ツァラハトの全ての勢力がそうであったように、救征軍も依然として熾烈な状況の中にあった。
彼らの眼前にはセリオンという最も大なる絶望が立ちはだかっている。パルミラを襲った火産霊がそうであったように、人の手には到底余るような圧倒的な脅威だ。その上、自分たちの身を護ってくれる城壁も無い。普通なら抵抗を試みる余裕も無く膝を屈していただろう。
だが、彼らにはカナンという生きた希望があった。たとえその光量が六等星のように淡いとしても、完全にかき消されず残っていることも事実なのだ。
それ故、防衛部隊は多大な犠牲を払いながらも、何とか組織的な行動を維持していた。ゴドフロアはカナンの命令を忠実に守り、戦線の縮小と後退、再集結を実現させつつあった。容易ならざる仕事だが、それを可能にしたのは前線の士気と統制をアブネルが維持し続けたからである。その配下たちの働きぶりは、間違いなくこの地上において比類無いものであっただろう。
だが、空中にあっては、彼らと同じかそれ以上に働いている者たちがいた。
「全騎降下! 我が後に続けッ!!」
クリシャ・ツィルニトラの号令と同時に、空中に展開した竜騎兵が一斉に急降下を開始する。
当初は操蛇族三百名、
しかし逆に言えば、ここまで過酷な戦場に在るにも関わらず、彼らは全滅せずに依然戦闘力を保持しているのである。
彼らがそのような扱いを受けたのは、ラヴェンナが竜騎兵たちの戦力を脅威と捉えたからに他ならない。
飛行可能な大型生物と、その乗り手。当の操蛇族らはさほど深く考えてもいなければ、自らの武威を誇りもしなかったが、ツァラハトで最強の兵の一つであることは動かし難い事実である。
ラヴェンナが恐れた操蛇族の真骨頂は、このペヌエル平原において遺憾なく発揮された。
竜の二つの脚には、それぞれ飛行能力を阻害しない程度の岩や瓦礫といった投下物が握られている。あたかも地面に飛び込むかのような急降下機動中にそれらを手放すことで、目標に対して精密な先制攻撃を仕掛けることが出来るのだ。
空中から投下される弾丸は、あるいは投石機よりも強力な攻撃であったかもしれない。それらはネフィリムのような大型の夜魔に集中して叩き込まれ、撃破ないし擱座へと追い込んでいく。まるで
投下を終えると、騎兵たちは重量の変化に対応して竜を水平方向への滑空に移行させ、そのまま勢いを殺さずに夜魔共を脚で蹴り飛ばしていく。軽い個体は元より、グレゴリですら竜の太い脚に蹴られれば宙に浮く。そうして文字通り戦線を搔き乱した後、再び上昇して後退、投擲物を補充して再攻撃……基本的にはこれの繰り返しである。
単純ではあるが、この戦法は絶大な威力を発揮して見せた。
クリシャは族長として、操蛇族の騎兵たちの技量を隅々まで知り抜いている。だからこそ、急降下攻撃という危険な作戦を選ぶことも出来たのだ。自分の部族に、降下速度を見誤って地面に激突するような間抜けはいない。そしてこのような攻撃方法が成立するならば、敵の勢いの最も激しい場所に真上から強襲をかけて、突撃の勢いを殺すことも可能だろう。
無論、敵もただ指をくわえて見ていたわけではない。
「クリシャ!」
夜魔の流れを文字通り蹴散らしていたクリシャは、仲間の声に反応して上空を見上げた。そこには、先に上昇を果たした味方へと襲い掛かるティアマトの黒い影が浮かんでいた。無論、一匹二匹などという規模ではない。
彼女は即座に判断を下した。左手に火球を生み出し、それを前方の地面に向けて投射する。炸裂した炎の弾丸は周辺にいた夜魔を薙ぎ倒したが、彼女の狙いはもう一つある。
「ヴォイチェフ、風を掴め!」
