マリオンは、何の疑いも持たずに、穢婆から差し出された香草茶を口に含んだ。
瞬間、蕩かすような甘味と香辛料のような渋味とが、一緒くたになって彼女の舌を刺激した。燃え立つ火のように香りが鼻腔へと流れ込み、花束に顔を埋めたかのような錯覚を覚えた。
客観的に見ればあまりに無思慮な行為とのそしりは免れないだろう。女王である彼女が、毒見役も解さずに、どこの誰とも知れない者が淹れた茶を飲むのだ。万が一のことがあれば、ここまで彼女を連れ出してきた者たちの努力が水泡に帰すことになる。いかに継火手が毒に強いとはいえ、出産直後で疲弊しきった身体では、何が起こるか分からない。
一方で、そんな危険な人物をギヌエットたちが通すとも思えない。もし闇渡りの虜となっていたならば、こんな風に呑気に構えていることも出来ないだろう。つまり、それ相応の信用と確証があればこそ、穢婆はここまで通されたのだ。
しかし、今のマリオンは、そんな当然の推論さえ頭から抜け落ちていた。愚かというのではない。力の限りを振り絞り虚脱した身体に、穢婆の淹れた茶の香りは、ほとんど薬同然に効いたのである。
継火手に毒は効かない。それはつまり、薬が効かないということでもある。薬とは常に毒と表裏一体であるからだ。その分、毒も薬も必要としない強靭な肉体と天火の自己回復力を備えているのだが、果たしてそれが本当に幸せであるかどうかは分からない。何となれば、末期の苦しみの時、それを和らげる麻薬さえ効かないこともあるのだから。
だから、このように香りによって心と身体が充足するという事実に、マリオンは驚かざるを得なかった。
無論、今まで高価な茶や香、草花や料理など、飽きるほどに差し出されて生きてきた。しかしそのいずれも、彼女の心を満たすことはなかった。それらが向けられているのはマリオン一個人ではなく、ラヴェンナ王女、長じてからは女王に対して提供されたものであったから。だからどんなに高価で貴いとしても、常に虚栄と打算の臭気が付きまとっていた。
だが、今自分が手にしている物……心をくすぐるとは言え、決して高価ではなかろう物……それは、過たずマリオン個人を射抜く物であった。
「……どうして」
自分でも知らず知らずのうちに、マリオンの声には涙の湿りが混ざっていた。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの……!? 私はそんな女じゃない、そんな価値なんか無い! それに……何より、貴女たちを迫害してきた煌都の、総元締めなのよ!?」
手の中の器に涙が落ちた。小さな波紋が広がって、描かれた花々の像を揺らめかせた。
「憎いと思わないの!? 殺したいと思わないの!? そうする機会はいくらでもあったはずよ、なのに、どうして……!」
マリオンの声はほとんど慟哭に近かった。そんな彼女に対して、穢婆の長老は穏やかな声で言った。
「不遜な物言いながら、陛下。我らは共に女子同士。我々は、女として生きることの痛みも辛さも、嫌と言うほど心得ております。
その我らがどうして、人としての大業を果たしたばかりの陛下に手を掛けることが出来ましょう」
その言葉が契機となって、マリオンの目から涙を溢れさせた。
一度自分の弱さを吐露してしまうと、後は歯止めが効かなくなった。自制しようという理性さえ働かなかった。
マリオン・ゴートは感情的な人物だが、貴種にありがちな、自身の血統故の優越感というものはさほど持ち合わせていない。むしろゴート家の家名と白色金の天火は常に彼女の劣等感を刺激し続けてきた。他者に向けられる攻撃性は、その劣等感の発露にほかならない。
そして、誰かに苛立ちをぶつけるほどに、そういう形でしか悲鳴を上げられない自分自身を一層嫌いになっていった。本当は流したい涙を、敵意や暴力に加工することしか出来ない不器用さが厭わしかった。
もし、グィドやギヌエット、あるいは手遅れとはいえ姉のエマヌエルに、こういう一面を見せることが出来ていたなら、苦しみの量も少なかっただろう。だが、マリオンにはそれを表現するだけの勇気が無かった。ことに姉に対しては劣等感があまりにも大き過ぎて、これ以上の負い目を積み上げることが出来なかったのだ。
