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【第二三七節/「何故、剣を」 上】

 その震動は、セリオン内部を駆けていたイスラとカナンにも当然伝わった。


「今の揺れは……」


 カナンは思わず脚を止めていた。何かただならぬことが起こったのは間違いない。


 セリオンの天井付近から、怒りの感情を思わせる唸り声のようなものが断続的に響いてくる。大坑窟の意匠を模した内部隔壁は、その人工的な見た目に反して奇妙な蠕動を繰り返していた。発光体は不規則に明滅し、視界の明暗が目まぐるしく変化するたびに、胸中に抱いたざわつきを否応なしに掻き立てた。


 しかしもしかするとこれは、セリオンにとっての痛覚反応のようなものなのかもしれない。


 だとしたら、誰かがこの怪物に大きな痛手を与えた可能性があるということだ。


 本来喜ぶべきことであるはずだが、カナンの懸念は一層強まった。今更このペヌエル平原に援軍が到着するなど有り得ない。となると、救征軍が自力で痛打を与えたことになるが、そのようなことが可能な人間はカナンの他に一人しかいない。


(クリシャさん……)


 無事であって欲しい。


 それがあまりに困難な、必死の戦場であることはカナンも重々承知している。


 だが、それでも祈らずにはいられなかった。


「カナン」


 数歩前に立ったイスラが、静かに促した。カナンは強く杖を握り締め、小さく頷いた。


 今はただ進むしかない。振り返っている時間は無い。全てが手遅れになる前に、何もかもに決着をつけなければならないのだ。


(だから……どうか、皆……生きていてください)


 口には出さないまま、カナンは祈った。そしてイスラの後を追って再び走り始めた。




◇◇◇




 クリシャはもういない。


 彼女が敢行した最後の突撃は、セリオンの首の回復を遅らせ、その破滅的な砲撃に救征軍が晒されるのを一時凌ぐという結果をもたらした。


 だが、それは同時に、もう一つの結果をもたらしていた。


 カナンとイスラを除けば、救征軍で最も高い戦闘能力を保持していたのはクリシャだ。優れた戦士であると共に操蛇族の指揮官でもあった彼女が戦死したことで、上空の戦局は一気に不利になった。


 それでも竜使いたちは必死に手綱を操り武器を振るったが、次々と出現するティアマトを迎撃するので手一杯である。とても地上への援護など行えない。


 防衛線は一挙に崩壊した。武器を手にしたままその場に踏みとどまれたのはごく一部で、大半はただ逃げ惑うことしか出来ない。


 後方からペトラたち岩堀族の召喚したゴーレムが戦線を支えに入るが、絶対数が足りない上、そもそも制御出来る人間が限られている。ペトラ自身、二十体のゴーレムを同時に制御するという離れ業を演じて見せていたが、それは彼女の神経に多大な負荷をかけることとなった。飛び込んでくるいくつもの情報を捌きながら、それぞれに対して適切な指示を下していくのは容易なことではない。実際、命令のほとんどは単に敵に向かって突撃させるのみだった。



「持ちこたえるんだよ、ちょっとでも長く!」



 鼻腔から溢れた血が魔導書に垂れ落ち、紙の上に赤い染みを広げていく。それを拭うことも忘れてペトラは怒鳴った。過剰に働かされる脳髄に大量の血液が送り込まれ、破れた目の毛細血管が視界を濁らせる。もしかすると何らかの不自由が残るかもしれないが、そんなものに今更怖気付くほどペトラの肝は小さくなかった。


 だが、誰もが彼女たちのように勇敢になれるわけではない。むしろそうでない方が、人としては真っ当な反応であろう。この状況下で恐怖を覚えるなと非難する権利を持つ者は、地上に誰一人として存在しない。


 敵と戦いながら撤退する部隊の中に、闇渡りのサロムとプフェルの姿があった。すでに彼らの仲間の大半は戦死を遂げ、隊長であるサロムも左肩にアルマロスの剣を刺し通されている。それでもなお、無事な右手に伐剣を握り戦い続けようとしていたが、相棒の方はそうはいかなかった。



「無駄なんだよこんなこと! 何で分かんないんだよ!?」



 すでにプフェルの手に武器は無い。出血したまま戦おうとするサロムを引き留めるばかりだった。そしてサロムも、親友の手を振り払うことが出来ずにいた。


「何でって……何でって、そんなの……! そんなの、俺だって……」


 分からない。今は戦うしかない時だ。だが、それがいかに絶望的なものであるかも分かっている。正直なところ、剣も弓も投げ捨てて逃げ出したかった。だが、逃げ出すことも最早無意味だ。


 そんな完全に追い詰められた状況下で、自分のような特別優れたわけでもない人間が、いまだ武器を棄てずに戦っている事実が不思議だった。その態度を「何で」と問い詰められても、サロムは上手く答えられない。自分の中のどのような要素が働きかけたのかも分からない。


 自分は英雄にはなれない。王にもなれない。普通の人間として生きて、死んでいくしかない、その程度の素質しかない。だから余計な意地など張らずに、自分の分際にそぐう振る舞いをすれば良いのだが、今のこれはあまりに格好をつけすぎている。プフェルに「何故」と問われるのも仕方が無い。今まではずっと、情けない姿こそ自分自身だったのだから。


(それでも、剣を棄てずにいるのは……)


 思考が中断された。目の前に現れた通常型の夜魔をいなし、その額に伐剣の分厚い刀身を叩き込む。だが敵は一体だけではない。二体、三体と増え、さらにアルマロスやグレゴリまでもが救征軍の戦陣を破りにかかる。


 数えるのも馬鹿々々しいような夜魔の群れの中より、一体のグレゴリが足音を響かせて駆け寄ってくる。負傷した今の状態では、さすがに一人で倒せる相手などではない。サロムもプフェルも最期を覚悟した。


 だが、二人を屠ろうとしていたグレゴリは、結局サロムの元までたどり着けなかった。


 いつの間にか背後に滑り込んでいた精鋭の闇渡りが、伐剣を大腿部の裏に突き刺して動きを止める。グレゴリが膝立ちいになったところで、聖銀製の剣を与えられた戦士が怪物の頸を刎ね飛ばした。そうして倒した敵には一顧だもくれず、流れるような連携で次々と敵を仕留めていく。


 しかし、それが可能な人数は当初よりも大幅に減ってしまっていた。きっと彼らも、いつかはすり潰されることになる……プフェルの憂鬱な予言が脳裡に浮かんだ。


 だが、その予言は、たった一つのぶっきら棒な言葉によって上塗りされてしまった。



「無事か?」



 闇渡りのアブネルが立っていた。

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