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【第二二三節/晦冥 十】

 朦朧とした意識の中で、マリオン・ゴートは辛うじて船が岸辺にたどり着いたことを悟った。


 陣痛が始まってからどれほどの時間が経ったのか、マリオンには分からない。世界を包む永劫の夜と同じように、生まれてからずっとこの痛みに苛まれているのではないかとすら思った。実際には十時間程度であり、その間に船は、彼女を戦禍から遠ざけて静かな森の中へと運び去っていた。だが、森の中が静まり返っているとは言っても、それが彼女の心を慰めることには繋がらない。


 身重の女王を動かすわけにはいかないので、泊地に着いた後も彼らは船に留まることを余儀なくされた。一部の親衛隊士たちが周囲の安全確認や備蓄庫の確認に赴いたが、それ以外の者は概ね女王のために何かしようと右往左往していた。ギヌエット大臣は官吏たちを集め、今後の動きについて協議している。


 そうした全ての動きが、マリオンにとっては煩わしく思えた。周囲を警戒する親衛隊士たちのピリピリとした雰囲気は匂いとして感じられるほどである。出産のための環境としては最悪だろう。


 そうした環境的要因も原因ではあるのだが、マリオンは出産に対する集中を著しく欠いていた。


 ぼやける視界の中で、マリオンは何度かグィドのことを想ってみようと努力した。だが、どれだけ頑張ってみても、自分が彼を愛していないという事実を再確認するだけであった。そんな男の子供を宿したことも業腹だが、何よりも腹立たしいのは、何一つ意思表示をせずに生きてきた自分自身への苛立ちだった。


 してみると、グィドは可哀そうな人だ、と思う。決して愛してはいないが、同情心ならいくらかある。何となれば、ほんの少しだけ申し訳なさも感じている。


 マリオンは決して鈍い人間ではない。いや、むしろ敏感過ぎるほどに聡い女性だった。王族という特殊な立場に生まれ、常に傑物と名高いエマヌエルと比べられて生きてきたのだ。周囲の声や視線にさらされ続けていれば嫌でも感覚が鍛えられる。


 そんな彼女にしてみれば、グィドの不器用なほどに真っ直ぐな愛情は、いっそしつこく感じられるほどだった。


 たとえどれほど愛されようと、それが一方的であるうちは重荷にしかならない。残酷な言い方をすれば「有難迷惑」だ。


 だが、果たしてグィド・ラヴァルという男に、自分が恋愛感情を見出すほどの魅力があっただろうか? 軽薄かつ臆病で無能、おまけに自分の弱さや自信の無さを隠そうともしない。姉の隣にいたオーディス・シャティオンの万能ぶりを見ていれば、余計に彼の格の低さが浮き彫りになった。


 そんな男が自分にあてがわれたのは、まるで三流の女王には三流の王配がお似合いだ、と言われたかのようだった。


 実際には、古来よりの名家であるラヴァル家との結びつきを強化するという、純粋な政治的判断によるものだと知ってはいる。しかしいくら頭で理解していようと、彼女の心は到底現実を受け入れようとしなかった。


 彼の子を宿したことも、ほとんど自暴自棄故だ。自己破壊と言い換えても良い。グィドの肉体はそのための道具でしかなかった。あの日のしとねの冷たさは棺桶の中のそれと同じだった。己の心を殺し、それと同じくらいにグィドの心を傷つけた。


 彼に行ってきた数々の仕打ちが、いかに残酷なことかは分かっている。身体を傷つけ、それ以上に彼の精神に爪を立ててきた。


 一体いつになったら、彼は自分を愛することをやめてくれるのだろう?


 こんな自分のために甲斐甲斐しく振舞わずとも、彼のために愛想よく振舞ってくれる女性は掃いて捨てるほどいるはずだ。何故、言い寄ってくる抱擁的な女性のほうに靡かないのか。一体、こんな自分のどこに美点を見出したのか。


(……でも……もうどうでも良い……知りたくもない……)


 今、自分の胎を裂いて出て来ようとしている子供が、哀れでならない。自分には彼、あるいは彼女を愛せる自信が無かった。当然だろう、その父親を愛するどころか、無碍に扱ってすらいたのだから。


 もし王都も王権もそのままだったら、自分が一切面倒を見ずとも、何一つ不自由のない環境下で生きられたかもしれない。しかし最早この世界に安住地の地など存在しない。常に暗闇と不安に覆われ、夜魔や闇渡りたちの襲撃に怯え続けることになるだろう。



 無事に生まれてきたとしても、この子はそんな世界で生きていかなければならないのだ。



(だから、良いんだよ……出てこなくて良い……生まれてこなくて……)


 そう思う自分自身が、呪わしくて仕方ない。



「誰か……神様……こんな最低最悪な私を、殺して……」



 彼女が人知れず呟いた祈りに答えるように、偵察に出ていた親衛隊士が叫んだ。



「闇渡りだっ!」

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