エデンの樹と化して五七〇年、
そんな彼らにとって、借り物とはいえ脚を使って歩くのも、外気を吸うのも、忘れて久しい行為だった。
崩落する地下宮殿を後にして、表の燈台の一角に姿を現す。そこはかつて、皇帝に謁見する使者たちが待たされた場所だ。外に面した細い回廊で、かつては白く淡いヴェールが掛けられて風をはらんでいた。無論今となっては一切が失われている。吹き付けるのは崩れた燈台の残骸が巻き起こす暴風、聞こえてくるのは拘束に呻くセリオンの悲鳴。
だが、確かに光が差し込んでいた時もあったのだ。
ぴたりとオーディスの脚が止まった。虚ろな水色の瞳が、回廊の一点をじっと凝視する。それはほんの一瞬のことだったが、複数の人格を宿した今の彼の脳裡では、一つの風景が浮かび上がっていた。
エデンの樹となった、かつての賢者たちの、その内の一人……薄められ消えかけていたとある記憶が、瞬間的にではあるがオーディスの意識を支配した。
実に、五七〇年ぶりの感慨であった。
◇◇◇
その男の名はフィロスと言った。ツァラハトが危機を迎えた当時で、まだ三十を少し超えた程度の年齢ながら、優秀な学者であり医師であり魔導士でもあった。
彼の探求が、主に人間の生命そのものへと向けられたことには理由がある。
武門の家に生まれながら身体が弱く、騎士として大成することは早くから諦められていた。幸い叙任を受けた兄が何人もいたことや、家そのものが裕福だったことも手伝ってあまり目立たずに済んでいたが、いつもどこかで引け目を感じずにはいられなかった。
その引け目が、彼を学問へと駆り立てた。本を読む時間には事欠かず、環境もすこぶる良いものが与えられた。生まれ持った抜群の頭脳もあり、彼は若くして帝国屈指の魔導士の一人となった。
このような経歴だったので、彼が生命や長寿、健康といった、人間の福祉のために役立ちうる魔導を研究していったのも必然であっただろう。騎士にはなれずとも騎士の家系の人間として育てられたため、弱者救済の大義も自然とその精神に馴染んでいた。人々からの名声を手に入れた後は、家族より分け与えられた所領に孤児院と学院を兼ねた施設を建てて、日夜教育と研究に没頭する日々を送った。
無論、そんな超俗的な生活が、何の代償も無しに手に入れられたわけではない。彼の作った学院は大海の中にぽつりと浮かんだ小島のようなものだった。純粋で慈愛に満ちた空間の外には、常に貧困と混乱と退廃が渦巻いている。少しでも油断すれば、濁った水が島を呑み込んでしまうのは分かり切ったことだった。
フィロスは皇帝の健康に関する相談役を請け負うことで、自らの理想を護ろうとした。皇帝は彼の知っている範疇において最も愚劣な老人の一人ではあったが、同時にこれ以上ないほどの後ろ盾でもあった。
皇帝の健康状態はすこぶる悪かった。フィロスが魔力を持たないただの医師であったならば、謁見したその日のうちに余命宣告を下さざるを得なかっただろう。特に暴飲が酷かった。皮膚の上から触れてはっきり分かるほどに肝臓が硬化しており、腹水や黄疸が認められた。何となれば、フィロスの紹介が行われている最中に意識消失を起こしかけたほどである。
そんな状態にあった皇帝を治療して以来、フィロスは篤い信頼を寄せられるようになった。ただ、皇帝の高い好感度に反して、フィロスは内心うんざりしつつ奉仕を続けていた。何しろ、内臓や血管の浄化を行って数ヶ月と経たない内に再三再四の治療命令を出されるのだ。その度に過度の暴飲暴食を控えるよう上申するが、一切無意味だった。
魔導というものが、
「至高天の容量は、我々の力では到底観測出来ないほどに膨大である。人間の活動など、あの無限の力の前では些事に過ぎない」
折しも天体観測の発達によって、ツァラハトという星が大宇宙の中の砂粒以下の存在でしかないことが発覚していた。この事実は積極派によって大いに喧伝され、至高天の乱用を正当化する根拠として扱われた。
確かに宇宙は広く、人間の活動はいかにも小さい。
しかし、この世界の裏側にあるものを損なってまで、人間の欲望を優先する必要があるのだろうか? 齢八〇を超えた皇帝の勃起不全を治療させられながら、フィロスはどうしてもそう考えずにはいられなかった。彼と入れ違いに老帝の居室へと連れ込まれていく十数人の童女や少年を見るにつれ、その疑念は一層深くなっていった。
己の行為は、ただ不正義を助長しているだけではないのか?
