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【第二三八節/「どうしたって、これだけは」】

 イスラとカナンは、どこまでも続く仄暗い回廊の中を無心に走り続けた。何か考えてしまったら、そこで足が止まってしまいそうだった。頭を働かせがちなカナンは元より、今はイスラもそうだった。


 カナンは、少し前を走る彼の背中に、いつもとは少し種類の異なる強張こわばりが圧し掛かっているのを見出していた。進めば進むほど、その緊張はじりじりと強まっているようだった。


 もちろん強大な敵と戦うことへの不安ではない。イスラにとって戦うことはごく自然なことであり続けてきた。


 だが、今度ばかりは事情が異なる。自分たちはオーディスに剣を向けなければならない。


 イスラ自身は認めないかもしれないが、カナンは二人の間にある奇妙な結びつきに何となく気付いていた。愛情でもなければ友愛でもなく、戦友という感覚とも少し違う……立ち居振る舞いの全く異なる二人だが、至極似通っている部分が確かにあったのだ。だが、その隠された類似点に気付けるほど、オーディスはカナンに対して心を開いてはくれなかった。


(イスラは、何か知ってるのかな……?)


 何度か問いかけようと思ったが、その度に口をつぐむということを繰り返した。彼が何を考えているか、今更分からないカナンではない。


(あの人を殺すための覚悟を……それだけを考えてる。違う?)


 口には出さないまま、カナンは彼の背中に問いかけた。


 オーディスに対する憎しみは無い。操られてのことだと分かっている。そしてそれ以上に、憎悪が心を支配した時の、あの黒々とした情動に再び陥ち入ることが、カナンは怖かった。



 だが、彼自身が己を赦さないだろう。



 どんなに「死なないでくれ」「恨んでなどいない」と言ったところで、彼が己の首に突き付けた剣を手放させることは不可能だ。オーディスは自らに対する救済を、死以外に見出し得ないだろう。あるいは、死という結末に喜びさえ感じるのではないか。


 オーディスの旅は常に、エマヌエルと共にあったのだから。


 見られることには慣れている。だから、オーディスが自分に対して向ける視線の意味合いにも気付いていた。彼が自分を見る時の目には、明らかにエマヌエルの影を探そうとする努力が見受けられた。


 カナンはそれを不愉快とは感じなかったし、むしろ仕方の無いことだとも思った。彼がいかに怜悧に振る舞おうと、人間らしい思慕を全く隠しきることは出来ない。ましてや深く愛せば愛すほどに、想いは滲み出てしまうものである。


 それに気付けたのは、カナンの頭脳……と言うより、むしろ女の勘とやらが働いた結果であろう。



 エデンの樹は、そんなオーディスの思慕を盗み見、そして利用したのだ。



 カナンは己の胸中に再び怒りの火が灯るのを感じた。


 だが、今はこうも思うのだった。


(私が彼らを憎むように、彼らも世界を……人を憎み続けてきた。何百年もの間……)


 この溶岩のような感情に浸り続けたまま何百年も生きるなど、カナンには恐ろしくて想像も出来なかった。


 あるいは、異形と化した肉体をも腐らせたまま、憎しみの汚泥の中に浸かり続けたが故に、彼らの精神は取り返しのつかないほどの歪みを抱えてしまったのではないか。


 そんな彼らに、最早言葉など届かないかもしれない。そしてカナンもまた、これ以上彼らと問答をしようとは思わなかった。


 ただ、イスラとオーディスのことだけが気掛かりだった。


 やがて視界が開けて、広大な縦穴のような空間が姿を表した。二人はその中程の、他にいくつもある橋の一つに差し掛かっていた。


 正確には、それらは橋などではなく、セリオンの体内に張り巡らされた血管状の器官の一つである。だが、あの大坑窟で見た意匠と似通った、建造物の模倣もなされている。石畳の隙間には例の発光体の他に蚯蚓みみずのような管が脈打っている。ここまで見てきたどこもかしこもそのように出来ていた。


 カナンはふと、郷愁という言葉を思い浮かべた。だが彼女・・がそんなものを抱くとは到底思えない。それ以外に何も知らないから、怪物に取り込まれた後もこのように記憶が滲み出てしまうのだろう。


