事実上陥落したエルシャの中で、東門に集まったユディトの部隊だけが統率を保っていた。しかしそれは、言うならば濁流から突き出た岩に辛うじてしがみついているような状態だ。いつ流れに身を攫われるか、あるいは上流から流れてきた流木に押し出されてしまうか分かったものではない。
そして、目の前ではさらなる絶望が形となって現れようとしていた。
「まるで、地獄の絵を覗いているような心地です……」
仮指揮所の屋上に立ったタマルは、眼前の光景をそのように表現した。しかし異論を唱える者は誰一人としていなかった。
貧民街の中に侵入した夜魔たちは、ある一時を境に攻撃を停止していた。それまでの苛烈さが嘘のようにぴたりと動きを止め、やがて熱し過ぎた飴細工のようにどろどろと溶解を始めたのだ。
もしや勝利したのでは、という幻想は一瞬で打ち砕かれた。泥状の物質となって溶け出した夜魔の肉体は、そのまま戦場のある地点に向けて移動を開始した。
すなわち、剣匠ギデオンの立っていた場所へと。
誰も決定的な瞬間を見ていたわけではないが、一つ確実なのは、彼がその泥に呑み込まれてしまったということだ。もし彼が健在ならば、今でもエルバールの金色の剣閃が瞬いているだろう。
「まさか、ギデオンが」
イザベルも、自分の声が震えるのをどうしても止められなかった。一人の男として見るなら欠点も多いが、剣士としては完全無欠の存在だ。いや、人の範疇すら超えているのではないかとさえ思う。先ほど助け出された時に覚えたのは、かつて彼女がベイベルに仕えていた頃と同種の恐怖感だった。
そのギデオンでさえ、この状況には抗えないのか。そう思い知らされた時の衝撃と虚脱感は、自分が予想していたよりも遥かに大きかった。
そしてふと我に返り、今、自分以上に虚脱しているであろう主を見やった。
だが、ユディトは視線こそ一点に合わせているものの、横顔は平静そのもののようだった。
「全軍、撤退。エルシャから脱出します」
イザベルは耳を疑った。隣にいたタマルやそれ以外の者たちも、自分と全く同種の表情を浮かべていた。
「ユディト様、よろしいのですか!?」
タマルが声をあげた。自分のことでないにも関わらず、若干裏返ってしまった響きのなかに、イザベルは彼女の人の好さが滲み出ているように思えた。
ユディトはゆっくりと振り返った。真正面から彼女の表情を見た時、一同にはようやく、彼女の中の煩悶が理解出来た。
「……私個人の感情を持ち込むわけにはいきません。貴女たちを……死なせるわけには、いかない」
彼女は決して、自分の中の心苦しさを露呈しない。鉄面皮を被ってでも素顔を隠そうとする。
だがそんなことは不可能だ。まだ若い彼女の人生の半分近くを、彼を想うことに費やしてきたのだ。痛みや苦しみを隠そうとすると、かえってより痛々しい表情になるということを、ユディト自身自覚していた。それでもなお、どうしようもなかった。
今すぐにでもギデオンの元に駆けつけたい。一方で、継火手として、大祭司の子としての責務がある。エルシャから単身逃げ出すことは拒否したが、部下たちにも逃げ出す可能性があるとするなら話は別だ。この場にいる者だけでも脱出させたい。
感情と義務感が、ユディトの中でせめぎ合っていた。どちらも決して軽んじることは出来ない。
だが、ここには自分以外、数百人の人間が集まっている。その命の重さを見誤るほど、彼女は愚かになり切れなかった。
彼女一人では、無理だっただろう。
「それじゃダメだよ、ユディトちゃん」
声が聞こえた瞬間、真っ先に身体を動かしたのはイザベルだった。階段に身体を擦りつけるようにして登って来ていたイザベラを抱き寄せる。包帯で上半身を巻いているはずだが、その上の肌着にまで血が染みだしていた。
「イザベラ……」
「ユディトちゃん、今は義務とか何とか言ってる場合じゃないんだよ。ユディトちゃんにとって、一番大事な時なんだよ」
エルシャ中を見渡しても、継火手ユディトをここまで馴れ馴れしく呼ぶ人間は他にいないだろう。だが、誰もイザベラをたしなめようとしなかった。姉の腕に抱かれ、荒い息遣いのまま喋ろうとする彼女に対して、何かを言える人間などいようはずもない。
それは、普段怒鳴り散らしているユディトも例外ではなかった。
「自慢の長い髪の毛まで切って戻ってきたんだよ? それなのに、簡単に諦めちゃって良いの? ずっとけんしょーのこと好きだったんでしょ?」
あまりに明け透けな言い様に、流石にユディトの鉄面皮が揺らいだ。だが、必死にそれを取り繕って「そんな簡単な話じゃないわ!」と言い返す。
「私には継火手として……大祭司の娘としての義務が……!」
「それって、煌都が無くなった後でも残るものなの?」
「っ……!」
黙らざるを得なかった。良くも悪くも煌都の人間として育ってきたユディトには、想像もつかないことだった。
だが、イザベラは違う。
