ギデオンは、小高い丘の上に一人佇んでいた。
新月の夜なのか、空に月明かりは無く、ただ星々の光が静かに降り注いでいる。地表を照らすにはいささか心もとない光量のはずだが、不思議と視界は明瞭だった。
静かな場所だった。どこかで金属音が規則的に打ち鳴らされているのが聞こえるが、ギデオンの聴覚はそれを騒音として捉えなかった。それよりも、虚しく響く自分の吐息の方がよほど大きく聞こえた。
(成程、ここは墓場か)
ギデオンがそう認識した瞬間、視界がより一層鮮明に開けた。
丘の上から見渡す限り、どこまでも死体の絨毯が続き、地面を覆い尽くしていた。いずれも斬死に見えるが、腐敗しているものは一つもない。まるで、斬られたその瞬間に時が止まる魔法が掛かり、そのまま放置されてしまったようにも見える。腕や脚や首が斬り飛ばされ、なかには胴体ごと薙ぎ払われている死体もあるのに、どこを見ても血は一滴たりとも流れていなかった。
だから、地平線まで続く無数の死体は、その一つ一つが露悪的な彫像のようであった。あるいは、自分たちを斬った者を責め苛むために、いつまでも残り続けるつもりなのか。もしくは人ならざる者が、人の犯した凶行の証拠とするためにあえて保存したのか。いずれにせよ、悪夢的な光景であることに変わりはない。
だが、ギデオンは他人事のように受け取ることが出来なかった。
むしろ自分こそが、この惨状を生み出した元凶なのだと直感的に理解した。
『そうだ。お前が望んだのはこれだ。これがお前の、
不意に、ギデオンの肩越しに虚ろな、だが聞きなれた声が響いた。馴れ馴れしく肩に手を置き、誘惑の言葉を染みこませようとする。
「……しかし私には、ここは地獄としか思えない」
だから、ギデオンは反論した。それは理性的に考えて至極当然の回答ではあったが、彼の自我はすでに境界を失いつつあった。
幼いころから、自分の中に魔物のような別人格が潜んでいることに気付いてはいた。それが具体的にいつからだったかは明確に覚えていない。だが、剣、というものに出会ってほどなく経った頃であることだけは確かだ。
そもそも、最初にギデオンの天才に気付いたのは父親だった。当初こそ喜んでいたものの、あまりに大き過ぎる才に恐怖を抱いてもいただろう。基本的な技術以上に理念を教え込んだが、まだ息子が若いうちに戦死してしまった。そして、ギデオンはそのまま歪んでしまったとしても、何の不思議も無かった。
若さは時として傲慢や偏見と結びつく。ギデオンが無知の陥没に陥れば、なまじ武の才能に秀でるだけに、手の付けられない人間になっていただろう。
だが、心の奥深くにしっかりと根付いた理念は、彼が凶行に走ることを長年に渡って押し止めてきた。すなわち煌都の武人として、理想的な立ち居振る舞いをするということ。父親から教え込まれた理念があればこそ、ギデオンはそれを固く守って生きてきた。
あるいは、彼自身が持っている生来の気質が、内なる魔物を飼いならし続けてきたのかもしれない。自分ではさほど生真面目な人間ではないと思っているが、剣士としての道理をしっかりと守り続けることが出来たのは、いくつもの幸運な出会いがあったからだけではないだろう。
もちろん、それが窮屈な生き方であったことは間違いない。
心の中では、常に冒険や、あるいは危険、そして闘争を望んでいる自分がいた。
だが、誰もが自分の思うままに生きてしまったら、世の中は収拾がつかなくなってしまう。
だからこそ、そんな危うい自分自身を最小化し、心の片隅に追いやって、あたかも無いものとして振舞ってきた。
『そう思っていながら、お前はここまで来た。つまりそういうことだ。お前自身が心の内で望んでいる、真の居場所がどこなのか。これが答えだ』
「ここが人の居場所に見えるか? 私を元の世界に戻せ」
『戻ってどうなる? お前は人の世界で生きていけない人間だ。人の振りをするには、あまりにかけ離れた力を持っている。それを持て余さずにどう生きていくというのだ?』
