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【第二二四節/ツァラハト黒記 二】

 フィロスが意識を取り戻すと、すぐにソフィアの蒼い瞳が飛び込んできた。心配そうに目じりに涙を溜めている彼女の頬を撫でつつ、彼は上体を起こした。


 酷い頭痛がした。吐き気や眩暈も感じる。しかし、両隣に倒れている魔導士たちに比べれば遥かに軽症だろう。両者とも目や鼻腔から出血し、息も絶え絶えとなっている。


 彼らだけではない。エデンの地下宮殿、魔導士たちが集められた大講堂は、力を使い果たした者で死屍累々の有様となっている。いずれも天下に名を轟かせた大魔導士ばかりだが、それでもこの天災を完全に防ぎきることは出来なかった。


 ここ以外にも、世界中の大都市で同様の大規模術式を展開したはずだが、そこでも同じような光景になっているであろうことは想像に難くない。


 無くなったのは体力だけではない。身体の中の魔力が極端に低下している。全て出し切ったのだから当然だが、ここまで「すっからかん」という感覚を味わったのは初めてのことだった。


 むしろフィロスとしては、まだ魔法を使える兆しがあること自体、意外だった。どうやら至高天との接続そのものを断たれたわけではないらしい。


 今、この時も、どこかで誰かが魔導を操っているはずだ。すでに決壊が起きてしまった今、どんなに些細な魔法であっても危険極まりないが、一方で当たり前のものとしてあったものを急に封じ込めることも出来ない。


(試されているのか)


 ふとそう思い、自嘲した。至高天は巨大な装置であって、どこまでも非人格的な存在。そう言い続けてきたのは自分たち学者のはずだ。


 他者を試みるのは、自意識を持った者のみである。超越的でかつ自意識を持った存在、すなわち神の存在を認めることになる。



(この世界に神などいない)



 ソフィアに抱えられながら、フィロスは地上に向かうことにした。途中ですれ違った侍女や衛士たちは皆一様に恐慌をきたしている。そんな彼らに突き飛ばされつつ城壁の一角にまで登ると、そこはすでに、今まで彼らが生きてきた世界とは全くことなる空間へと変貌していた。


 真昼の光に隠されていた星々が天空で煌めき、地上には人々が慌てて灯した光がぽつぽつと点在するのみである。そのうちのいくつかは、明らかに火災による輝きだった。


 しかしこの程度の混乱は、これから始まる全てに比べれば微々たるものであろう。


「先生、これ……どうなってるんでしょう」


 天文学について多少知識のある者なら、今のツァラハトがいかに奇妙な状況に陥っているかすぐにでも分かろうものだ。


 太陽は一体どうなってしまったのか。完全に消え去ってしまったのか、光だけが届かなくなってしまったのか。しかしもし光が届いていないなら、熱も同様に伝わっていないはずである。


 むしろ、世界が凍てついてしまわなかっただけでも僥倖と言うべきだ。恐らく対抗策が何も無かった場合、ツァラハトは太陽からの影響を闇に遮断され、氷の塊と化していただろう。



「擬神話術式」



 フィロスの呟いた言葉は、弟子である彼女もついぞ聞いたことのないものだった。


「擬、神……?」


「研究段階では虚構術式とも呼ばれていました。魔法と至高天との相関関係が明かされてから、魔導の傍流で細々と続けられてきた探究分野の成果です。

 我々が魔導を行使するごとに至高天は損傷する……ならば、魔導そのものを用いて、損傷した至高天を修復……いや、修復したと信じ込ませる・・・・・・ことは出来ないか。それによって、魔導災害を予防出来ないか。かいつまんで言えば、そういう術のことです」


 例えば、石造りの家の一部が損壊し失われたとする。放っておけば家全体の倒壊を招くため、そこに木材や石材を詰めて補うのは自然な発想だ。


 しかしいくら発想が単純であろうと、実行は容易ではない。これほど都合の良い話がまかり通ってしまったら、それこそ至高天の神性など誰も信じなくなってしまうだろう。神話を擬するという命名にはそうした自戒の念が込められている。


 一度失われてしまった損傷部は、二度と元には戻らない。もしかしたら自然修復されるのかもしれないが、その時間間隔は人間の想像の範疇を遥かに超越している可能性もあるのだ。それほど貴重なものに替わろうとするなら、必然的に求められる魔力の量も増大する。


 魔法と至高天が発見されて以来、それを操るための複雑な術式は進化を続けてきた。しかし、事物に干渉するための強大な魔力そのものは、複数の人間が集まらなければ到底得られない。今回招集された魔導士たちはいずれも常人と比べ物にならないだけの力を持っているが、災厄の結果を完全に覆すにはいたらなかった。


(そも、これは天災と言って良いのだろうか)


 人の過ぎた欲望がこの事態を引き起こした。常々警鐘を鳴らされていたものが現実となってしまった。


 世界ツァラハトは今、破滅の進行を虚構で誤魔化すという、危険極まりない均衡の上で何とか命脈を保っている。今まで通りの生活を維持することは当然不可能。そして、いかに魔導の行使を減らした社会に移行していくかが問われるようになるだろう。



 換言すれば、新しい世界に適応出来ない、あるいは生かす余裕の無い人間を、排除していくということだ。



 この一事だけでも、非常に大きな責め苦であり裁きと言うべきだろう。しかもその期間がどれほどになるかも分からず、またどうやって償っていけば良いのかも分からない。


「……こうなってしまった以上、孤児院の皆が心配です。帰りましょう」


 分からないからこそ、フィロスはそう自分に言い聞かせることしか出来なかった。ソフィアはやや表情を曇らせながら、それでもはっきりとした声で「はいっ!」と答えた。


 下手に長居をしてしまうと、取り乱した皇帝に捕まったり、ハザルの賢者たちから勧誘を食らうかもしれない。世界がこんな有様となっているが、それだけに孤児院のことが何よりも心配だった。


 普段なら躊躇なく転移門を使うところだが、状況が状況であるからして、到底私用では使わせてもらえないだろう。それどころか魔導災害の影響で混線を起こしている可能性すらある。下手をすればツァラハトではない、どこか別の異空間へ放り出される危険性があった。


 二人の預かり知らぬことながら、現にこの時期、ツァラハトから完全に消失して二度と戻って来られなかった人間が続出している。


 とまれ、転移魔法があてにならない今、陸路に頼るほかない。


 二人は混乱に乗じてまんまと馬車の停留所にまでたどり着いた。さすがに御者を見繕っている余裕はなかったが、そもそも皇帝の馬はいずれも、人語を理解して目的地へと連れて行ってくれる賢さを持っていた。そのように創られたのである。


 馬車が滑るように走り出す。しかしその出発とは裏腹に、二人の家路は思いのほか長く険しいものとなった。

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