一鳴きすると同時に、彼女の竜が大きく翼をはためかせて着弾点へと突進、そして急上昇していた。まるで花火でも打ち上げたかのような、ほぼ垂直方向での飛翔だった。法術の着弾点に発生した上昇気流を利用したのである。操蛇族でありながら継火手でもある彼女にしか出来ない、特別な機動だった。竜の力だけで上昇したのでは体力を使い過ぎるし、速度も落ちる。しかしこの方法ならばその二点を一挙に克服可能だ。
一瞬後、彼女はそれまでと全く異なる、三次元の戦場に殴り込んでいた。すでに味方は投槍や弓矢を使ってティアマトと戦っていたが、数の差故に流石に不利な様子だった。
操蛇族にとって、戦闘の主役はあくまでも竜の方であり、人にはさほど武力を求められない。空中で、しかも騎乗した状態で出来ることなどたかが知れているからだ。まさか地上の重騎兵のように長大な突撃槍を持つわけにもいかない。そんなことをすれば重量が増すばかりか、最悪、竜の動きさえ阻害してしまう。
だから戦闘の主たる部分は竜に任せ、自分たちは牽制に回るのだ。ティアマトは確かに強力だが、槍や矢などで翼膜を破られれば流石に動きも鈍る。とどめを刺すのは竜たちに任せれば良い。
ならば操蛇族は竜に乗っているだけなのか……と問われれば、彼らは「まさにその通り」と答えるだろう。
竜という強大な戦力を、然るべき時に然るべき場所へと導くこと。彼らだけでは判断出来ないことを思考し、正しい解答を導き出すこと。それこそが乗り手の使命なのだ。
竜は大きい部品、人は小さい部品。しかしそのどちらかが欠けても上手くはいかない。竜という全く異なる生物と共生するが故にたどり着いた、ある種の合理性と言えるだろう。
だから、そんな操蛇族の常識からすれば、クリシャはまさに頭抜けた存在であった。
急上昇をかけたクリシャは、死角からの奇襲でまず一体のティアマトを仕留めた。彼女たちが飛び込んだ瞬間に、その空域を満たしていた全ての敵意が集中するのを感じた。
「来い!」
クリシャは笑い交じりにそう言い放った。まるでその言葉に引き寄せられたかのようにティアマトたちが襲い掛かってくる。彼女は手綱をぐいと引っ張り、ヴォイチェフに進路変更を指示した。なるべく救征軍の前線から敵を引き離さなければならないし、他の竜使いたちには地上の援護に専念させたかった。つまりクリシャは、この空域にいる全てのティアマトを一人で相手どるつもりだったのだ。
振り翳される爪や牙を回避しつつ、孤立した敵を見かけたら容赦なく炎の槍で貫いていく。時にはヴォイチェフの力も借り、呼吸を合わせて包囲網の中を縦横無尽に飛び回る。
正面に二体のティアマトを立ち塞がる。その後方にさらに三体、いや、もう一体真上を取りつつある敵がいる。
「チッ」
クリシャは槍を右手に持ち、左手の中に天火で作り出した火球を握り締めた。先ほど地上に投げつけた時と同じように、目の前の敵に向けて投げつける。
正面に来ていた一体のティアマトに命中。火球が爆発し、灰を四方八方に撒き散らした。だが、彼女の狙いはそれ一つにとどまらない。
爆風の煽りをうけたもう一体が大きく姿勢を崩す。飛行とは非常に繊細な行動だ。ティアマトの翼は大きく、立て直しも容易であろうが、仕掛けた側に対して大きな隙を曝していることも事実である。
クリシャとヴォイチェフは、揺らめいたティアマトを蹴りつけ、さらには乱れた気流をも利用して、一気に高度を稼いだ。途中で酸の弾丸が吐きかけられ、身体をかすめていったが、クリシャは意に介さなかった。
そして真上を取りつつあった一体と対峙する。即座にティアマトの長い首が、乱杭歯を晒しながら伸びてくるが、結局彼女たちの肉を裂くことは能わなかった。口蓋を投擲された槍が貫通する。灰を被りながらクリシャは得物を回収し、ぐるりとヴォイチェフの首を巡らせた。三体減らして残り三体……と思ったが、いつの間にか残りの数がその三倍に増えている。これがさらに三倍になり、さらに三十倍に、いや三百倍になったとて、全然不思議ではない。
