巨頭の夜魔によって第一城郭が破壊された時点で、ラヴェンナ防衛戦の趨勢は決していた。
どこか一か所でもほころびが生じれば、そこから連鎖的に全体が崩壊する。下手に防衛に拘り粘ってしまったら、かえって撤退の時期を逸して損害が拡大する。総司令官であるイブリンはそのことを誰よりも明確に理解していた。
だからこそ、決壊が起きた直後の判断が、そのまま生存者の数に直結することも分かっていた。
たとえ、その判断がどれほどの流血を伴うものであるとしても。
「第二城郭の全ての城門を閉鎖しろ!」
将軍が発した命令の意味は、その場にいた全ての者が……王配グィドにさえ理解出来た。
まだラヴェンナ全土からの避難は完了していない。最大人口を占める貧民街からの退避は、ようやく半分程度が終わったところだ。
残りの半数は、まだ破壊された城壁と第二城郭との間を右往左往している。その出口を閉じるということは、言うまでも無く逃げ遅れた民を見殺しにするということだ。
「将軍、それは……!」
グィドは反射的に異を唱えようとしたが、叩き上げの騎士の眼光を受けてその言葉を呑み込んだ。
「残念ながらここまでです。ご覧ください、第一城郭の各所より敵は侵入しています。ネフィリムなどが第二城郭にたどり着くまでに
第二城郭の城門を開け放っていれば、そこから奴らが雪崩れ込んできます。そうなれば何もかもが台無しになります」
「……や、でもっ……しかし……!」
「殿下。最早我々に出来ることは、逃げられる者たちを確実に逃がしてやることだけです。
……あえて言いますが、第二城郭より外側の者たちが全滅するまでの間こそ、残った者が逃げ延びる最後の好機なのです」
「……っ!」
グィドが何も言えずにいるうちに、イブリンの命令は実行された。中には抵抗しようとした部隊もあったが、それらは女王直轄の親衛隊によって速やかに制圧され、最後まで従おうとしなかった部隊長は死をもって抗議した。
無情にも閉ざされた城門の前で人々の怨嗟の声が渦を巻く。その絶望を夜魔が嗅ぎ付け、石の壁、鉄の門に鮮血をぶちまけていく。中には、人が人を踏み台にしてでも城壁を登ろうとした場所もあったのだが、その手が
開戦時より盛んに攻撃を続けていた投石機も、今は全てが沈黙している。第三城郭に据えられていた
グィドには、燃え盛る王都の光景を茫然と見つめていることしか出来なかった。
今や往来には夜魔が溢れ、逃げ惑う人々を追いかけ回している。彼の見える範囲で、子供を抱きかかえた女がアルマロスの剣によって刺し貫かれた。手を伸ばしてもどこにも届かず、ただ空を握るのみである。
城壁に手を突いて
不幸な方だ、とイブリンは思った。彼のように凡庸な君主は、平時ならば民に持て囃されて穏やかに一生を送ることが出来ただろう。そして煌都と天火による秩序は、歴代のラヴェンナ王族にそのような人生を提供し続けてきた。騎士であるイブリンにとってすら、平和とは在って当たり前のものだった。争いや不幸とはいずれ回復するべきものであり、その時代における例外状況なのだと教わってきた。
だが、きっと現実は逆なのだろう。
人の世は争いや不幸が常であり、平和こそが例外なのだ。
自分はまだ良い。戦う術も心構えも持ち合わせている。しかし、グィドはおよそ戦乱に似つかわしくない男だ。そんな彼が、よりにもよって世界が滅ぶか否かという時代に居合わせてしまった。
先ほどは勇ましく「
むしろ、グィドが王都の陥落直前までこの場に踏みとどまってくれたことに、イブリンは感動を覚えてさえいたのだ。
「殿下は脱出してください。ここは我々が……」
だが、イブリンの見立ては間違っていた。
「……ダメだ」
