無事か、と聞かれはしたものの、アブネルの姿は到底他人を心配出来るようには見えなかった。全身の傷は数えきれないほどあり、闇渡りの黒い装束は血によって赤く染め上げられている。攻撃を受け止めたためか左腕は特にずたずたで、何本か指も欠けているようだった。
だが、それでも彼は一切の消耗を見せず、傲然とその場に立っていた。
「アブネル、こいつはもう持たねぇぞ」
今しがたグレゴリを斬り捨てた闇渡りが、大きく息を吐きながら言った。アブネルは静かに頷いた。
「奇跡ってのも、どうやら起き無さそうだな」
生き残った精鋭たちが彼を中心に陣を張る。その有様は、最早説明するまでもないだろう。すでに残りの人数も十人を切っていた。
あの名無しヶ丘の戦いを生き残った連中でさえこうなるのだ。そう思うと、嫌が応にもサロムもプフェルも、己の最期を覚悟せざるを得ない。
だが、アブネルだけは違った。
「まだ分からんぞ」
彼だけはじっと、ペヌエル平原の彼方に佇むセリオンを眺めていた。その中に入っていったイスラとカナンのことを考えていた。
何も、自分が奇跡の恩恵を受けて救われたい、と言うのではない。ただ、この世にそういうものが存在するという事実だけを目撃したいのだ。
闇渡りたちはお互いに顔を見合わせ、それから肩をすくめて苦笑した。この強面がここまで入れ込むとは相当だな、と不思議な感慨を抱いたのだ。彼がサウル以外に誰かを信奉することがあるなど、ましてやあの極悪人の対極にいるような少女を信じるなど、いっそ冗談のようだった。
だが、誰一人として、カナンに対する不平を漏らすものはいなかった。
もう十分良い目にあった。泥の中を這いずり回るような人生の中で、これほどのツキに恵まれたことは無かったと思う。とうに死んでいたはずの自分たちが、最後の最後に真人間らしく振舞えたのだ。それも闇渡りとしての人格を否定されること無く。殺し殺されるしかない、どこまでも乾き切った生き方の果てで、こんな展望が開けているとは思わなかった。
誰にでも幸運の取り立てはやってくるものだ。それがこういう形で来たというだけの話だ。
それは、諦観とは似て非なる感慨だ。諦めというのは、満足出来なかった者が抱く感情だ。だが彼らの胸中は充実感に満ちていた。今の自分たちを投げやりだの何だのと評する者がいるなら、そういう輩こそ敵であろう。
その時、ふと夜魔の軍団の流れが割けた。雑兵共が左右に分かれ、彼らの正面に一筋の空白が生じる。覚悟を固めた戦士たちは、それでも長年の習慣によって自然と警戒態勢をとっていた。
戦場の道を一体の夜魔が駆けてくる。
グレゴリと同程度の体高だが、肉食獣を思わせる下半身に対し、上半身は異様なほど痩せており、胸部からは肋骨とも昆虫の節足とも思えるような突起が生え出ている。
両腕は地面に触れそうなほど長いが、特に前腕より先が異常発達しており、手の甲などはそれ自体が巨大な盾のような形状だった。大きさ以外は人間とよく似た五指を揃えているものの、そこから生える爪は、悪意によって研磨された武器特有の残酷な鋭さを備えている。
腰からは長大な尾を引き摺り、その先端には釣針状の棘が生えていた。
しかし何よりも特徴的なのは、馬の頭骨のような頭部と、その上から歪に生え出ている金色の王冠であろう。少なくとも人間の目には王冠と思える。黒い頭骨の眼窩には、他の夜魔がそうであるように赤い眼球が無数に埋め込まれていた。
「おいおい、まるで王様だな」
「さしずめ
誰かが呟いた。まさか闇渡りの王を奉じ、次に継火手を法王と呼んだ自分たちが、最後に戦うのが夜魔の王とは。
そう、最後の戦いだ。この敵を通すわけにはいかない。ただならぬ相手であることは誰もが察していた。この局面で出てくる新種が、見掛け倒しの雑魚であろうはずがない。
「……アブネル、例のブツは」
「俺が持っている」
「そうか」
抗えるかは分からない。突進の勢いに負けて、無残に轢き殺されるだけかもしれない。あるいはあの伐剣のような爪に引き裂かれ四散するか。自分たちが死力を尽くして、ようやく足止めが叶う程度だろう。彼らは熟練の戦士である分、冷静に彼我の戦力差を判断することが出来た。その判断がもたらす冷酷な事実も、とうの昔に了解済みだった。
アバドンが咆哮を上げると同時に、前衛の二人が懐へ飛び込んでいた。一人はその巨大な脚に身体をへし折られたが、もう一人の携えていた剣が夜魔の左脚に突き立てられる。しかし伐剣一本程度では勢いを止められない。真上から振り下ろされた腕が、その闇渡りを叩き潰した。
だが、一瞬だけでも注意が逸れたのは間違いなかった。その瞬間、眼窩の中に長大な矢が飛び込み、けたたましい悲鳴が響き渡った。同時に生き残った闇渡りたちが一斉にアバドンへ突撃する。
短いながらも壮絶な応酬が繰り広げられた。武器や、人間の肉体が砕かれ、鮮血がアバドンの体躯に浴びせかけられる。だが、彼らは微塵も怯まなかった。己の全身全霊を賭して、たとえどんなに些細な一撃であろうとも、その刃の切っ先を触れさせようと手を伸ばす。夜魔の王の巨体に次々と剣や矢が突き立てられていくが、群がる人間を悉く殺し尽くしてもなお、アバドンはその場に立っていた。