これは決して悲観などではないだろう。そして現にクリシャは悲観などしていなかった。彼女は単純な人間だった。継火手と称されるには、あまりに戦士としての気質が強すぎた。
いかなる戦士とて、無限に続く戦いは恐ろしい。その恐怖を忘れてしまったら、最早人とは言えないだろう。クリシャも戦うばかりが人生だと思ってはいない。彼女の中にも、戦う以外に大事なことや守りたいことがいくつもあった。
空を飛ぶことは、他の何にも勝って好きだった。竜使いだから、と言うのではない。クリシャ・ツィルニトラという魂が、それを心底愛しているのだ。
だが、現実には厄介なしがらみが多過ぎる。彼女はただ自分の心に従って飛んでいるだけなのに、ラヴェンナのお歴々はそれを脅威だと考えた。数百年に渡って続いた見えざる迫害は、一族の長を受け継いだクリシャにも当然降り掛かった。
竜を使っての戦争や動乱など考えたことも無い。だが、自分たちが自分たちであろうとすると、どうしても誤解される。その連続に疲労感を覚えなかったと言えば嘘になろう。
だから、ラヴェンナから縁談の申し入れがあった時も、彼女は咄嗟にそれを蹴ってしまったのだった。ヴォイチェフが守火手だからと言い張って。
それがどれほど煌都側の心証を悪くしたか、まだ若い、というよりも幼かったクリシャでも容易に想像が出来た。出来たのだが、それでも受け入れたくなかったのである。
竜と共に夜空を飛んでいると、そうした地上の不自由を忘れ去ることが出来た。その行為に足枷を嵌められたくなかった。
大気は気まぐれだ。飛ぶことはただ無条件に自由だけを与えてくれるわけではない。時には裏切ることもあるし、今のように敵意が満ちることもある。
「……それでも、お前がいるものな」
クリシャはヴォイチェフの背中を優しく撫でた。その手つきは、もし本人が聞いたなら怒るかもしれないが、とても女性的な柔らかさを伴っていた。
緩みかけていた銀色の髪を首に巻きなおし、クリシャは槍を握る手に力を込めた。相棒の脇腹を軽く蹴り叩くと、竜は応答の一鳴きと共に胴体をくねらせ、襲い掛かってくる敵に向けて急降下した。
天火を纏った槍が先頭の一体の腹を突き破る。クリシャの剛腕が夜魔の肉体を抉り、強引に引っ張りだした槍をさらにもう一体の敵へと突き立てる。騎手目掛けて伸ばされた首をヴォイチェフの牙が噛み潰し、目前で止まったそれにクリシャがとどめを刺す。敵の数は減らない。減らした数の倍以上が新たに浮上してくる。
仕方が無いな、とクリシャは思った。来たら潰す。それしか無い。
そしてクリシャとヴォイチェフは、その単純な決意をひたすらに貫き続けた。持てる限りの武器と技術を総動員し、時には手綱さばきのみで敵同士を衝突させて落とすといった離れ業すら演じて、群がる漆黒の翼を叩き落としていく。地上からは、まるで彼女たちが雷雲に囚われたかのように見えた。それほど多くのティアマトが立ち向かい、そして打ち倒されていったのである。
無傷というわけにはいかなかった。元々疲労困憊のままエデンにたどり着き、気力の限りを尽くして戦っていたのだ。天火の貯蔵とて決して潤沢ではなかった。ために、戦闘の渦中でヴォイチェフの翼膜はぼろぼろに破れ、左脚は喰い千切られていた。酸の飛沫で焼かれた箇所は数えようも無い。クリシャもまた、避け切れなかった牙を左腕で受け止めたため、大きな歯形が残っていた。指先にも力が入らない。槍は折れてしまったので、途中からは大振りの伐剣に持ち替えて戦っていたが、その刃先もすでに刃こぼれしている。
しかし、それでも二人は健在だった。天火を纏わせた剣で次々と魔物を叩き斬っていく。焚火に近づき過ぎた羽虫のように、炎にまかれたティアマトの残骸が、ぼろぼろと地上に降っていく。果たしてその戦いぶりにどれほど多くの人間が奮い立たされただろう。
だが、それが終わる時が来た。