「何とでもなるだろう」
『ならないな。だからここまで来た。来てしまった。その事実は否定できまい』
「……」
『飽き飽きしていたのだろう? お前を取り囲む全てのものに対して。何もかもが手枷足枷に見えて仕方が無かったのだろう? 本当は絶対的な孤独が欲しかったはずだ。
その孤独の中で永遠に己の力を研ぎ澄ますことが、お前が本来望んでいたことのはずだ。エルバールを見ろ。お前はその剣のようになりたかったのだろう?』
反論しようとした時、けたたましい音が耳朶を叩いた。正確には、最初からその音は聞こえていたのだ。ただ意識がそれを拾い取らず、環境音の一つとして処理していた。
いざ明確に意識してみると、それが剣と剣の打ち鳴らされる音だと気付いた。その方向に目を向けると、黒い鎧のような物に全身を覆われた剣士が、くすんだ金色の得物を振り回していた。
剣士の前に、どこからともなく次々と人形が現れる。姿形や、遠目に見える肌の質感は人間のそれと全く同じだが、眼窩には何もはまっておらず、動きも奇妙に角ばっていた。手にはそれぞれ形の異なる武器を手にしているが、ろくにそれを振るう前に剣士によって斬り捨てられ、死体の平原に新しい死体を積み上げていく。
「あれは私か」
『そうだ』
黒い剣士は、疲れなど忘れたかのように腕を振るい続けている。だが、その端々に錆のような赤茶けた汚れが浮かんでいるのは、遠目にもはっきり分かった。恐らく気付かないのは当人だけだろう。
それにしても、ただ斬られるばかりの人形を相手に剣を振り続ける男の、なんと滑稽なことか。まるで道端に転がっていた木の枝を振り回し、悦に浸っている幼児と何ら
その魔人が振り回している剣は、ずいぶんと輝きを失っているが、エルバールに相違ない。初めてその目で見た時、呑まれるほどの美しさを覚えた剣だった。しかし今は、錆びかけの鎧が掲げるその剣に対して、ギデオンはこの上ない嫌悪感を抱いた。そのように思う自分自身に驚いた。
剣という物質を、かくも忌まわしく思ったのは初めてだった。
(私は剣を憎んでいたのか?)
ギデオンは即座にその自問を打ち消した。
そうではない。このような場所で、あのような姿で振るわれていることに醜さを感じているのだ。
剣とは戦うためにあるものだ。そして現に、戦いのためにそれを振るい続けてきた。彼自身の天分故に、大抵は一方的にならざるを得なかったが、いつも後味の悪い戦いばかりだったわけではない。
決して忘れることの出来ない戦いが、いくつもあったではないか。
剣によって戦うということは、命の奪い合いをするということだ。自分は勝ち続けてここにいる。戦いの結果、恩人と呼んでも良い人間を殺してしまったこともあった。闇渡りのシャムガルのことは決して忘れられない。
稀ではあったが、強い相手と戦うたびに、心の監獄に押し込めていた何者かが存在を主張するのを感じた。ラヴェンナのオーディス・シャティオンの時もそうだった。だが、限界まで拮抗した戦いを経験したことによって、自分の暴性を縛る鎖は一層強固なものとなった。奇妙な逆説だが、解き放たれた力を目の当たりにすることで、かえってその恐ろしさも理解出来たのだ。
そして、自分の剣を砕いた闇渡り……闇渡りのイスラのことを思い出した。いくら条件付きとはいえ、自分がまだ
意識は自然と、彼が連れ去っていった弟子の片割れに移り、彼女らに手ほどきをしていた頃の記憶へと遡っていった。
ギデオンの脳裡で、いくつもの光景が駆け抜けた。
驚かざるを得なかった。
どんなに戦いの記憶を掘り返してみても、あの双子に剣を教えていた頃の記憶の方が、色鮮やかに思い出されるのだった。些細なことの連続で、危機や危険とはおよそ無関係な日々。自分が内心、物足りなさを感じていた世界。
だが、その日常の中で、いつも一つの眼差しが自分を追いかけていたことを、ギデオンは思い出した。