「
サラの操る大魔が出現した瞬間、ラエドはそれが敵か味方か判然とするのも待たずに命令を飛ばしていた。
継火手マスィルの持ち込んだ作戦を実行するには、今しばらくの猶予が必要だ。それをもたらしてくれるのであれば、神であろうと悪魔であろうと使い倒す覚悟だった。そして実際に悪魔が現れてくれたのだから、この好機に乗り掛かるのは当然の判断である。
老将軍の命令を受けて、聖銀製の剣を持たされた守火手たちが大燈台へと駆け込んだ。一人一本などではない。二本か三本、あるいはそれ以上の本数を抱えて燈台の階段を駆け上る。
これらの剣は、ウルクからの難民団より供出された高純度の聖銀によって出来ている。オレイカルコスの剣とは比ぶべくもないが、天火を吸収、貯蔵する能力を有するという特徴を備えている。それを、パルミラの精鋭である都外巡察隊や守火手に優先して配分していたが、最早そのほとんどが本来の主を失ってしまっていた。
だが、これらの剣は未だ役目を失っていない。
まだ、パルミラを護るための、最後の仕事が残っている。
◇◇◇
ラエドが動き出したのとほぼ時を同じくして、トビアもまたパルミラへと生還していた。戦線から最も遠い小島に這い上がり、大きく息を吐いた。
「リドワン、大丈夫かい?」
濡れた鳶色の髪をかきあげながら、トビアは傍らの相棒に問いかけた。同じく鱗や翼から水を滴らせた
火産霊からの攻撃で翼を撃ち抜かれ、一旦は墜落しかけた二人だが、すんでのところでトビアは風術を発動させていた。そのまま戦域から離れ、戦場となっていないティグリス川に着水させたのだ。
空を飛ぶ生き物である竜に水泳をさせるのは大変だったが、リドワンは何とかパルミラへと辿り着いてくれた。
だが、すでに煌都は陥落寸前の状況に陥っている。火産霊はトビア一人どころか、パルミラという街そのものにとっても手に負えない相手だった。
それでも、まだ軍が統制を失っているようにも見えなかった。むしろ最後の戦いを挑むべく集結しているようにさえ感じられる。とても敗軍の雰囲気とは思えない。
(僕にもまだ、出来ることが……)
知らず知らずのうちに、トビアはベルトに吊るした剣に手を触れさせていた。
正確には、それは最早剣としての機能を果たし得ない。刀身を失ってしまっているからだ。
だが、これが剣として造られたのは、ほとんど象徴的な意味合いであろう。本体と言えるのはむしろ、人面を模した彫刻の部分、そしてそれを宿した柄だ。
ウドゥグの剣。かつてパルミラを脅かした魔剣……その残骸であった。
闇渡りの王の手にあって夥しい量の血を啜り、表面上は静謐であった世界に数百年ぶりの戦争を巻き起こした呪物である。ウルクの大坑窟より持ち出され、戦争の後はサラが保管し、ついには彼女よりトビアへと託された。あまりに多くの因縁を背負った武器である。
しかしその力を振るえるのも、残すところ数度であろう。戦闘による破損が原因なのか、あるいは使用回数があらかじめ定められていたのか、ウドゥグの剣は徐々にその機能を落としつつあった。無理に使おうとすれば、破損して二度と用をなさなくなるだろう。
(それで良いんじゃないか)
この剣はあまりに血を吸い過ぎている。だからこそ、正しい目的のために使わなければならないとトビアは思った。
その正しい目的とは、まさにパルミラを護ることではないだろうか?
まるで、そんな彼の思考と噛み合ったかのように、パルミラ市街で異変が起きた。突如として川から出現した巨大な夜魔が、侵攻する火産霊に組み付いたのだ。
その夜魔が誰によって呼び出されたか、そして何のために戦っているのか分からないほど、トビアは鈍くなかった。
「サラ……っ!」
彼女は明らかにパルミラを守るため戦っている。決してティヴォリ遺跡の時のような、無軌道な暴れ方ではない。
サラにとって夜魔憑きの力がどれほど忌まわしいものか。恐ろしいものか。この街でトビア以上に理解している者はいない。彼女にとって、触れずにいられるならそうしたかったであろう。
だが、サラは自らの呪いをも利用して戦っている。
後ろで竜が「ウォン!」と鳴いた。まるで行けと言うかのように、丸い頭部でぐいぐいとトビアの背中を押す。
傷ついた相棒を置いていくのは気が咎めた。だが、トビアの胸の内は、沸騰した鍋のようにぐらぐらと煮立っている。
サラの操る大魔が敗北したのを認めると、最早我慢は出来なかった。
「……ごめん、絶対に迎えに来るから!」
気にするなとばかりに竜が翼をばたつかせた。
トビアは上着を脱ぎ捨て、片手にウドゥグの剣の残骸を握り締め走り出した。今の自分に出来る、最良のことを成し遂げるために。
きっとイスラであっても、同じように振舞っただろうと信じて。