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【第二二三節/晦冥 十一】

 ラヴェンナの第二城郭以内に逃げ込めた人々は、イブリンの指揮の元、一路地下通路を通って城外に出ようとしていた。


 すでに地下水道の船は出払ってしまい、残った人々は徒歩で脱出するしかない。その黒い人だかりの最後尾で、イブリンは必死に声を張り上げていた。


「不要な物は捨てろ! いつ夜魔が侵入して来るか分からん。今は生き延びることだけを最優先に考えろ!」


 それが無理難題であることは、当のイブリン自身が最も良く理解していた。


 守るべき街を、主君や民を置き去りにしてきたこと。その事実は彼の後ろ髪を引っ張ってやまない。一体何度、元来た道を駆け戻ろうかと思っただろうか。


 しかし、それはここまでに支払った全ての犠牲を無に帰す行為だ。今更自分一人の力が加わったところで夜魔の波濤は止められない。無意味に屍を晒すだけで、言ってしまえば自己陶酔だ。彼はラヴェンナの将軍として強く己を律する必要があった。


 たとえどれほど強硬になろうと。どれほど嫌われようと。己に課せられた責務を全うする。その一念だけが彼を突き動かしていた。


 街に戻りたいという男がいた。逃げる途中に妻とはぐれてしまったのだと。もし彼女が逃げ遅れ、夜魔の手にかかったというのならば、自分も同じ場所で死にたいと言った。だが、イブリンは彼の願いを一蹴した。彼を通した隙に夜魔が雪崩れ込んでくるかもしれない。そうなれば何もかもが台無しになるからだ。


 家族や恋人とはぐれてしまったのは、何も彼一人だけの話ではない。他にも大勢の人間が、涙を流しつつ暗路を辿っているのだ。とても特別扱いすることは出来ない。


 そして、もし地下に通じる扉が破られ、夜魔が飛び込んできたなら……の一番に剣を振るい、敵を打ち倒すのみである。


(戦局はどうなった……? 燈台は……グィド殿下は……)


 人の列が次第に細くなりだした時、ようやくイブリンは地上のことを考える余裕を持った。だが、振り返る先にあるのは茫漠たる暗闇だけである。


 否、その闇の中で、何かが揺れている。


 イブリンは咄嗟に剣を抜いた。彼と共に残った兵士たちも同様に武器を構えるが、それが人影であったことが分かると、安堵の溜息を洩らした。


 一人の少女が、背中にぐったりとした人体を背負って歩いている。戦場を渡り歩いてきたイブリンには、彼女の連れがとうに事切れていることが一目で分かった。かっちりとした学生服は戦塵と血で汚れに汚れており、足取りもおぼつかない。腰に短剣の鞘を吊るしていることから騎士の家の者だと分かったが、とても武勇に優れているようには見えなかった。


「君、大丈夫か?」


 イブリンは兵士たちと共に駆け寄った。一人が彼女の背負っていた亡骸を抱えようとするが、少女は幽鬼のように冷たい、しかし頑とした声で「放っておいてください」と言い放った。そこには何人たりとも触れさせまいとする強固な意志、そしてその意志と等量の憎悪が込められていた。


 一体、何に対する憎悪だろう? こんな非常事態にも関わらず、イブリンはそれが気掛かりだった。


 鼻白んだ兵士たちを下がらせ、イブリンは彼女の前で片膝をついた。そして、己が防衛軍の総指揮を執っていた者だと名乗った。


 少女……ポーラの表情に驚愕が浮かび、一瞬の後に怒りへと変じた。彼女は一言も言葉を口にしなかったが、表情や発する怒気に「何故守れなかった」という無言の抗議が滲み出ていた。


 イブリンが、防衛戦の始まる数週間前に将軍に抜擢されたなど、彼女の知るところではない。若い将軍もそのことを言い訳にしようとは思わなかった。軍人の仕事は、他のどんな職業にもまして結果が全てだ。勝ちなら勝ち、負けなら負けである。


 己の無能を憎まれるのは致し方ない。イブリンは言い訳をすることも、それを考えるのも嫌いな男だった。


「君の友達を守れなかったこと、済まないと思う」


「……」


「私が憎いか?」


 答え次第では、彼女は自分に向けて刃を向けてくるかもしれない。死ぬわけにはいかないが、手傷を負うくらいの覚悟はあった。


 だが、ポーラは固く歯を食いしばったまま、首を横に振った。だが、何かを赦したという風には見えない。むしろ明確に憎むべきものが定まっているが故に、イブリン個人を責めても無意味だと気づいているかのようだった。


