八歳の時、初めてマスィルは天火を灯すことを許された。
それまで自分の中に確かな力があることは感じ取っていたが、発現させることは禁じられていたし、また恐れてもいた。
そして、生まれて初めて生み出した天火が小さな手のひらの上で弾けた時、ぞくりとするような美しさと、皮膚で感じる熱とは正反対の冷たさを覚えた。
火という現象そのものの美しさと怖さを知ることは、どんなに感受性の鈍い継火手であっても必ず一度は通る道だ。その怪しい魅力に見惚れる者もいれば、カナンのように畏怖を強く抱いたり、ベイベルのように炎そのものに呑まれてしまう者もいる。
マスィルは、鈍い側の人間だ。だから初めて天火を操った時の感動を今更になって思い出している。
彼女はパルミラ本島の中央道路、さらにその中心に陣取っていた。周りに遮蔽物は無い。だがここを措いて、火産霊に必殺の攻撃を仕掛けられる場所は他に無い。
マスィルは深く息を吸いこみ、両腕を大きく開いた。両の掌を広げ、その中心に天火が集う様を想像する。
「我が彩炎よ……この天命を糧となし、神威の槍となりて御前に
勇敢な彼女をして、今、自分の中で滾りつつある劫火を認識するのは怖かった。
それこそ、初めて炎に触れたあの日のように。もしかするとその時以上の恐怖かもしれない。いや、あるいは今まで、天火の真の怖さを知らずに来たのではないか。
一言唱えるごとに、己に宿った天火がかつてないほどの火勢を得るのを感じた。まるで乾ききった森に突き刺さった落雷のように、言葉が火を呼び、火が炎となって、人知の及ばぬ力へと膨張していく。
しかしそれは、同時に大量の天火を失うことをも意味した。成程、命削りの術というだけのことはある。マスィルはあらためてそのことを自覚した。
あたかも大河の堰を切ったかのように全身の天火が両腕へと吸い上げられていく。今はまだ解き放たれていないが、これが術として成立したなら、自分という存在そのものを食いつくされてしまうような気がした。いや、そもそも完全に完成させることが、今の自分の天火で可能なのかさえ分からない。
だが、だからこそマスィルは一計を案じていた。
「マスィル様、お使いください!」
数人の守火手が彼女に駆け寄り、その傍らに次々と剣を突き立てていく。いずれも聖銀製の武器であり、その刀身全体に大燈台の天火を漲らせている。マスィルは詠唱の中断こそ出来ないものの、こくりと頷いて謝意を表した。
「
マスィルの手が剣に触れると、そこに蓄えられていた天火が彼女を経由して術へと流れ込んでいった。
熾天使級法術は、継火手という選ばれた者たちの中でも、さらに特別な存在にしか扱えない術だ。そしてマスィルは、自分をそんな特別な存在だと思うほど己惚れてはいない。確かに彼女の彩炎は鮮やかだが、力そのものは頭抜けて大きいというわけではないのだ。
だから、パルミラの大燈台……この街を数百年に渡って見守ってきた、大いなる聖火から加護を賜るしかなかった。
こんな時でなければ思いつかなかっただろう。大燈台の天火とは灯す対象であって、受け取る対象ではないからだ。しかしパルミラが危機に瀕している今、大燈台の力を借りることは、かえって強固な信仰に基づく行為として正当化出来よう。
彼女たちには知り得ないことだが、実は他の煌都でも同様の事は試行されていた。熾天使級とは言わないまでも、法術を一発でも多く撃てるに越したことはない。
しかし彼らには、天火を貯蔵する手段が不足していた。名家の人間ならば高価な聖銀製の武器を持つことも叶ったが、その数があまりに少なかったのである。畢竟、戦力に足るだけの天火を貯蔵することは出来なかった。
パルミラにはそれが出来た。
純正の聖銀を大量に保有するからこそ、マスィルの無茶な提案を実行に移せたのである。その切っ掛けを作ったのは、かつてカナンに率いられたウルク難民が聖銀を持ち込み、パルミラが商都としての判断でそれを受け容れたからである。いわば、パルミラという街そのものの判断が、巡り巡って危機の時に益をもたらしたのだ。
その力が、今、マスィルの両手の中にある。
彼女の手中から、二本の炎の柱が屹立した。
「翳ることなき、武威の……っ!!」
火産霊と目が合った。マスィルにはそうとしか感じられなかった。
無数に眼球を浮遊させた怪物の、一体どれと重なったのか分からない。否、ぶつかり合ったのは互いの互いに対する敵意そのものだ。
(嗅ぎ付けられた!)
