エデンより北西へと向かう途中、フィロスとソフィアはいくつもの悲劇を目の当たりにした。その悲劇は全て、人が統御されないが故に生じたものだった。
もとより求心力を失っていた帝国の統治機構では、この人知を超えた災害に対処出来なかったのだ。
歴史に登場した様々な国家は、隆盛の度合いや長短こそあれど、必ず滅亡という運命を免れない。しかしそこに至る過程は不思議とどれも似通っている。
人が病を得て死にゆく時、必ずその最初の一手となる疾患が現れる。心臓なり肺なり、兎にも角にもどこか一箇所の不調が徐々に全身へと波及して、最後は死に至るのだ。
国家が死ぬ時も、それに似る。例えば飢饉であったり、鉱山労働者の反乱であったり、きっかけとなる出来事に感化されて崩壊が連鎖し、それを食い止める体力を持たなかった国は歴史の闇へと葬られる。しかし事の起こりと流れとが明瞭であるだけに、原因と結果を分析して記述すること自体はまだ容易であろう。
ところが帝国を襲った魔導災害は、かつてどんな国家も体験したことの無いものだった。
今までの国々が病によって多臓器不全的に死んでいったとするなら、帝国は特大の落石をもろに食らって全身くまなく打ち据えられたようなものである。
もし帝国の身体が若く強靭であったなら、重傷を負いつつも絶命することは無かったかもしれない。しかしすでに帝国は老境に差し掛かっており、従ってひとたまりもなく四散するほか無かったのである。
ささやかな一例として、海運の壊滅が挙げられる。時間感覚の狂いから来る星図の読み違いが多発し、遭難する船が後を絶たなかった。ただでさえ夜間の航海は危険なものなのだ。それがずっと続くとなると、海に出るには相当の勇気が必要になる。
海運の壊滅は物流と経済の停滞を呼び、海辺に生きる人々の生活を直撃した。貨幣が意味をなさなくなるまでに大して時間はかからず、人々は物々交換によって何とかその日の糧を得るしかなくなった。狩猟や漁で生計を立てていた者はまだしも、農民たちにとっては夜の世界でも作物が育つかどうか不透明であるため、畑を棄てて都市に移動しようとする人が激増した。
そうなると、陸路の主要道路も混雑を余儀なくされる。最早難民と化した地方からの流入者と、逆に食料を求めて地方に出ていく人々の合流によって、帝国の大動脈はそこかしこで血栓を詰まらせた。
フィロスとソフィアが巻き込まれたのも、そんな混雑の中の一つだった。
◇◇◇
フィロスが交渉の場に立たされた時、そこはすでに血を見る一歩手前の状況に陥っていた。
片や屋敷の倉の前に陣取った豪農とその一族郎党。片や都市から下ってきた困窮者たち。前者には食料を譲る気など毛頭なく、後者も生活どころか生命が掛かっているため必死の形相だった。中には兵隊上がりらしく武器の取り扱いに慣れた雰囲気の者もいる。こういった連中が盗賊へと堕落する切っ掛けは、まさしくこのような状況であろう。
農夫たちは、いざとなれば倉ごと燃やす覚悟でいるようだ。震える手に握り締められた松明が、その覚悟を語っているかのようだった。さすがに燃やされてしまうと本末転倒であるため、難民たちも次の一手に踏み込めずにいる。
「御両人とも、どうか落ち着いて。武器を下ろしてください」
フィロスは努めて穏やかな声音を発しながら、両者の間に立った。最初は介入者に対して懐疑的な目線が向けられたが、彼の理知的な話し方や立ち振る舞いは自然と両者の軋轢を減じた。何より決め手となったのは、フィロスが農夫たちの棟梁の不調を見抜いて治療を申し出た点であろう。
結果的に、難民側からの金品や衣服及びフィロスの診療と引き換えに、いくらかの麦袋が倉から出されることで合意が得られた。