「……貴方は、ただの人です。アポロを見殺しにしたのは貴方じゃない。私が……私が本当に憎むべきは……!」


「君は、己の戦うべき敵が何なのか、はっきり分かっているのだな」


 ポーラは首肯した。確信を抱いた者しか持ちえない力強さがあった。


「ならば猶更、その友達は置いていきたまえ。ここは決して安全ではない」


「人を貸してはくれないのですか?」


「大切なものを失ったのは君だけではない。他の人々も、それぞれ家族や家財、家や土地を棄てて逃げているのだ。君だけを特別扱いするわけにはいかない」


 余計に憎まれるかと思ったが、イブリンのはっきりとした物言いは、かえってポーラを信頼させた。学院での一件で、ポーラは人間の残酷さや動物性を嫌という程目の当たりにさせられてしまった。なればこそ、イブリンのようにどこまでも理詰めで話を進める相手が好ましく思えたのだ。


「……良く考えなさい。本当に戦うべき敵が分かっているのなら、今、何を優先するべきか。きっと、君の友人が命を張ったのも、君が成すべきを成すことを期待してではなかったか?」


 それは、半ば自分自身に向けた言葉でもあった。これはグィドから言われたことと根底で繋がっている。こうして、言葉は人から人へと渡り歩いていくのだ。


 ポーラはなおも迷っていたが、自分の足腰が、これ以上脱力した人体を運ぶのに適さないことに気付いていた。継火手であったならば話は別だったかもしれない。だが、無い物ねだりをしても今更どうしようもない。


 ポーラはアポロの遺体を地下通路の壁際に横たえると、学生服の上着を脱いでその顔に被せた。去り際に、亡き友人の学生証を切り取って、決して離すまいと握り締めた。


 その一部始終を見届けてから、最後に残った避難民と共にイブリンは出口へ向けて歩き出した。




◇◇◇




 一体、どれほど歩いただろうか。暗闇の中では月も見えず、従って時間を図ることも出来ない。ひょっとしたら大した時間も過ぎていないのかもしれない。


 だが、一人一人の避難民にとっては永劫の距離に思えたし、それはイブリンやポーラにしても同じことだった。暗闇は人から考える力を奪い、代わりに恐怖を流し込んでくる。どれほど鍛えられた精神の持ち主でも、大抵は暗闇の与える不安と恐怖に抗えない。それは無理からぬことだ。人間がそういう風に出来ているのだから。ましてや、都市生活者として生きてきた彼らには猶更である。


 それでも、彼らは歩き続け、ついに地上へと続く階段へと辿り着いた。


 イブリンは相変わらず最後尾に立ち、ポーラも自然とそれに倣っていた。ここが一番安全だと考えたからだ。


 やがて最後の一人までも見送ってから、二人は石造りの階段を登って地上へと踏み出した。


 そこは、小高い丘の上だった。周囲には雑草が生い茂り、それを踏み分けるように難民たちが溢れ出ている。烏合の衆とはこのことだ。誰も、何をして良いのか分からず、落ち着かないでソワソワしている。


「見ろ!」


 と誰かが叫んだ。イブリンもポーラも、その男の指さす方向に目を見やった。


 ラヴェンナの大燈台が激しく明滅していた。ネフィリムたちの投擲を受け、崩されそうになっているからだ。遠景であっても、あの巨大な建築物の寿命が削られて行っていることが分かる。


 そしてその足元では、残った勇者たちがその命を散らしていっているのだろう。イブリンは静かに黙とうした。


 隣でポーラの息を呑む音が聞こえた。イブリンも顔を上げ、明滅する燈台を見やる。


 その巨影が傾き、千々に砕けながら倒れていく。一連の動きが酷く緩慢に思えた。


 倒れる最後の瞬間、長きにわたり煌都ラヴェンナを照らし出してきた大燈台は、一際大きな閃光を放ち、そして地面に叩きつけられた。ああ、グィドが死んだのだとイブリンは思った。そしてそれは、煌都ラヴェンナが死んだことと同義でもある。


 蝋燭の火を吹き消したかのように、辺りが一転して暗くなった気がした。


 ツァラハトの最も深い夜。最も闇が濃くなる日。


 その時代に偶然居合わせてしまった人々は、茫然とするほか無かった。

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