燃え盛る磔刑者の眼球が光を孕んだ。それを見た者に、一瞬のうちに死をもたらす閃光である。マスィルとて、右足の踵を浮かさずにはいられなかった。
だが、それが放たれる直前、火産霊の顔面に向かって幾条もの天火が殺到する。パルミラ本島の各所に散開した継火手たちによる牽制射だ。号令など必要無い。彼女らに与えられた使命はただ一つ、マスィルの詠唱完了まで火産霊を妨害することである。その最適の瞬間は、まさにマスィルが狙われた時に他ならない。
それがどれほど危険な任務か、今更分からない者などいない。そんな任務に志願するなど自ら死ににいくようなものである。
だが、あえて気狂いの境地に立った継火手たちは、恐れを勇気で踏み躙って光を放った。
そして、そんな覚悟を帯びた戦乙女たちに、守火手もまた運命を委ねた。
何も無策で飛び出したのではない。彼らはパルミラでも選りすぐりの駿馬に継火手を乗せて、全力で走り回らせていた。火産霊の攻撃はあくまで一点に向けて放たれるものであって、ある種の法術のように誘導したりはしない。撃ってくると分かっており、その瞬間さえ見極められれば、回避することは決して不可能ではないだろう。
とはいえ、容易でないのも事実だ。いかんせんあちこち燃え上がっており、どれだけ鞭をいれても馬が躊躇ってしまうことがあった。その瞬間に焼き払われた者たちもいる。あるいは砕けた舗装に足をとられて転倒し、二人揃って投げ出されたところを狙われた者たちもいる。全てを受容しならがも、せめて手だけはと、繋ぎながら光に呑まれ者たちもいる。
火産霊には、そんな人間の悲劇や感傷など通用しない。ただ牽制を排除し、再攻撃を仕掛けるのみである。
そして放たれた一発は、だが、またしても妨害された。
今度はマスィルの正面に展開された、何重もの防御法術によってだ。あたかも緞帳のように彼女の正面を護り、火産霊の光線を減退させる。もしかの魔人に口があったならば、舌打ちする音が聞こえただろう。
だが、防御は完璧とはいかなかった。あまりの長期戦と緊張とで、すでに体力的に限界を迎えている者も多い。何とか光線を防ぐことは出来たものの、その余波までは消せなかった。
法術と光線の干渉によって衝撃波が生じ、マスィルの周囲に集っていた継火手や守火手を薙ぎ倒した。マスィルは何とか踏みとどまったが、別の問題が生じていた。
両腕に展開させていた天火が急速に力を失う。天を突いていた炎の柱が目に見えて萎れていく。衝撃波によって、集められた剣が吹き飛ばされたためだ。
(ここまで来て……っ!!)