「ハッキリ言うよ。もうエルシャはおしまい……ううん、世界中、どこの煌都だってきっと同じだよ。もう今までの世界なんてどこにも残らないんだよ。
だったらさ、ユディトちゃん。このまま逃げたって、生きてるのも死んでるのも、同じってことにならない? けんしょーを見棄ててユディトちゃんだけ生き残っちゃったら、きっと死ぬよりもっと辛いよ?」
「……まるで死ねと言われている気分です」
「そうだよ、死んだらいいんだよ!」
全員が全員、流石に驚かされた。傷の深さや絶望感のせいで彼女が自棄を起こしているのではないかと勘繰る者もいた。
だが、イザベラが心底真面目に語っているということを、姉であるイザベルはしっかりと読み取っていた。短いながら身近で過ごしてきたユディトも同様だった。いつも適当なことばかり言っているイザベラが、ここまで真剣な表情で話をしたことなどかつて無かった。
「……そりゃあ、さ。死ぬより生きてる方が良いよ。あたしも生きていたい。今、滅茶苦茶痛いけど……でも、お酒飲んだり高いお買い物をしたり、やりたいことまだまだいっぱいあるから。そうやってダラダラ生きるの、好きだから。
でも、ダラダラ生きてるだけじゃ行けない場所もあるって。それを教えてくれたのは、ユディトちゃんなんだよ?」
「私が……?」
「そう。ユディトちゃんにやられて、捕まって。あたしもイザベルも、もう終わりだーって思ったもん。
だけど、大坑窟を出てみたら、今までと全然違った世界があったの。あたしにはあんまり楽しそうには見えなかったけど、こういう生き方もあるんだって思わせてくれたのは、ユディトちゃんがいたからなんだよ。
あたしもイザベルも、一度死んだようなものだよ。でも、気が付いたら全然違う場所に立ってた。前より生きてるって気がする。
そんな世界を見せてくれたユディトちゃんが、今度は死んだような顔していきてくつもりなの?」
妹の身体を抱きかかえながらも、イザベルには、主が己の手を固く握り締めたのが見えていた。「ユディトちゃ……!」言葉を継ぎ足そうとしたイザベラが咳き込んだ。喉の奥から血の絡まる音がせり上がってきた。すでに顔色は蒼白で、これ以上何も言えそうにない。
夜魔だった汚泥の蠢く音だけが、轟々と響いていた。ユディトはその音の中で何度か両手に力を込めて、最後に緩めた。
「……今の私には、そんな決断は出来ません」
イザベルとイザベラは同時に表情を強張らせた。だが、すぐにユディトは二の句を継いだ。
「タマルさん。指揮官職を引き継いでください」
「はい! ……っ、ええっ!?」
タマルの反応はごく自然なものだった。他の士官や兵士たちも同様の困惑に見舞われていた。
だが、ユディトの表情は真剣そのものだった。
そして、矢継ぎ早に指示を繰り出した。
「私の見る限り、北東のバーシャ門は比較的安全です。夜魔の動きも止まってる。兵力を集中して一気に駆け抜ければ、負傷兵や物資を抱えての脱出も可能でしょう。
その後は闇渡りの襲撃を警戒しつつ森を抜けてラマテの町に向かって下さい。本隊は分散させず、偵察は必ず五人一組で行うように。私の部隊は街道警備隊が母体になっているので、そういう動きにも慣れています。
もしラマテが陥落していたとしても、詰所の地下に都外巡察隊の物資集積庫が残っているはずです。そこで補給を済ませて、一気にテサロニカへ。夜魔がいないとしても、主要街道を使ってはなりません。落ち武者狩りを目論んだ闇渡りが網を張っている可能性が高い。なるべく利用頻度の少ない道を選んで、戦闘の機会を減らすように……」
タマルは目を白黒させていたが、内容はちゃんと頭の中に入れていた。ユディトは、彼女がその任に堪えるだけの人材だと信じていた。現に自分が離れていた間も、この困難な戦線を維持し続けていたのだ。並みの継火手以上に度胸もある。
言い切って、ユディトは深く息を吸い込んだ。
これはこれで、無茶だし身勝手な話だと思う。責任放棄と言われればそれまでだ。こんなに乱雑な引継ぎを寄越される方が良い迷惑だろう。
だが、偉いままではギデオンのところに行けない。
ユディトにとって、義務感と身勝手さの妥協点は、ここにしかなかったのだ。
「タマルさん、お願いします」
ユディトは頭を下げた。彼女に頭を下げるのは、今日だけで二度目だ。それもごく短時間に。重々しさも何もあったものではないな、と自嘲する。
タマルはしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように唇を引き締め「承知しました。お引き受けします」と答えた。
「ありがとう……」
だが、その後にタマルが発した命令は、ユディトの思惑を外れたものだった。
コホンと咳払いをしてから、ツンとした表情でタマルは言った。
「指揮官として皆さんに命じます。
全軍は
そうでない者は……」