安定を失い、小型の夜魔に至っては天火に焼かれるまでもなく灰に変わっている。


 まるでパルミラを救うために現れてくれたかのようだが、あれがそんなに生易しい存在でないことは、トビアには直感として感じられた。


 そして、その直感はすぐに現実のものとなった。


 後光から放射された炎が球体となって空中を浮遊する。それも一つ二つではなく、水面を叩いた際の泡沫のように無数に飛散した。


 トビアの頭の中で、未知の賛歌が一際大きく響き渡った。



「っ、リドワン……ッ!」



 竜の首を引き、全速で上空に退避する。


 直後、浮遊したいくつもの燃え盛る泡沫より、灼熱の矢が放たれる。そしてその内の一本が、トビアの乗る竜の翼を貫いた。




◇◇◇




 火産霊イフリートによる一斉射は、パルミラに甚大な被害をもたらしたのみならず、防衛戦そのものの趨勢を一瞬で決定づけてしまった。


 超高出力の熱線は石造りの城壁を容易に融解させ、投石機やバリスタ諸共崩落させてしまった。継火手を庇うべく、聖銀製の大盾を掲げた守火手が、ばらばらの肉片と化して四散した。川面に着弾した一発は、その膨大な熱量のために巨大な水蒸気を発生させ、負傷者を載せて後退しようとしていた小舟や筏を何隻も転覆させた。


 それらは被害のうちの、ほんの一部に過ぎない。


 そして、各所を襲った大混乱の渦中にあっては、司令部の被弾でさえ当事者以外の誰も気づかなかった。




◇◇◇




 光線の瞬きが見えた瞬間、ラエドは死を意識した。正確には、それが己に死をもたらすものだと認識する以外に、何一つ出来なかったのである。走馬灯を見る余裕さえ無かった。


 自分自身の死については、何も怖いとは思わない。だが、自分が死ぬことによって生じる様々な出来事を想像する方が、彼にとっては怖かった。軍人として長く生きてきた彼は、そういう点において常に一貫していた。統率を失った兵の無残さを幾度となく目にしてきた彼である。最後の最後まで戦い抜くことは、彼にとって一つの倫理観とさえ言えるだろう。


 ましてや、パルミラの命運を賭けたこの一戦だけは何としても死ぬわけにはいかない。死ぬとすれば、陥落間際まで追い詰められて、指揮すべき兵が一人たりともいなくなってから死ぬべきだと思っていた。


(無念)


 ……気が付くと、彼はまだ生きていた。石の壁に背中を預け座り込んでいる。意識を失っていたのはほんの一瞬であろう。


 周囲は惨憺たる有様だった。光線は彼らの立っていた司令塔上層を貫通しており、射線上にいた者は例外なく消し炭と化している。


 ラエド自身も、左半身に重篤な火傷を負っていた。大気に曝していた顔面は無論のこと、熱を吸った手甲や肩当が肌着越しに身体を焼いていた。直接触れていた箇所など、皮膚が張り付いている始末だ。



 だが、下半身を吹き飛ばされた参謀長に比べれば、こんなものは負傷と称するのもおこがましいだろう。



「ナザラト……参謀長ッ!!」



 皮膚が音を立てて剥がれるのも構わず、ラエドは倒れ伏した腹心ににじり・・・寄った。まだ息があったが、それがもう大して長くないことは一目瞭然だった。


「御無事ですか、閣下」


 死にかけとは思えないほどに冷静な声音で、ナザラトが言った。


「貴官が庇ってくれたのか」


 特徴的な眼鏡は、鷲鼻の上から落ちてどこかに行ってしまっていた。若い頃から近眼に悩まされてきた彼だが、死に望もうという今になっても、その目は砂漠に浮かぶ火産霊イフリートを敢然と睨み付けていた。


「あのようなものが出てきたのでは、最早私の策は活かせますまい。ここから先の局面は、ひとえに閣下の敢闘精神に掛かっております」


「馬鹿なことを! 誰か、衛生兵を……継火手を!」


 ナザラトは一見平静な、しかし残った力を振り絞って「なりません」と言い放った。



「小官は最早歩行不可能であり、じきに意識も消失するでしょう。治療や蘇生は不要です」



 その一言は、今までラエドが拵えてきたどんな戦傷よりも深く、彼の胸を穿った。


 言うべきことを言ったナザラトは、まさに本人が預言した通り意識を失った。今や何も映さなくなった瞳を閉じ、ラエドは半焼けの老体を立ち上がらせた。指示を求めて集まってきた伝令や部隊長に向けて、彼は声を張り上げた。



「全軍、大燈台まで後退せよ!!」

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