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【第二三三節/世界で最も美しい継火手 下】

 轟く黒い川の上をユディトは駆け抜けた。正確には跳躍したと言うべきか。


 エルシャ貧民街にひしめく建造物。ユディトはそれらを走路に選んだ。


 奇しくもカナンがイスラと出会った日、都軍からの追撃から流れるために使ったのと似たような走路だ。ユディトはそうした場面を全く知らない。しかし、もし知ったならば、自分と妹がなぞった相似形に苦笑せずきはいられなかっただろう。


 無論、今のユディトは合理的な理由でこの道を選んでいる。まだ建物の上にまでは、夜魔の黒い泥濘は届いていないのだ。


 だが、時折その水面から、あたかも意思を持った生き物のように黒い触手が飛び出し、ユディトを引き摺り下ろそうとする。黒い川に呑まれればどうなるか分からない。しかし、決して愉快な体験にならないことだけは確かだ。


「邪魔よ!!」


 樹の幹ほどもある触手を、だがユディトは動ぜずに斬り捨てる。斬り捨てながら、一切速度を緩めずに屋根から屋根へと身を翻す。一つ建物を越えるごとに抵抗はより激化し、幾度となく彼女の足を刈って奈落へ引き摺り下ろそうとする。


 だが、そうした障害が立ち塞がるたびに、ユディトの心は燃え上がった。邪魔が入るのは、目指すべきものが確かにあるからだと、何の根拠も無くそう信じた。最早彼女に出来ることは、突き進む以外に何も無いのだ。


 黒い触手は、あたかも森の木々のように聳え立ち、彼女の行手を阻む。すぐ目の前に迫るものは剣と法術でどうにか出来るが、大外から来られると流石に対処し切れない。


 故に、そうならないよう、ユディトを追走する一段が先んじて援護に入った。タマルが法術を放ち、イザベルはユディトの後背を守る。他にも数名の継火手が後に続き、ユディトほどの速さではないものの必死で食らい付いていた。


 さらに外側からは、生き残った都軍兵士たちが互いを庇い、あるいは最前線を征く継火手たちを助けるために矢を放つ。それすら持っていない者は石なり瓦礫なり、手当たり次第に投げては少しでも注意を逸らそうとしていた。


 ユディトの言うように、これは最早、彼女の個人的な戦いに他ならない。この戦局でなおエルシャに留まり続けるのは自殺行為だ。


 しかし、不思議と誰も、自分たちの行なっている非合理的な戦闘をおかしいとは思わなかった。末端の一兵士に至るまで同じ心境だった。


 彼らは朧げながら、奇跡というものを信じようとしていた。明確にそう認識している者は少ないかもしれない。しかしユディトならば……あの誇り高く美しい継火手ならば、無為な行動すら有為に変えてしまうのではないか。悲劇とは異なる結末を自分たちに見せてくれるのではないか。


 世界が終ろうかという時に、このような淡い希望を持つのは愚かしいことかもしれない。しかし、人間はいかなる時であっても物語に依存しなければ生きていけない生き物だ。ましてや自分たちを覆う現状が個人の力では覆し得ない時、物語に縋ろうとする欲求は否応なしに高まる。それを愚かと断ずることが出来るのは、よほど強靭な精神を持った者か、生きることへの知恵を欠いている者の二通りであろう。


 そして、その物語への欲求の、究極の形こそ信仰であろう。


 神が人間の欲求から生じるのであれば、そもそも主体的な人格を持った神は存在しないことになる。


 しかし、不思議なことに、人々が内心で「居ない」と思っている神への信仰が、時として奇跡としか言いようのない事象を引き起こすこともまたあり得ることなのだ。



 まさにユディトは今、この場の物語の主人公であり、また女神であった。



 彼女に向けられる忠誠はある種の信仰に基づいていると表しても過言ではない。極限状態に置かれた人間が、ある特定個人に対して実像以上の輪郭を与えてしまうのはままあることだ。



 だが、燃え盛る剣を振りかざし、まばゆい金色の髪に火の光を反射させて駆け抜けるユディトの姿が、否定し難い神聖な印象を伴っているのもまた事実であった。



 彼女は真に、エルシャで……否、世界で最も美しい継火手だった。



 もちろん当事者たるユディトにその自覚は無い。自身が美女であることは知っているが、世界一かどうかはどうでも良かった。ましてや女神や天使を気取るつもりもない。


 彼女は一人の人間として、ただ一心不乱に走っていた。目指すべきもの以外、何も目に映らなかった。轟く黒い川も、その水面から飛び出してくるおぞましい妨害も、ただ蹴散らし踏み越える対象でしかない。それらに対して抱く恐怖は、もう二度とギデオンに会えないという未来に比べれば砂粒同然の脅威でしかなかった。


 その脇目も振らないひた向きさが、彼女の純粋な印象をより一層高める。戦場の最前線で眩く輝くほどに、彼女を支えんとする人々の働きも盛んになった。



『無駄なことを!』



 突如として人ならざる者の声が響き渡った。


 同時に、ユディトの進行方向の水面が盛り上がり、魚が跳ねたかのようにいくつもの飛翔体が飛び出す。


「我が焔よ、恐怖を祓う覆いとなれ! 励天使の薄布イロウルズ・ヴェール!」


 ユディトは瞬時に防御法術を展開する。剣先から溢れた残光が遮蔽となり、牙のようなそれら飛翔体を弾き飛ばした。そのままお構いなしに駆け抜けようとするが、不意に真後ろから服を引っ張られ尻もちをついた。彼女を引き留めたのはイザベルだった。


