時間はやや遡る。
大図書館も同様である。サラとフィロラオスの籠っていた地下書庫などは逃げ場としてこの上なく適している。しかし一度入り込んでしまうと、全てが終わった後、外に出ることも出来なくなってしまう。そういう意味では袋小路と言えるだろう。
だが、負傷者たちも、その負傷者に手当をする者たちも、先々のことまで考えている余裕は無かった。
「手の空いている者は手伝って! 包帯を巻くだけでも良いから!」
妓館の主で、商人会議の一員であるエステルもまた、高価な衣服も廓言葉も投げ捨てて働いていた。彼女自身に戦う力は無くとも、後方を預かる責任者として負傷者の収容や治療に当たっている。彼女の配下で、あえてパルミラに残った娼妓たちは顔を蒼白にしながらも、エステルの的確な指示故に何とか統制を保って動いていた。
サラは、そんな名も無い人々が必死に動き回っている様を、ただ眺めていることしか出来なかった。
今更善人を気取るつもりは無い。いくらトビアが引き上げてくれたとはいえ、自分が尋常ならざる存在であることもまた事実だ。普通の人々に混ざることは出来ない。
(……でも)
彼女は自分の衣の裾を強く握り締めた。
よもや自分に、こんな人並みの感傷があったなどとは驚きだ。今更、何も出来ない無力感などで当惑するなど。ましてや、名前も顔もろくに知らない人々のために。
この場において、最も役立たずなのは自分だ。フィロラオスは薬草や医学の知識を惜しみなく披露して治療に役立てている。一番手つきの覚束ない娘でも、負傷者の血や傷跡を恐れずに手当をしている。
何もしていないのは、自分だけだ。
(こんなのでいいわけが、ない)
分かってはいる。しかし何も出来ない。その上誰も彼女を責めようとしなかった。そんな余裕など無かったのだ。ただ目の前の仕事に集中している。
役立たず、という言葉は、誰からでもなくサラ自身が思い浮かべたことだった。至らなさ、気恥ずかしさが、より一層サラを俯かせた。
「まずいぞ、正門が破られた!!」
絶望的な知らせが舞い込み、閉架書庫が騒然とする。芸妓たちの中には泣き出す者もいた。エステルでさえ手を止めて口をつぐみ、フィロラオスは嘆息する。
そんな中、居ても立ってもいられなくなったサラは書庫の外へと飛び出していた。階段の下からフィロラオスの呼び止める声が聞こえてきたが、それを振り切って登り切り、図書館から駆け出した。
どうしてそんなことをしたのか、彼女自身分からなかった。無論、恐慌をきたしたわけではない。ただ、刻一刻と迫りくる絶望を、その正体すら確かめないまま迎えたくなかったのだ。
だが、目の前に広がっていた光景は、彼女の想像を容易に超越するものだった。
世界が赫く燃え上がっている。踊り狂う炎が天を焦がし、その暴力的な光が暗闇に慣れた視神経を嬲った。眦に涙を浮かべながら顔を上げた時、熱と共に灰交じりの風が吹きつけてきた。
同じ頃、継火手マスィルが見たのと同じ絶望を、サラもまた目の当たりにした。街の上を浮遊する火産霊は方々に光線を撒き散らし、その閃光が撫でた箇所は例外なく消し炭と化した。炎は一層盛んに猛り狂い、これまで人々が積み上げてきたありとあらゆる物を、あたかも二束三文の薪同然に呑み込んでいく。
ふとサラの脳裏に、パルミラにたどり着いた日に出会った人々の顔が浮かんだ。
そして次の瞬間、自分でも明確に意識しないままに彼女は走り出していた。
(ばかね、わたし)
今更世のため人のためなどと、あまりに虫の良い話だ。そんなことで自分の罪が贖えるとは思わない。怪物であることさえも放棄するのは、節操がないと己を責める声が聞こえてくる。ベイベルは最後の最後まで怪物であろうとしていたというのに。
「……でも!」
燃え盛る街路を駆け抜けて、サラはティグリス川の黒い水面へと飛び込んでいた。
一瞬の浮遊感の後に、冷えた水が全身を包むのを感じた。身体にまとわりついた気泡が剥がれて昇っていく。
薄目を開いて見えた場所は、サラにとって馴染み深い暗闇そのものだった。
(おねがい、わたしにやどった悪魔たち)
その暗闇の中で、最後の皇女は語りかけた。己の影に宿る悪魔たちへと。
――あなたたちが、ただの呪いでないというのなら……私に力をかして!!
