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【第二三五節/アドゥレセンス・ラッシュ!】

 暗闇の中にいたギデオンは、突如自分の首回りに、灼熱した鉄のように熱い何かが巻き付いたのを感じた。痛みが心臓を震わせ、澱んでいた意識を一気に覚醒させる。


 目を開いた時にはじめて、彼は自分が驚くべき状況の中にいることを理解した。


 墨を溶かしたような粘液の濁流の中で、四肢を固定され流れに曝されている。視界は濁っており、せいぜい手の届く範囲までしか見渡せない。両手両足に絡みついた粘液が皮膚の上に別の皮膚を作り出そうとしている。手に持ったままのエルバールはその輝きを失いつつあったが、そこから流れ込んでくる天火が辛うじて彼を人間に引き留めていた。


 だが何よりも彼を驚かせたのは、長い髪を断ち切ったユディトが、粘液の濁流に逆らいながら必死に自分の首筋に縋りついていることだった。彼が感じた熱は、まさに彼女の体温そのものだった。殊更に熱く感じたのは、彼女が燃えているのではなく、自分が冷え切っていたのだと分かった。


 ユディトは固く目を閉じたまま、濁流に口を塞がれ声も出せずにいる。だが、自分を抱き寄せる腕の力は、その細さからは到底想像出来ないほどに強く、まるで鉄の鎖にでも巻き付かれたかのようだった。押し流されそうになるたびに指を目いっぱいに広げて剣匠の背中や肩をまさぐり、獲物を運ぶ猛禽のように捉えて離さない。


 その無言の執念から伝わってくるあまりの思慕の強さに、ギデオンは思わず怯んだ。どんな敵と戦った時も、決して味わったことの無い感覚だった。


 彼女を通して流れ込んでくる熱が、冷え切った腕や脚に浸透し、それまで支配的だった冷たさを追い払っていく。それは決して、天火の力だけではないだろう。ユディトの動作の一つ一つに込められた万感の想いがギデオンを、そしてそれを取り囲む邪悪な暗闇を圧倒したのだ。


 指が動くたびに、腕に力が込められるたびに、ギデオンは彼女が、自分の名前を叫んでいるのだと分かった。


 それに応える方法など、一つしか無いではないか。



『よせ! 邪魔を許すな!!』



 自分の中にいる何者かが、そう声を発するのを聞いた。


 だが、何故かギデオンは、その声に対して猛烈に反発心を抱いた。この声が「やるな」と言うことの真逆のことならば、何でもやってみたいと思った。


 だから、ギデオンは縛り付けられていた両腕に力を込めた。もどかしいほどに力が出ない。まとわりつく液体や激流が彼の動作を引き留める。だが、そうして妨害されればされるほどに、ギデオンの自意識は冴えを取り戻していった。耳元で何者かのがなり立てる声が聞こえるが、最早意識にも留まらない。


 そして、右手に剣を握り締めたままの両腕で、ギデオンはユディトの身体を抱き寄せた。その瞬間、彼女の身体がびくりと震えたのが分かった。濁った視界の中でも、彼女の美しい瞳は明瞭な輝きを宿していた。


 ギデオンは自分の額を彼女の額と重ね、小さく頷いた。これから何をやっても良い、と伝えたつもりだった。そしてユディトは、そんなギデオンの考えを正確に汲み取った。


 ユディトの身体から天火が放射される。術ですらないその攻撃は、黒い濁流を内側から発破し、囚われていた二人を外気へと放り出した。


 空中で引き離されそうになった際、ギデオンは反射的にエルバールを手放し、両腕でユディトを抱き締めていた。腕の中で彼女が小さく息を呑んだのが分かった。


「ユディト!」「ユディト様!」


 駆け付けたイザベルとタマルが、廃屋の屋上で二人の身体を抱きとめた。だがユディトだけならいざ知らず、ギデオンまでも受け止めようとしたため、結果的に四人全員で地面を転がりまわる結果となった。


 ギデオンは四つん這いになったまま大きく咳き込んだ。嘔気に似た感覚が食道を握り、その中にこびりついていた泥を吐き出させた。口の中には文字通り最悪の後味が残っている。もしあのまま夜魔と化していたなら、これ以上の不愉快を味わっていたに違いない。それを思うと、流石に慄然とさせられた。