子供たちを救うと言いながら、その一方でまた別の子供たちを猥褻な皇帝の餌食にしているだけではないのか?
皇帝だけではない。大貴族や帝国宰相、最高法院長に近衛騎士団長、その他富や権力に群がる諸々の奴原。自分の操る治癒魔法で最大限の利益を享受しているのは、そういった連中ばかりである。例えば結婚式のために青い薔薇を作ってこいだの、生まれてくる子供が最強の騎士となるよう改造を施せだのといった世迷い事を大真面目に実行しなければならなかった。
「賢者フィロス。貴方も分かっているはずだ。あのような者共に帝国を……人類を任せておくことは出来ない」
彼同様に危機感を覚えていた魔導士たちから、フィロスは事あるごとにそう囁かれた。その度に彼の心も揺らいだ。一体何度、全てを投げ打って彼らの運動に身を投じようと思ったか知れない。
しかし権力者に反感を抱く一方で、フィロスは
自分が魔導を極めたのは、弱者の課される様々な枷を外すためであったはずだ。
生命とは言うまでもなく神聖なものであり、欲望を満たすために操作するのも、復讐のために歪めるのも、冒涜の度合いとしては全く同等である。
その日も彼は、心に深い徒労感を覚えて皇帝の元を辞した。途中でハザルの一人に捕まって、辟易としながらも出口に向かっていた。以前に聞いたのと大して変わらない勧誘の文句を聞きながら、しかし強く突き放せずにいた。元々、気の弱い男だった。
小回廊まで来た時、そこには穏やかな風が吹き寄せていた。淡い垂れ幕がふわりと踊り、風の形をした曲線を描いている。
その垂れ幕の手前に、一人の少女がしゃがみ込んで、じっとその動きを見つめていた。
そよ風が忍び込んで垂れ幕が揺れるたびに、足元に差し込んだ光も優美に動いた。まるで海辺に寄せる小波のようだった。その光の波に目を細めながら、少女は小麦色の髪をかき上げつつぽそぽそと何かを呟いている。他の従者連や、フィロスについてきた賢者までもが珍獣を見るような視線を向けるが、全く頓着していない。だが、フィロスが「お待たせしました、ソフィア」と声を掛けると、弾けるような笑顔と共に顔を上げた。蒼玉のような深い青色を湛えた瞳が好奇心に輝いていた。
「先生!」
「何を見ていたのですか?」
何をも何も、垂れ幕だろう……他の者は皆そう思った。
だが、ソフィアと呼ばれた少女はおもむろに垂れ幕の一点を指で押さえて、回廊の床に留めた。ちょうど、垂れ幕の留め具の真下にあたる地点だ。そこに風が吹きつけて曲線を描く。フィロスとソフィアの他には、誰の目にもただの垂れ幕としか映らなかった。
「成程、黄金比ですか」
「はいっ! 風が黄金比の形をとる確率について考えていました!」
総じて誰もが変人だと思った。フィロスとて、ソフィアのことは変人だと思っている。
しかし、世界中の人間がこんな風に……自然の中に智慧の美を見いだせる変人ばかりであってほしいとも思うのだった。彼女の突拍子も無い発言を聞くたびに、心に抱えている重石が軽くなるような気がした。
それまで世界の行く末についてしかつめらしい表情で演説していたハザルの賢者でさえ、くすりと笑い声を漏らした。
だが、その顔が石のように固まる。フィロスもほぼ同時に違和感を覚えた。
それまでソフィアの足元に打ち寄せていた光の波が、徐々に弱まっていた。