だが、左腕が根本から千切れ、地面に落ちると同時に灰となって霧散した。顔面の半分は矢によって砕かれ、両脚には何本もの剣が埋め込まれている。それは闇渡りたちの墓標そのものであった。
最早、アブネル以外に歴戦の戦士は一人として残っていなかった。
皆が逝ってしまったのを見届けてから、アブネルは腰に差していた聖銀製の剣を引き抜いた。中には僅かに天火が残留している。アバドンを打倒し得る唯一の武器。同時にアバドンもまたアブネルを見やり、咆哮を上げた。
その声が鳴りやまない内に、彼は最後の力を振り絞って突っ込んだ。右腕の爪が身体を抉る寸前で、急停止してやり過ごし、第二撃が来ない内に距離を詰めようと試みる。しかし斬り返しは彼の想像以上に素早い。すぐ目の前を刃上の爪が通り過ぎて行った。胸がいくらか斬られていた。
だが、今度こそ本当に隙だらけだ。アブネルは聖銀の剣を、アバドンの腹めげけて真っ直ぐに突き出し……そして、届かなった。
アバドンの尾だ。それが自在に動き、アブネルの右腕を貫いていた。剣が手から零れ落ちる。
(何故、剣を……)
絡みついた血と共に落ちていく剣を見た時、アブネルの脳裡を一つの光景が走り去った。
散乱した死体、燃え盛る篝火、天に昇っていく火の粉の前に座り込んで酒を飲んでいた男。その背中に向けて、自分は砕かれた伐剣を逆手に持って振り上げ、そして振り下ろせなかった。
――自分のための命だろ。自分が生きているから、何もかも意味があるんだろ。
あの時から、自分はずっと剣を握り締めたまま手放せなかった。それで良かったのだ。今となってはそう思える。それが正しかった。
――何が満足だよ、ブス女め。詰まらねぇ意地張りやがって。
ただ、それだけで終わりではなかった。
戦いの果てには別の戦いが、闇の向こうには光があった。
そして、握れなくなった剣は……。
――おいハゲ、手前もあいつと同じ手合いか?
アブネルは笑った。そして心の中でサウルに詫びた。
「どうやら、そうらしい」
聖銀の剣が地面に触れかけたまさにその瞬間、後ろから声を裏返らせて駆け込んできたサロムが、その柄を手に取っていた。
「わあああああああああああああああああああああっっっ!!!!」
恐怖に顔を引きつらせ、涙なり鼻水なりを顔中から垂れ流したまま、サロムは聖銀の剣をアバドンの胸に突き立てた。
だが浅い。直前で閉じた胸骨が、寸でのところで刃を押し留めている。呆然とした彼目掛けて夜魔が腕を振り下ろすが、アブネルは若者を突き飛ばすと同時に両腕を交差させてその攻撃を受け止めた。
無論、生身の人間が受け止めて無事に済むものではない。腕が、肩の骨が悲鳴を上げ、何本かはへし折られた。傷口から血が噴き出し、両足が地面に沈み込む。しかし頭を粉砕されて即死しなかった分、アブネルにアバドンの攻撃を受け止めるだけの時間が生じた。
飛んできた尾が脇腹を抉る。だが、アブネルは一切動じず、返ってその尾を両腕で抱え込んだ。
常識的に考えれば、到底勝負にならない力比べだ。しかし確かに一瞬、両者は拮抗した。あるいはアバドンに感情があれば驚愕さえしたであろう。
苛立たし気に振り翳される爪が次々とアブネルの肉体を、生命を削ぎ落していく。すでにいくつもの致命傷を負わされていた。それでもしぶとい闇渡りはアバドンの一部を拘束したまま離さない。彼の意識は眼前の敵にのみ固定され、それ以外の全ては視界から消え去っていた。ただ一念あるのみである。この敵をここで討ち果たすという覚悟が彼を支え、倒れることを絶対に許さなかった。
そして、そのためには自分一人だけの力では手に余る。
「起きろ! 起き上がれ!!」
サロムが弾かれたように飛び起き、アバドンの胸に突き立ったままだった剣を一度引き抜く。「脚! 脚だよ!」後から声がした。サロムは全く無意識のまま、言われるがままに剣を横薙ぎに振るった。それがアバドンの膝関節を捉えたのは偶然の産物だったのだが、結果として仄かに天火を宿した剣は敵の巨体に膝をつかせることに成功した。
「わあああああああああ!!」
サロムが、アバドンの口腔目掛けて剣を突き入れる。それはまたしても、今度は顎を閉じることで止められたが、相手もまた絶体絶命であるのは明らかだった。首を滅茶苦茶に振り回し、擦れた刃と歯がガチガチと不快な音を響き渡らせる。サロムは全体重をかけて剣を押し込もうとする。彼と全く同じような有様で飛びついてきたプフェルも、相棒の背中を押して加勢する。
だが、これ以上前に進まない。アバドンは徐々に姿勢を立て直しつつある。あともう少し遅ければ、二人まとめて右腕の爪によって斬殺されていただろう。
「退け」
唸るような低い声に、二人が反射的に身体を逸らせた。
次の瞬間、アブネルは剣の柄尻に向けて前蹴りを叩き込んでいた。踵が芯を捉え、勢いを増し加えられた剣はアバドンの最後の抵抗を打ち破り、その口蓋を突き破って反対側まで飛び出した。
「……詰めが甘かったな」
アブネルにとっても最後の攻撃だった。意識が遠のき、脚が崩れそうになる。それでもまだ、せめてあともう少しと、現世に留まるべく己に喝を入れる。小僧のように泣きかけている二人を見ていると、まだまだもう少しだけ頑張ろうと思った。
(……まあ、あの時の俺に比べれば、こいつらの方が上等か)
闇渡りのアブネルの戦いは、まだ終わらない。