天空を切り裂く黒い光条が迸った。射線上にいたティアマトたちが灰すら残さず消し飛ばされる。クリシャは何とか回避し得たが、その膨大な熱量に皮膚を焼かれた。ヴォイチェフも同様だった。激痛は来ない。あまりに曝された面積が多いためだろう。クリシャは深く考えないことにした。
見ると、セリオンの首が再生を完了しかけていた。カナンの攻撃によって根本を抉られ、一旦は全て沈黙していたのだが、その内の一つはすでに大まかな形を取り戻している。
クリシャは笑った。左の頬がかさかさと乾いた音を立てた気がした。
「そうか……おい、ヴォイチェフ。どうやら俺たちを片付けるには、あれくらい大掛かりなのを持ってこないとダメみたいだぞ」
ヴォイチェフも「うぉん」と鳴いた。あ、こいつ笑ったな、とクリシャは思った。
「……じゃあ、いくか」
クリシャが手綱を引くまでもなく、ヴォイチェフは正面にセリオンの巨体を捉えていた。クリシャは剣を投げ捨て、右腕と、力を失った左腕とに天火を生じさせた。真下の空気が熱せられ、それを受けたヴォイチェフの翼が大きくはためいた。彼の翼もすでに穴だらけになっているが、それを感じさせない力強い飛翔だった。
先ほどの一撃で、幸いにもティアマトによる包囲網は崩れている。何体かが追いかけてくるが、到底二人の速さには追いつけない。
空高く、雲さえ突き抜けて。目の前に星々の緞帳が広がる。それに別れを告げるかのように、クリシャとヴォイチェフは大きく宙返りをうった。
ヴォイチェフに翼を畳ませる。減速など考える必要は無い。ただ加速するのみだ。
雲海が割れて光の柱が飛び出してくるが、狙いは大雑把だ。そんなものなど歯牙にもかけずに翔け抜ける。
雲の下で、夜魔の軍勢に囲まれたセリオンは、さらにもう一本首を回復させつつあった。あれに撃たせるわけにはいかない。セリオンは最早、エデンを完全に破壊したと判断したのだ。だから照準をこちらに向けた。そして自分たちを撃ち落としたら、次にどこを狙うか考えるまでも無い。
少しでも時間を。地上の救征軍に後退する時間を稼いでやらなければ。そして、あの巨大な怪物の中に乗り込んでいったカナンとイスラが、何かを成すための時間を作ってやらなければ。もし奇跡が起きて彼らが帰ってくることが出来たとしても、その時に待っていてくれる人がいないのでは寂しすぎる。
「申し訳ありませんカナン様! 俺は、待っていてあげられません!!」
光の波濤を目前にクリシャは叫んだ。それが彼女の最後の言葉となった。光線に焼かれて完全に灰になるか否かという、紙一重の線でそれを回避する。しかし人体にとっては耐え難い熱量だった。一体どの瞬間にクリシャが絶命したのかは分からない。だが、生きながらに焼かれながらも、意識が消え去るその瞬間までクリシャは竜を操り、そして体内に残った全ての天火をヴォイチェフへと明け渡していた。
クリシャは死んだ。だが、死者の天火は竜を覆い、あたかも流星のように天の一角を切り取って奔った。
主が死んだことを知りながらも、ヴォイチェフもまた一切迷わなかった。その意志は天火と共に、完全に身体の中に宿っているのだから。彼の翼も、右側が完全に焼け崩れていた。だが、空を翔ける弾丸となった今ならば、左の翼だけで十分飛べる。
炎の塊となった二人は、禍々しい光を溜め込んだセリオンの首の、その一つと衝突した。戦場が一瞬、大きな火打石でも打ったかのように照らし出された。クリシャの炎はそこで終わった。だが、膨大な力を溜め込んでいた首は光を吐き出しながら地面に落下し、その過程で治りかけていた傷口を広げつ、あるいは夜魔の犇めく一角を切り取っていった。地響きとともに土煙が濛々と立ち上がり、セリオンの姿を覆い隠した。
傷口はすぐに再生を開始する。
だが、クリシャとヴォイチェフによって振出に戻されたことも、また事実だった。