 縦穴の中心には鳥籠を思わせる構造物が吊り下げられており、全ての管はそこに接続されていた。籠の表面は心臓そのもののように脈打っており、その度に黒い炎が噴き出しては、陽炎が視界を捻じ曲げた。


「あそこだな」


「……ええ」


 かつて大坑窟で直面したのと同じ重圧をカナンは感じ取っていた。


 喉の渇きを覚えた。どうやら自分で自覚していた以上に緊張していたらしい。


 あの時はまだ、旅の果てに確かな希望があると無邪気に信じていられた。エデンは彼女にとって楽園そのものだった。


 最早その夢は消え去り、想像を絶する現実と、不確実な未来だけが横たわっている。この戦いに勝利したとしても、完全無欠の幸福な幕引きは決して訪れない。カナンはそのことを深く理解し、直視していた。


 隣に立つイスラを見やる。彼は満月を思わせる金色の瞳を真正面に据えたまま、唇を真一文字に結んでいた。


「……イスラ、オーディスさんのこと……」


「何も言うな」


「でも」


「あいつは俺が殺す。俺がやらなきゃいけない。それがたぶん、一番良い道だ。誰にとっても……」


 途中まで明朗だった彼の言葉は、最後に少しだけ逡巡の色を滲ませた。カナンは言葉を発しようとするが、彼の微笑がそれを遮った。


「勝とうぜ、カナン」


「……迷ったまま戦ったら、勝てませんよ」


 くく、とイスラは笑った。今度は苦笑だった。


「大丈夫だよ。迷いながら戦うなんて、そんな器用な真似は俺には出来ない。やる時は全力だ」


「じゃあ、戦って勝って、何もかも終わった後はどうするんです? 諦めてしまったこと、後悔することになりませんか?」


「ああ」


「なら!」


「だから引き受ける。後悔も何もかも。それで十分だ」


「……だったら、私だって共犯者になりますよ」


 カナンの強情さは今に始まったことではない。お人好しぶりも今だ健在だ。一番の被害者は彼女だと言うのに、刺されて殺されかけた事実など忘れてしまったかのような口ぶりだった。実際、もう頭の中に残ってさえいないのだろう。


(俺の身の回りで、色んなことが……俺自身も含めて、本当に色んなことが変わっちまった)


 見つめてくるカナンを見返しながら、イスラは思う。


 この旅は、変化の連続だった。自分も、カナンも、旅そのものの性質も、果てには世界までも変化に次ぐ変化を強いられて、今ここに至っている。歓迎すべき変化もあれば、当然そうでないものもあった。変化の過程で激しい痛みに苛まれたこともあった。



 だが、全ての始まりであり、同時に変化の主体でもあるカナンの中に、いつも変わらないものが……滅びかけている世界の、その果ての果ての、地獄の窯の入り口まで来ても、やはり変わらないままここにある。



 イスラは衝動的に彼女の頭を撫でていた。カナンが驚いて肩を竦める。




「好きだ、カナン」




 カナンの口から、文字に直せない呻き声のようなものが漏れ出た。イスラは舌打ちした。恥ずかしいことを言ったとは微塵も思わない。ただ、本当はもっと色んなことを言ってやりたいのに、こんな簡単な語彙でしか想いを伝えられないのがもどかしかったのだ。


 変わったと思った。豊かになったと思った。


 それでもまだまだ足りないものがある。


 まだまだ生き足りない。


 知りたいことも、言いたいことも、こんなにも多く自分の中に宿っていて、そして世界にはそれ以上に多くの物事が転がっているのだから。


「おらっ、行くぞ!」


 イスラはカナンの尻を叩くと、ぴょんと跳ねた彼女に構わず駆け出した。「ま、待ちなさい、こら! イスラ!!」彼女の抗議の声を背中に浴びながら、イスラは自嘲を浮かべていた。これからだ、という時になんと阿保なことをしているのだろうと。これからぶった斬るつもりの連中に対してすまないとさえ思った。


(でも仕方無いだろ)


「……どうしたって、これだけは言っとかないと」


 最後かもしれないから。とは、イスラは口にはしなかった。

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