グィドが城壁を拳で叩いた。大して力の入っていない一打だった。その手も恐怖に震えている。
しかし、蒼褪めながら将軍の目を見据えて言い放った言葉は、震えてこそいるものの確固たる意志に導かれていた。
「それだけはダメだ。僕はここに残る……残らなきゃいけない」
殿をやると言ったはずだよ、とグィドは言う。
「恐れながら……この局面にあっては、最早出来ることは何一つありません。殿下がここに残られたとて、ただ無為に御命を散らせるだけです。王族の方をそのように無碍に扱うことは出来ません」
「いや……だからだよ。僕はラヴェンナにとって……マリオンにとって、大して価値のある男じゃない。都も民も、玉座も、満足に守ることの出来なかった無能者だ」
自らを「無能」と断じる言葉を、グィドはその場の全員に聞こえるようにはっきりと言い放った。救護や伝令のために走り回っていた者たちまで、驚いたようにグィドの言葉に引きつけられる。それはイブリンとて同様だった。
全ての人の目が集まる中で、グィドは若い将軍の両肩に己の手を置いた。
「イブリン将軍。ラヴェンナ王配として……いや、女王マリオン・ゴートの名代として命じる。逃げおおせた人たちを護り、マリオンと合流してくれ。いつかこの街を再興し、玉座の威光を揚げるために身命を尽くして欲しい。
もし、この
狡い人だ、とイブリンは思った。そんな感情が顔色に出てしまったのだろう、グィドはバツの悪そうな微笑を浮かべた。
(分かった上で、そのようなことを……)
それが、安易な死よりも辛く苦しい道のりであることは、誰にでも分かるだろう。その上であえて皆に聞こえるように言ったのだ。イブリンが断れないように。
「……殿下は、私に煉獄を征けと仰る……」
グィド一人に向けてイブリンは呟いた。
「ああ。まだ君たちを地獄に来させるわけにはいかないからね」
そう言って、グィドは飄々と笑った。
◇◇◇
将軍や親衛隊が立ち去り、荒涼とした司令塔の上で、グィドは一人ほくそ笑んだ。
「……僕にしては、気が利いてるな。うん……冴えてる」
本当に有能な君主ならば、このような状況になる前に民を逃がすことが出来たはずだ。
あるいは全ての辺境伯領より戦力を招集し、押し寄せる夜魔の軍勢を撃退することも出来たかもしれない。死んで責を償うなど無能の証明以外の何物でもない。
だが、自分の器ではこの程度のことが限界だ。
これでイブリンは……あの若く律儀な将軍は、死ぬまでラヴェンナとマリオンのために戦ってくれるだろう。いつ終わるか知れない厄災の中で、擦り切れるまで剣を振るってくれるはずだ。
そして、自分はここできっちりと死んで見せなければならない。そうでなければ王家に汚名が残る。民草が死んでいく時に、自分たちだけ身を長らえたと。仮にラヴェンナの復興が成ったとしても、王家に対する忠誠が甦らないのでは何の意味も無い。最悪、マリオンはその地位どころか命までも脅かされるかもしれないのだ。
自分の死は、そんな事態を未然に防ぐ良い「言い訳」になる。重臣たちがこぞって逃げ出した今だからこそ、かえって王配の死という事実は大きな説得力を持ちうる。何事も売り出す時期が大切だ。自分のような男の命に最も高値がつけられるのは、今しかない。
ふと、背後が騒がしくなった。びくりと背中が震える。とうとう夜魔が這い上がってきたのかと思ったが、そこにはくたびれた軍装の男たちが並んでいた。
つい今しがたまで戦っていたのか、装備の汚れていない者はほとんどいない。一目で貴族と分かる者もいなかった。皆、平民ばかりだ。
「君たち……逃げなかったのかい……!?」
そういえば、第二城郭の門を閉める際に抵抗した部隊があったと聞いている。恐らくは彼らがそうなのだろう。