「ギデオンっ!!」



 だが、そんな悪寒も、ユディトに飛びつかれると同時に吹き飛んでしまった。無防備だったギデオンは真横からの突進によってあっさりとひっくり返された。


 仰向けになった剣匠の目には、夜空に浮かぶ星々と、自分の胸元にむしゃぶりつくユディトの金色の髪しか映らなかった。


 そして、その肩が微かに震えていたことにも。



「……ご心配を、お掛けしました」



 ギデオンの口はおのずと謝罪の言葉を呟いていた。


 ユディトは言葉で返すかわりに、彼の胸板を握り締めた手で何度も叩いた。ようやくそれが収まると、今度は蒼い瞳に涙を溜めたまま、恨みがましい目つきで彼を睨み付けた。



「本当です……本当ですよ! 本当に心配したのですよ!? あんな、わけの分からないものに捕り込まれて、もし死んでしまっていたらどうしよって、私が……私がどれだけ……!」



「申し訳ありません、ユディト様」



「許しません……っ!」



「そんな御無体な……」



「……私のこと、なんて付けて呼ぶ限り、絶対に許しませんよ……!」



 それとこれとは関係ないのではなかろうか。今、何故そのような話になるのだろうか。


 ……などと言えば、次の瞬間にはイザベルとタマルに脇腹を蹴られるであろうことを、ギデオンは雰囲気で察した。


 だが、そんな喜劇めいた雰囲気に憤怒した者もいた。



『ふざけるなあああああッ!!』



 瓦礫や汚泥を吹き飛ばして黒い蛇体が屹立する。いくつもの眼球に怒りを湛えたホロフェルネスが、その大口を開いて罵声を喚きたてた。



『何故だ! 何故人間を辞めない!?


 何故、無限の力を前にして尻込みする!? 貴様には永遠を手にする権利が、あるというのに!』



 ギデオンはユディトを抱きかかえたまま上体を起こし、そしてやや疲れを覚えながら言い放った。



「何ら魅力的ではないからだ」



 ホロフェルネスは、何故ギデオンがそのように言うのか理解出来ないようだった。


 だが、ギデオンもどうして奴がそれを理解出来ないのかが分からなかった。そして、一時とはいえあの男と同類になりかけたことに深い恥辱を覚えた。



「分かり切ったことだ。力はそれ自体では意味を持ち得ない。無味乾燥なものだ。そこに人の意思や感情が絡まって、初めて善にも悪にもなる。力はどこまでも手段であって、目的には決してなり得ないのだ」



 立ち上がり、黒い川の淵まで歩く。目の前に聳え立つ怪物は確かに巨大ではあるが、それはいくつもの意味で、彼が恐れるに足る存在ではなかった。



「ホロフェルネス。を篭絡するには、貴様は化け物としての格が低過ぎる。突き抜けた悪ですらない。ただ力という言葉を盲信しているだけの愚か者だ。


 そんな貴様にいざなわれたところで、同道しようという気にはならん」



『馬鹿な……』



 ホロフェルネスは呻いた。ギデオンは最早、彼に対して一切の興味を失っていたが、ユディトは反対に憐憫を覚えていた。一体どんな風に生きればあのような精神構造を持つようになるのか、心底理解出来なかった。