事態が落ち着いたのを見て、フィロスは人知れず溜息をついた。こんな柄にもないことをするのは何度目か分からない。それでも目先の平和を手に入れるためには、道化のように立ち回るしかなかった。
今となっては馬車でエデンを出たことが悔やまれる。道路はすぐに人で埋まった。いくら前に進もうとも、必ず人の集団に取り込まれて、身動きがとれなくなってしまう。
難民の群れは、とりもなおさず弱者の群れであった。元々彼らは食料が無いから都市から出てきたのだ。一家連れも珍しくない。明らかに感染症の症状を示す者も飽きるほど目にした。医師として優れているだけに、周囲から散発的に聞こえてくる咳が怖くてならなかった。
下手に馬車を下りればどんな病気を貰うか分からないし、視界に入った病人全てを助けるだけの余裕もフィロスには無かった。
早く、早く。少しでも早く子供たちの元へ。そう思って進めば進むほど、弱者の群れに取り込まれる。
してみると、今回の農夫たちはまだ理性的な相手だった。以前に相手をさせられた豪農は、フィロスが皇帝の典医だったと知るや、あたかも自分自身が皇帝となったかのように居丈高に振舞ったものだ。こんな非常時にまで権力欲や見栄を優先する性根が、心底愚かしく思えた。
治療の礼に、と渡された食料を手に、フィロスは馬車へと戻った。
居留地の外れに停めたつもりでいたが、いつの間にか二人の馬車を囲むように天幕が並ぶようになっていた。それを見ると、まるで虜囚になったかのような気分になった。
だが、焚火の周りで難民の子供たちに歌や物語や授業をしてやっているソフィアを見ると、自然と胸につかえていた重石が取り除かれるような気がした。
彼が争いを調停して戻ってくると、いつもソフィアは嬉しそうな表情を見せる。誰かの病を治している時も甲斐々々しく手伝いをした。そして難民たちが寝静まった後、焚火の燃えさしの傍らでじっと天空を見上げては、星々についての知識を静かに語るのだった。いつしかフィロスにとって、彼女の語る言葉無くしては安らかな眠りにつけないようになっていた。
弱者の群れとは言っても、善人ばかりが集まっているわけではない。本来なら囚人となって獄に繋がれていなければならないような連中も大勢いる。ナイフで物を食って口回りを傷だらけにしている男や、酒ばかり飲んで腹だけを異様に膨らませているごろつきたち。
しかしそんな連中も、ソフィアにだけは手を出そうとしなかった。当初こそ賢く美しい少女に向けて下心を露呈していたが、次第にその気配は止み、遠巻きに眺めるだけになっていった。
彼らも分かっているのだ。これから自分たちが生きていく世界で、己の人間性そのものを試される時がやってくることを。そうなった時、自分が人か、あるいは獣かを選ばされるのだということを。
そしてソフィアは、この難民の群れの中で誰よりも強く理性と人間性とを保持し、他者に対して示し続けている。
あたかも燈台のように。
「辛くないか、ソフィア……?」
ある時ふと、自分でも深く意識しない内に、フィロスはそう問いかけてしまっていた。
彼女は少し困ったような表情を浮かべつつ「辛くはないです」と答えた。
そしてしばらく考え込んでから、「ただ」と言葉を繋いだ。
「怖くなる時は、あります」
「怖い?」
ソフィアはこっくりと頷いた。
フィロスにも、彼女が何について恐れているか分かるような気がした。ソフィアは、いずれ自分のそうした態度が意味をなさなくなることを予期していたのだ。いかに彼女の理性が、暗闇を照らす光のようなものであったとしても、それは蝋燭のようにささやかなものに過ぎない。
容赦無く襲いかかって来る現実を前にして、どれほど抗えるのだろうか。
そして、自分は最後までその姿勢を貫き通すことが出来るのか。
馬車の窓越しに暗黒を見つめているソフィアは、その蒼い瞳で、闇の向こうから忍び寄るものを見極めようとしているかのようだった。