整列した部隊から二人の男が進み出て、グィドの前で片膝をついた。一人は副隊長の徽章をつけており、もう一人は軍旗を手にした旗持ちだった。一度折れてしまったのか、旗は泥で汚れており、折れた竿に縄を巻き付けて無理やり繋ぎ合わせていた。
「グィド・ゴート殿下。我らは王都の陥落まで身命を尽くす覚悟であります。どうかご容赦を……」
「本当は受け持った地区で死ぬつもりだったんですが、偉いさんが一人残ってらっしゃると聞いて、せっかくならそっちでくだばろうってなりやして」
不遜な言い方の旗持ちに、副長が肘鉄を入れた。後ろに並んだ兵士たちが忍び笑いを漏らす。どうやらあまり品の良い部隊ではないらしい。副長の苦労が透けて見えるようだった。
「ちょうど、俺らも親分を無くして困ってたところ何でさぁ。どうか俺らの頭に納まってくれませんかね?」
「貴様、いい加減に……!」
「……いや、いいよ」
グィドは、自分の口元に自然と笑みが浮かんでいることに気付いた。もちろんまだまだ怖さは抜けていない。顔色は酷いものだろうし、手足の震えも一目瞭然のはずだ。
だが、鉛を入れられたかのようにズンと重たくなっていた心臓が、少しだけ軽さを取り戻したような気がした。
「ありがとう……一人で死ぬつもりだったけど、やっぱり、ちょっと怖くてね……君らのような勇士の前で、本当に情けないと思うけど……」
一人でも多くの兵に生き残ってもらった方が良い。そう考えてイブリンを送り出したというのに、やはり最後の最後まで不安は抜けきらないし、恰好もつかない。隣に誰かがいてくれないと、不安のあまり叫びだしそうだった。
「僕は酷い男だ。道連れが出来たことを喜んでる……」
握り締めた手から血が滲んだ。安堵と恐怖と恥とが、一つになって胸の中で渦巻いている。
だが、兵士たちは彼の懊悩を笑い飛ばしてしまった。
「殿下。死地ともなれば、誰でも怖いのは当然です」
「そうそう。俺たちだって、言ってみりゃヤケクソってやつですよ」
気にしないでください。
あっけらかんと言ってのけられたその言葉は、あたかも一筋の光のように、居残った公子の心を慰めた。
「……そうか。じゃあ、今から君たちの部隊にお邪魔させてもらうよ。
この街の燈台が崩れて無くなるまで、一緒に戦おうじゃないか。
そして、残った民草のために、せめて王家の旗を掲げ続けよう」
御意、と兵士たちが声を揃える。
旗持ちは司令塔に残されていた王家の旗を手に取り、そこに自分たちの隊旗も結び付けた。副長の指示の元に兵士たちが散らばり各々の得物を手にして防御を固める。死地であるにも関わらず、彼らの動きはとことんこなれていて、まるで朝食の準備をするかのような気軽さすら感じさせた。
グィドは剣を抜き、切っ先を司令塔の石畳に押し付けた。豪奢な業物だが、まともに振ったことは一度もない。兵士たちのように武器を
だから、せめて祈ることにした。
「……神様。どうか、王都を失う王を赦さないでください。この街の命運と共に僕も死にましょう。
なにとぞ、逃れようとする者をお助け下さい。そして、なお戦い続けようとする戦士たちに祝福をお与えください」
徐々に迫ってくる轟音の前では、彼の祈りは誰の耳にも届かなかった。
とうの昔に神はこの世界を見棄ててどこかへ行ってしまったという。その神に向かって祈りの言葉を唱えるというのは、滑稽なことなのかもしれない。
しかし、絶対的な運命を前にした人間が、人事を尽くしてなお為す術も無い時、結局はそれに縋ることしか出来ないのである。不在の神をなお信じようと思う逆説と、自分に関わった全ての人に対する純粋な祝福を抱くことで、逃げ出しそうになる心の弱さが補われるような気がした。