マスィルは歯噛みした。術として成り立たせるには、現状の天火だけでは不十分だ。ただ
その背中を、いくつもの手が押し上げた。
マスィルは我に返った。背中に、腕に、腰に、いくつもの手を、そして天火を感じる。
薙ぎ倒されて泥まみれになっていた継火手たちが、ほとんどすがりつくかのように彼女を支えていた。知っている顔もいれば、知らない顔もある。自分より年下もいれば、年配の継火手もいる。
彼女たちの後ろに、また別の継火手たちがしがみついて天火を送り込んでいた。その列の最後尾では生き残った守火手たちが聖銀の剣をかき集め女たちの手の中に押し込んでいる。なかには片腕を失った女を支えて、その最後の願いを叶えさせてやっている者もいた。
誰もが恐怖していた。絶望の影を見いだせない者は一人もいなかった。死の予感が彼らの顔から血の気を奪い去っていた。
だが、その同じ顔のなかに、いかなる夜の天空にも必ず何かの光が宿るのと同様に、人の持ち得る良きものが確かに光輝を放っていた。
「あいつをやっつけて!!」
誰が言ったか分からない。誰の言葉でもいい。誰もが望んでいたことだから。
マスィルは深く息を吸い込んだ。それに応えるかのように、流れ込んできたいくつもの天火が術に取り込まれ、炎の柱が再び火勢を取り戻した。長さは火産霊の全長に迫るだろうか。
それは空中で計六つの翼へと変化し、螺旋を描くかのように交じり合った。翼の表面に目と口が出現し、解読不能の聖歌をけたたましく歌いたてる。
その大音響が降り注ぐ中では、マスィルを呼ぶ声など聞こえようはずもなかった。
だが、彼女は一人の少年が駆けてくるのを視界に捉えていた。否、その手に握られた剣の残骸に、嫌が応にも目を向けざるを得なかった。
忘れることなど出来ようはずもない。彼女の最も愛する者の命を奪った剣だからだ。パルミラに大きな厄災をもたらし、彼女の大切なものも、誇りさえもずたずたに斬り裂いていった忌まわしい剣。今でもまだ、あの瞬間を夢に見ることさえあるほどだ。
だからこそ、それが現れた意味も、マスィルには理解出来た。
マスィルは迷わず首を縦に振った。それを受けて、トビアは彼女の前で片膝を突き、火産霊に向けてウドゥグの剣を構える。彼の両腕に彫られた入れ墨が光を発し、魔剣の放つ霧を緑風に乗せて吹き付ける。
これで良い。マスィルはそう思った。全てはこうなるべきだったのだ。
ウドゥグの剣とそれにまつわる記憶は、彼女にとって絶対に乗り越えなければならないものだった。
(上等じゃないか)
使い潰してやる。
「翳ることなき武威の元……!!」
マスィルが右半身を引くと同時に、地面に対し垂直に立っていた炎の柱が、平行に横倒しになった。彼女はあたかも投槍兵のように大きく右脚を引き、両の手で抱えるかのような体勢をとった。
だが同時に、火産霊の全ての目が一点に集まるのが見えた。それらが合わさり、一つの巨眼となる。今までとは比較にならないほどの灼光が滾り、あたかも地獄の一部を切り取ってきたかのように輝いた。そこから放たれるであろう攻撃の威力も、容易に想像がついた。
『だいじょうぶさ』
本当にそう聞こえたのだろうか。
だが、耳元で懐かしい声が囁いて、去っていったような気がした。
いつしかマスィルは笑みを浮かべていた。何故笑ったのかよく分からない。だが、今この瞬間だけ、恐怖や不安の一切が取り払われていた。以前はずっとそうだったのだ。ヴィルニクが生きていた頃は。それがたとえどんな渦中であっても。
今、その時の安らぎが甦っていた。それが彼女に、最後の一言を発させた。
「突き穿て!
マスィルの、そしてパルミラの全てを乗せた巨大な槍が解き放たれた。
交じり合った炎の翼は、あたかも穿孔機のように回転しながら目標に向かう。ただの一撃ではない。ウドゥグの剣から放たれた霧に点火しながらの攻撃だ。それは最早、焼き尽くすとか貫くとかいう言葉では足りないほどの威力を発揮した。パルミラの街を割り、ティグリス川の流れさえも変えるほどの一撃だ。
しかし火産霊の迎撃は、それに抗し得るものだった。現に、放たれた巨大な熱線は、空中で聖槍の進攻を押し留めたのだから。
迎撃は成功したであろう。もし、上半身だけになった
火産霊は失敗した。そして、己の纏う獄炎以上の力に貫かれ、ついにパルミラの上空に四散した。
だが、聖槍は火産霊を貫いてもなお進み続け、城壁の向こうに犇めいていた無数の夜魔さえも薙ぎ倒し、最後に大輪の華となって地平を照らした。
もし知る者がいたならば、その光景を夜明けと呼んだであろう。