マリオンはとかく姉を万能視しているが、実のところエマヌエルにも、妹のそういう悩みを汲み上げる視点が抜け落ちていた。為政者として、貴人として、大衆を見ることをあまりに重んじていたためであろう。
かつてエルシャの双子が訪れた際に、マリオンが不意に抱いた敵対感情は、本来エマヌエルに向けられるはずのものだった。姉が自分と同年代の少女たちに対して、あれほどの特別扱いをしたことが腹立たしかった。苛立ちの対象はカナンでもユディトでもなく、自分の嫉妬に気付いてくれない姉だったのだ。
だが、そんな心の動揺にも、マリオンは決して「寂しい」という名づけを行わなかった。
ありのままの自分から目を逸らし、それ故誰にも自己を表現出来なかったが故の不幸。あるところ自業自得であるかもしれないが、周囲の環境がそのように彼女を導いて行ってしまったこともまた事実である。
女王となり、白炎の継承者となるには、マリオン・ゴートはあまりに普通の少女であり過ぎたのだ。
しかし、最早何も無い。
マリオンの天火は、色が異なるだけで力は他の継火手と大差無い。
エマヌエルは後ろ姿だけを焼き付け去って行ってしまった。
都落ちした女王の命運など風前の灯火だ。その王子も同様であろう。
マリオンは言葉も無く泣き続けた。止めようとする努力が、かえって多くの涙を湧き上がらせた。
これまでの後悔……傷つけ続けた者たちへの罪悪感、振り向いてもらうことすら出来なかった初恋、姉への嫉妬と不満と苛立ちと憧憬、自傷行為同然の妊娠。
そして、これから襲い掛かってくるであろう数えきれないほどの苦難への恐怖。
手に持った器は揺れ、雫が点々と膝に掛かった。同様にマリオンの心の器も、とうの昔に容量を越え溢れかえっていたのである。
穢婆の長老は、その間一言も発することなく、ただじっとその場に留まり続けていた。彼女たちは同族の女性から疎まれる存在だが、同時に相談役や聞き手をさせられることもある。心を乱した者の話を聞くのは手慣れたものだし、長老自身、病を得る前は話を聞いてもらう側でもあったのだ。
それこそ、目の前で泣いているうら若い娘と同じように、抑えの利かない感情を吐き出したこともあった。自分の運命の向かう先が破滅であると知った時には、暴力さえ振るったこともある。自分の身が朽ちていく過程で何もかもを呪ったこともあった。
だが、時折こうして誰かの悩みを引き受けた時、ほんの少しではあるが、自分が生き続けていることの意味を再認するのであった。まさかカナンのような少女と話をすることがあるとは想像もしていなかったが、それ故に彼女と過ごした短い時間は心底楽しかった。
人生の終わり際に、あまりに眩しい少女と出会うことが出来た。カナンと出会うことこそ、自分が膿と腫瘍に覆われた身体を引きずって生きてきたことの意味だと思った。
だが、運命はさらにもう一人、出会うべき人を残していたのだ。
「……陛下、
まだお若い陛下が、その御身にいかほどの重圧を背負っておられるかは、
不敬を承知で申しますが、我々は自由に生きられないという点で似通っております。縛り付ける縄の素材が異なるだけで、それはいつも強く身体に食い込んでおります。麻で編んだ荒縄か、絹を縒って作った縄か……きっと陛下の涙も、その見えない縄が流させたものでありましょう。
非力非才の私には、その縄をほどいて差し上げることは出来ません。あまりに長い間……それこそ、陛下や、私めが生まれるよりも遥かに昔から縒られ続けてきたものでありましょうから。ですが、私めには、陛下がその縄に囚われている姿が見えるのです。陛下が虜囚のように縛り上げられていることをお教えして差し上げることが出来るのです。
馬や山羊や驢馬でさえ、己の口に嵌められた
痛ければ痛いと言えば良いのです。辛いと言えば良いのです」
「……でも、それだけじゃ何も変わらないわ。貴女の病気だってそうでしょ? 痛いのも苦しいのも、見れば分かる。でも、誰も何も出来ないじゃない……!」