 直後、ユディトが跳び移ろうとしていた建物が、真下からの突き上げによって粉々に砕け散った。瓦礫を撒き散らしながら、鰐かあるいは竜を思わせる巨大な顎が急速浮上し、恐ろし気な音と共に空を噛んだ。


 黒い川からずるずると胴体が伸び、あたかも大蛇のように鎌首をもたげた。かつてイスラとカナンが対峙した、アラルト大発着場の蛇百足の夜魔……それよりもさらに一回り巨大な怪物だった。胴の大部分は流体だが、貧民街のあらゆる瓦礫や残骸を摂り込んだ結果、生き物と建造物の中間のような姿と化している。あるいは、天に向かって流れる濁流とでも表せるだろうか。


 頭部はまさしく異形そのものだが、その大きく裂けた口から人間の言語が吐き出される様は不気味であり、いっそ冒涜的ですらあった。


「……ホロフェルネス!」


 イザベルは怪物の名前を呼んだ。だが、怪物は顔面に並んだ無数の赤い眼球の、どれ一つとして彼女に向けようとはしなかった。


 ホロフェルネスは、ただユディト一人を睨み付けていた。


『小娘が……お前に何の権利があって、あの男の解脱を妨げる? 奴は怪物に、魔王と成るに足るだけの男だ。この世で最も強大な暴力を手にする資格を持った男だ。


 この世の絶対的な摂理は、いかに力を持ったか、ただそれに尽きる。人間には所詮人間としての限界があるが、しかしそれを踏破する手段があるのならば、資格を持つ者は成し遂げるべきだ。俺がこうなったのと同じように……あの御方が、ああなったのと同じように!』


 怪物の演説は、ユディトに一切の感銘も思考も呼び起こさなかった。無論、反論出来なかったのではなく、あまりに下らなくて脳が理解することを拒んだのである。ユディトにとって、ホロフェルネスの自説はただの雑音かそれ以下に過ぎず、例えば酔っぱらった三文詩人の朗読を聞く方が、まだしも人生にとって有意義とすら思えた。


 何より、彼女にとって最も重要なものが視界の中に映り込んでいた。聞くに堪えない妄言を撒き散らす怪物の、顎よりもやや下、人間ならば咽頭に当たる箇所。


 粘性の闇に包まれているにも関わらず、あたかも曇り空の日の満月のように、その剣の金色の刀身はいささかも妨げられることなく瞬いていた。


 そしてエルバールのあるところにギデオンがいるということを、ユディトは全く疑わなかった。エルシャの剣匠は……師は、たとえ死んでも剣を手放さないだろうと分かっていたからだ。


「……ユディト、あそこ」


 イザベルの呟きに、ユディトは小さく頷くことで応答した。ホロフェルネスは酔ったかのように駄弁を弄し続けている。自分が手足すら無くした怪物になったことがそんなに嬉しいのだろうか、とユディトは内心で首を捻った。


 腕が無ければ愛した人を抱き寄せることも出来ない。脚が無ければその人の所まで駆けて行けない。蛇は、かつて神の怒りに触れたがために手足をもぎ取られた悪魔の成れの果てだと言うが、その罰の代償は確かに大きいように思えた。


 いや、失った物の大きさに気付かないような男だからこそ、あのような怪物に成り果てたのだろう。



「可哀そうに……」



 ユディトは無意識に呟いていた。それ故、それは挑発でも何でもない、彼女自身の本音だった。


『何か言ったか、女』


 ホロフェルネスは、彼女の真心からの憐憫さえ読み取れなかった。ただ自分の演説を中断させる、無粋な野次としか受け取らなかった。


 今にも襲い掛かろうとした顔面を、だが、真横から飛んできた火球が文字通り引っ叩いた。実に子気味の良い炸裂音が響き渡り、ホロフェルネスの蛇体が大きく揺れた。



「ユディト様は、可哀そうだって言ったのよ!!」



 ユディトもイザベルも、タマルがそんな怒声を発せられる娘だとは思っていなかった。


 爆風の残滓を振り払いながら、大蛇の姿の怪物が目に怒りを滾らせてタマルに襲い掛かる。彼女は何とか首の一撃を回避したが、足場は崩れ、孤島と化した建物の残骸の上に取り残された。そんな状況にも関わらず、タマルは「行って下さい!!」と叫んでいた。


 その声が、ユディトを突き動かした。


 天火による自己強化を全て脚に集中させる。両脚が炎に包まれる。それはまるで、天から降ってきた御使いそのもののように見えた。やっぱり脚がないといけないわね、とユディトは思った。


 そのまま、タマルを吹き飛ばすべく口腔に炎を溜めたホロフェルネス目掛けて一直線に突っ込む。彼女の突撃に気付いたホロフェルネスは即座に標的を変更して発射するが、着弾よりも先にユディトは駆け抜け、そして建物の縁を蹴り跳んだ。他の者には、彼女がただ黒い川と怪物に向かって高跳びを試みたとしか思えなかった。


 だが、跳躍したユディトは、そのまま大蛇の胴体……黒い流体に巻き込まれた、建物の残骸に着地し、そして再び跳んだ。敵が反応すら出来ないうちに、断崖絶壁を駆け上る女鹿のように軽々と、重力など無いかのように。生まれた時から飛び方を知っている鳥のように、さも当然のように、障害を跳び越えていく。


 そして、ホロフェルネスの顎が降り注ぐ直前、彼女は自ら、愛する剣匠を救うために黒い濁流へと身を躍らせた。

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