エデンの燈台の地下には、かつてここが帝国の中心地であったころの遺物が数多く残されている。王宮でもあった大燈台が表とするなら、裏にあたるここはさしずめ地下宮殿といったところだろう。帝国による世界権力の掌握のために、こうした魔導研究のための暗部はどうしても必要不可欠な存在だった。
探求のために用いられた様々な器具、書物、そして設備がここには納められている。その全てが、
無論、人としての姿を棄て去った後は、書物も器具も意味をなさなくなった。だが広大な空間と、魔力を蓄えた様々な呪物や魔法陣は依然として用を成し得た。
いつしか地下宮殿の全体は粘菌のような物によって覆われ、その表面から飛び出たいくつもの胞子状の物体が静かに光を放っている。目を凝らしてみると、絨毯のような粘菌の表面には小さな皺が走り、胞子の中には脳髄が浮かんでいることが分かる。
これらも全て、かつて人であった者たちである。終末を経験した人々は、己の肉体を魔導士たちに差し出し、巨大な魔術を構成する一部分と化すことによって人類の未来を彼らの研究に託した。
世界の行方を憂いた人々の献身によって、辛うじて希望が残された。姿形こそ醜くなれど、その純粋な善意と祈りは何としても護り抜かねばならないものだ。回廊を歩くオーディス・シャティオン……その人格を奪った者たちは、誰に言うでもなく誓いを新たにした。
彼らの思考は、最初から一つの人格であったかのように精密に同調している。元々は個々人の人格を持った別人であったが、エデンの知恵の樹として長く合一を続けているうちに、彼らの思考や価値観は、あたかも複雑な歯車装置のような一体感を備えるようになっていた。
その基盤にあるのは、何としても人類を救済しなければならないという、確固たる義務感である。
善意と使命を媒介とした集合的個人、とでも表現出来るだろうか。
当然だが、彼らは各々の名前をとうの昔に捨て去っている。そして長らく自分たちを呼ぶ敵対者も現れなかった。
だが、地下宮殿と一体化した人々は、その意識の残滓を働かせて、彼らに『ハザル』の敬称を与えた。「我らの尊敬すべき賢者」との意味を持つ言葉である。彼ら自身は敬称に頓着などしなかったが、責務の重みを思い起こすためにその名を受け入れた。
今もまた、地下宮殿を覆う肉塊たちが尊者を褒め称え、囁くかのように「ハザル、ハザル」と呼びかける。声帯からの音ではなく、念話として直接意識に働きかけてくる。自意識の大半を失った粘菌たちに出来る、数少ない意思表示だった。
しかし今は、その囁き声さえ風前の灯となっている。
宮殿の最奥に当たる場所には一際大きな空洞が設けられている。大規模な実験の他に式典にも使われていた空間だ。今となっては、巨大な列柱に粘菌が絡みつき、発光する脳髄が天井から垂れ下がっている。
その中心に、植物の塊根を思わせる物体が鎮座している。粘菌と同質の物体に覆われた球根は、その内部に二百名分の脳髄を格納しており、エデンの樹の予備として数百年に渡る演算と思考を遂行してきた。
だが、内部から漏れ出る光はすでに弱々しい。
オーディスはその皺だらけの表面に触れ、慈悲に満ちた微笑みとを浮かべた。
「諸君……長年に渡る献身、御苦労だった」
塊根の一部が仄かに光る。オーディスの脳裡に「ハザル……ハザル……」と呼びかける声が静かに響いた。
「拘束術式は完全に機能した。今や真の天使は我らの手中に落ちたも同然。すぐにでも……そう、すぐにでも、全てが報われるのです」
慰めの言葉を聞いた脳髄がパチパチと点滅した。その瞬きはさざ波のように地下全体へと伝播していく。
セリオンの出現はとうの昔に予想されていたことである。夜魔が至高天の防衛機能であるなら、それを侵害しようとする者よりも大きな力が出現するのは必然と言えよう。いくら人造天使を進化させたところで、人の創造したものが、人の創造以前よりあるものに勝てる道理は無い。
だが、人造天使の天火がセリオンを克服出来ないとしても、セリオンもまた人造天使を滅ぼせない。「彼女」に求められる最大の特徴とは、力を消耗するごとにより一層強力な力となって再燃するという、自然法則に完全に反した点にこそあるからだ。
燃えるたびに、死ぬたびに、それまでを上回る出力となって再現される天火。それこそが黒炎の正体である。
故に「彼女」は決して死なない。セリオンに取り込まれようと、その力の核は、セリオンそのものの核として燃え続け、肥大化させ続けるだろう。
事前の計画では、拘束術式によって動きを止めている間に、樹そのものが編んだ術で世界の回復を行う予定だった。そのための術式が
だが、カナンの出現によって計画は変更を余儀なくされた。術式は樹の本体諸共破壊され、こうして仮初の肉体に一部を移植せざるを得なかった。ハザルと呼ばれる者たちにとっては屈辱以外の何物でもない。
しかしそれに拘泥しようとは、誰一人として思わなかった。そのような個人的感情はとうに捨てている。
すでに拘束術式の実行によって、地下宮殿の粘菌たちは余力を使い果たしている。現状、初期案で目的を達することは出来ない。遠隔操作でセリオンの核に干渉するだけの余力は残されていない。
ならば、直接出向くまでである。
塊根の上部が口を開け、中から一本の触手が這い出る。木の根を模したそれは、先端に胡桃ほどの大きさの物体を摘まんでいた。差し出されていたオーディスの腕に巻き付くやいなや、彼の肉体の内側へその種子を潜り込ませた。
痛みは感じない。むしろハザルたちは、その種子に蓄えられた膨大な情報故に法悦すら覚えたほどである。万が一を想定して保存されていた、世界再生の術式。この種子の中には、その偉大な
その動作を最後に、塊根は完全に余力を喪失した。触手が力なく垂れさがり、皺の間を走っていた閃光が沈黙する。
遥か地上よりけたたましい音が響いてくる。振動によって天井が揺れ、いくつかの支柱が倒壊した。押し潰された粘菌や胞子が肉片を周囲に撒き散らす。何もかもが潰れ、埋められていくなか、オーディスに宿ったハザルたちは悠然と歩み続けた。
その胸中には、数百年を経てもなお熱を失わない善意が燃え盛っている。
◇◇◇
暗闇の中を、少女は堕ち続けた。
眠りの中でさらに眠り、意識を閉ざし続けた。
そんな自分を責め立てる声が響いてくるが、その声にすら蓋をして、ひたすらに沈黙に身を委ねる。目を瞑り続ける。水底へ沈むかの如く、意識の奥底へと沈降していく。どんな光も届かない暗黒の中へと。
そして、そのままどんな光も目にせず消えてしまいたいとすら思った。
彼女が目指す晦冥は、