 そして、それが分からない自分は心底幸せなのだろうし、分からないで済む人生を与えてくれた全てに感謝したい心境だった。


 彼女はギデオンの右側に立ち、彼と全く同じように、恐れずホロフェルネスに語り掛けた。



「……この世界には美しいものや価値のあるものが溢れています。私の目にはそう映る……醜いものや残酷なことばかりではないのだと。


 光と影の混沌の中では、力なんて価値観は、世界を織り成す要素の一つに過ぎません。


 だから……」



 ユディトは隣に立つギデオンを見つめた。ギデオンは小首をかしげて、横目に彼女を見やった。




「だから、ギデオン。もし貴方が力や、それ以外の何かに囚われたとしても、何度だって取り返して見せます。


 怪物の欲望に負けないように……誰よりも美しい、として」




 ホロフェルンスは最早言葉を弄さなかった。


 蛇体から腕が生え、さらに十ミトラにも達する剣が生成される。ギデオンの手に武器は無い。脱出時にユディトを抱きとめた際、エルバールは手放してしまった。全くの丸腰だ。


 だから、その剣が掲げられた瞬間、ユディトに向けてそっと手を差し出した。



「ユディト」



 ギデオンに静かに名を呼ばれた時、ユディトの中で様々な感情が瞬間的に駆け巡り、それは「はい」という淑やかな声になって現れた。


 剣匠の右手を両手でつかみ、天火を流し込む。



 思えばこれが、継火手になって以来はじめての秘跡サクラメントだった。



 受け渡された天火は即座にギデオンの身体を駆け巡り、元より常人離れした彼の膂力をさらに強化する。しかし、直後に彼が実行した絶技は、腕前を理解しているユディトやイザベルは元より、怪物と化したホロフェルネスでさえも驚愕させた。


 大剣がギデオンの頭頂に触れるか否かの瞬間、まるで風にでも流されたかのように軌道が揺らいだ。刀身は彼のすぐ左側へと逸れ、建物を砕いたが、ギデオンは全くの無傷だった。


「白刃取り……」


 タマルが呆然と呟いた。


 正確には受け止めたのではなく、衝突直前で軌道を逸らせただけである。流石に真正面から衝突の力を受けきることは出来ない。しかしそれにしても、建物ほどもある刀身を手で挟んで横に逸らすというのは非現実的な行為に違いない。ギデオンとて、ユディトの天火が無ければ不可能だっただろう。


 だが、彼が実行して見せた神業は、ホロフェルネスに少なからぬ動揺をもたらした。生身の人間がこれほどのことをやってのけたのである。化け物に身をやつした己の立場など、最早無きに等しい。


 そして、その動揺を突いて、ユディトは振り下ろされた刀身の峰へと飛び乗った。抜け目なくエルバールを回収していたイザベルが、金色の剣を放り投げる。それを受け取り、文字通り一直線に駆け上がっていく。


 ホロフェルネスは剣を引き抜こうとするが、深く地面に埋まってしまっている。動かすには間に合わないと判断して鱗を飛ばすが、ユディトはそれを『励天使の薄布イロウルズ・ヴェール』で弾き、さらに襲い掛かってくる触手は『智天使の戦輪ケルディムズ・リープ』で斬り落として進む。二つの異なる法術を同時に展開することは不可能ではないが、相当な集中力を要する技術だ。


 ユディトには到底知り得ないことだが、応用性の高い法術を纏って突撃するという考え方は、奇しくも世界の果てでカナンが見つけた回答に非常に近しいものだった。


 だが、彼女の天火はカナンほど強力ではない。技術そのものは高くとも、単純な力押しに抗し得ないという弱点がある。最後に待ち構えていた業火は、まさにユディトの特質と真っ向から対立する攻撃だった。



「押し通るッ!!」



 だから、ユディトもまた力押しを選んだ。


 刀身に『智天使の戦輪』を纏わせ、さらにエルバールに溜め込まれた天火と自身の残りの天火とを全て集中させる。切っ先を正面に向け、燃え上がりそうなほどに酷使されている両脚にさらに負荷を重ねて、彼女の文字通り目の前で吐き出された炎に、剣身一体となって飛び込み、そして突き抜けた。


 ホロフェルネスは一瞬、ユディトの姿を見失った。己の吐き出した炎と、彼女の放つあまりに眩い輝きに目を潰されたのだ。吹き飛ばしたという手応えが無かったために周囲を見渡し、そして、自分のすぐ真後ろに躍り出た彼女の姿が目に入った時、その首は豪奢な花束を想起させる光剣によって刎ねられていた。


 ユディトの周囲で火の粉が花びらのように舞い散り、背景の夜空へと溶けて消えていく。その光景は今際のホロフェルネスでさえも美しいと感じるものだった。そして、美しさが時として心の痛みを喚起させるものだということにも気付いた。


 ユディトは今、まさに「美」という概念と一つになったかのように完璧だった。


 そんな彼女の姿に何故痛みを覚えるのかついに理解出来ないまま、怪物に堕した男は灰に変わり、ツァラハトの風によって永久に散らされた。

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