その瞬間、サラは己の中に宿っていた強大な力が、再び息を吹き返すのを確かに感じた。血液に刻まれた
水に万年筆の筆先を浸した時のように、彼女の身体から黒い影が靄のように立ち上り、その華奢な肢体を覆い尽くす。腕の形をした影が繭の上に幾重にも巻き付けられ、胴体となり、腕となり、脚となり、尾となり、最後に獅子の面貌を象った頭部を織り成した。
彼女自身驚いたことに、夜魔の力に身体を明け渡したにも関わらず、意識は明瞭に保たれていた。何となれば、自分を包み込んだ悪魔の力が、主人の命令を待っている気配さえ感じる。
(……行って!!)
サラが念じると同時に、皇帝の悪魔は咆哮をあげながら川底を踏みつけ、
しかし、何もかも破壊し尽くされているだけに、サラも一切の躊躇なく突進することが出来た。巨体に似合わぬ速さで踏み込み、瞬く間に距離を詰めていく。建物の残骸を蹴り上げるたびに火の粉が舞い、巨木のような脚が道路を踏むたびに舗装が砕けた。
火産霊も迎撃を試みたようだったが、先程水面に斉射したせいか、次弾の発射までにいささか手間取った。浮遊する光球に光が宿った時には既に、サラの悪魔はその懐へと潜り込んでいた。
突き出された槍が、燃え盛る磔刑者の胸部を強かに打ち据えた。しかし、サラが望んだ結果とは到底異なる。完全に突き殺すつもりだったのだ。だが、火産霊を覆う熱波が、影で織り上げられた槍の穂先を溶かし、ただの鈍器と化さしめたのである。
それだけではない。至近距離であるだけに、火産霊の後光は容赦無くサラの悪魔を焼いた。表面が溶解し、その熱は繭に包まれているサラにさえ微かに届いてくるほどだった。
加えて、先ほど発射寸前まで力を蓄えていた光球に、再び火力が宿りつつあった。火産霊の首から上に浮かんだいくつもの眼球が怪しく光った。
そこから放たれた光は、そのままサラ諸共、
そのまま、サラは
火産霊は建物を巻き込みつつ、左半身を下にして倒れ伏した。
「今っ!!」
サラは叫んでいた。そして
槍を投げ捨てて新たに剣を創造する。長さの代わりに、肉切り包丁のような分厚い刀身を持たせたものだ。それが完全に出来上がるのも待たずに飛び上がり、逆手に握ったまま振り下ろす。
剣の厚みに加えて、巨大な悪魔の質量も加わるのである。そのまま直撃すれば、火産霊を仕留めることも叶っただろう。
だが、繭の中にいたサラは、火産霊の奇妙な動きに気付いてしまった。咄嗟に感じた違和感であり、しかもすでに行動を起こした後である。軌道修正も出来ない。
先ほどまで、あたかも磔刑に処されているかのようにピンと伸ばされていた火産霊の右腕が、だらりと垂れ下がっていたのである。違和感の正体はそれだった。そして、その違和感が牙を剥くまでに、瞬き一つ分の時間すら無かった。
火産霊の腕が鞭のように
真紅の槍が、今まさに飛び乗ろうとしていた大魔の腹部を刺し貫いた。
皇帝の悪魔が、まるで串刺し刑のように高々と、燃え盛る街の上空に掲げられる。穿たれた箇所は灼熱し、獅子の口から苦し気な呻き声が漏れ出た。
浮力を取り戻した火産霊が再び浮上する。そして、一際高く大魔を掲げた直後、地面を割るかのような勢いでそれを叩きつけた。衝撃によって脆くなっていた胴体が破断し、巨体を支えていた下半身が灰と化した。
最早一瞥もくれずに、火産霊は燈台へと向き直らんとする。厄介な障害は排除し、残るはあの建物の下に集った人間たちだけだ。それらが皇帝の悪魔以上の脅威になることは無いであろう……もし火産霊に知性があったなら、そのように判断したはずだ。
だが、巨人たちの戦いは確かに人間たちに時間を与えていた。
反撃の嚆矢を