マリオンは口の中に血の味を覚えた。実際に吐血したわけではない。自分の腹の底から出てきた言葉には、血混じりの切実さが含まれていたのだ。
「私には分かるのよ、
もう何もかも嫌なのよ! どうせ酷い目に遭う、どうせ抗うことも出来ない、どうせ何も変わりやしない! 私や貴女がどれだけ苦しんでいたって、この世界は何一つ気にも留めやしないわ! 神様なんていないんだから!!」
見開いた目に涙を溜めながら、マリオンは叫んだ。
その激しく震える肩に、穢婆の言葉は新雪のように静かに降り注いだ。
「……私は、神は居ると思うております」
「居るわけないでしょ! もし居るなら、貴女をそんな姿に変えやしないわ!」
「その点におきましては、神も大層残酷ではありましたな」
穢婆は忍び笑いを漏らした。だが、そこには苦渋も憎しみも、一片たりとも含まれてはいなかった。
「ですが陛下……今にして思えば、私はこの病を得たことによって、はじめて己の命に意味を見出せたのです。
ただ一人の闇渡りとして生きていたなら、陛下のような雲上人と
私に穢婆の知恵と伝統が受け継がれていなければ、こうして一杯の茶を献じて差し上げることも出来なかったでしょう。そして、この行為はいつか必ず意味を持ちうると信じたいのです」
マリオンはぶんぶんと首を横に振った。期待をかけるようなことを言わないで欲しかった。自分には、到底それを叶える力など無いと思い込んでいたから。
そんな彼女に対して、なおも穢婆は語り掛けることをやめなかった。
「どんなことが起きるかは私も存じ上げません。ですが、今こうして陛下と語り合えている事実こそ、一つの奇跡でありましょう。であれば、いつかこれ以上の奇跡が起きることを信じても良いではありませんか」
「……そんなもの、起きやしないわ」
「起きないかもしれません。しかし信じたいのです」
「何故!? どうしてそんなことを信じられるの!? 貴女だって、散々裏切られてきたでしょう……神様とやらに!!」
「ですが、最後にこうして、陛下の御前へと
陛下、お信じになることです。神や奇跡を疑っても構いません。たどり着くべき場所など無いと心の中でお思いになっても構いません。それでもお信じになってください。
何となれば、真に成熟した人間とは、不在の神や希望を信じて歩み続けることの出来る者を指すのですから。これは憂い多き人生の中で私が見つけた、ささやかな真理でございます」
マリオンは鼻で笑おうとした。正確には、笑い飛ばしてしまいたかったのだ。
穢婆の言う生き方のなんと厳しいことだろう。神や希望など無いと知りながら、あえて「ある」と信じて生きていくなど、矛盾の極みだ。
確かにそのように生きられる人間は美しく見えることだろう。その姿はあたかも、敗北の決まった戦場で奮戦する戦士に似て悲壮であろう。
しかし誰も彼もがそんな生をなぞり得るわけではない。凡人は本物の奇跡を目の当たりにしなければ、想像力の無さ故に、神を信じることも出来ないのだ。
だが、マリオンは奇跡に出会った。
ふと瞬きをした次の瞬間、目の前に年若い女性が佇んでいた。
継火手たるマリオンの目線で見ても美しいと思える面立ちで、黒く波打つ髪はそのまま闇渡りの漆黒の外套に溶け込むかのようだった。しかし何よりも印象的なのは、この世のありとあらゆる不幸を味わってきたにも関わらず濁っていない、清廉な黒い瞳だった。
彼女は手を伸ばし、汗で張り付いたマリオンの前髪を梳いた。そこには膿を隠すための包帯もなく、華奢な腕は淡雪のように白い。
そのほっそりとした指がマリオンの額に触れた瞬間、忘れかけていた疲労が一斉に襲い掛かってきて、彼女の意識を刈り取った。
だが、眠りに落ちていくその瞬間も、マリオンの頭の中では一つの言葉がぐるぐると渦巻いていた。
『真に成熟した人間とは、不在の神や希望を信じて歩み続けることの出来る者を指すのですから』
……再び疲れて寝入ってしまったマリオンを起こさないよう、穢婆の長老は静かに、しかし手早く茶道具を片付けた。
そして一切の任務が完了したと判断し、仲間たちと連れ立って、自らの死地となる場所を求めて歩き始めた。