そこは、人間の臓器を連想させはするが、明らかに心臓の類似物ではなかった。
カナンはかつて目にした解剖学書の挿絵を思い起こした。剥き出しになった人間の肉体は恐ろしい。骨にせよ筋肉にせよ、あるいは臓器もそうだが、人間が一種の動物に過ぎないという現実をこれ以上ないほど雄弁に物語るからだ。ともすれば恐怖小説や怪談よりも怖いとさえ、幼いカナンには思えたのだった。
わけても、人間の中に別の人間が宿っている断面図……それが一番怖かった。
ここは、そこに似ている。
(子宮、なんだ)
鳥籠の内部は、直径三十ミトラ程の円形空間だった。例によって大坑窟に似せた意匠が残されているが、それ以上に生物的な印象の方が圧倒的に強い。内壁には無数の皺が走り、不定期的に脈動を繰り返す。石畳はばらばらに嵌め込まれ、間には血液のような液体が染み出している。その濁り具合は、カナンに経血を連想させた。
しかも、その血溜まりの中から、小鳥の脚のようなものがいくつも生え出ようとしているのがとりわけ悍ましかった。よく見ると鳥とも人ともとれる形状だが、カナンは深く観察することを自ら禁じた。
籠の中央には一本の樹のようなものが立っている。その葉にあたる箇所は全て黒い天火によって包まれている。幹の中央には一際強い輝きがあり、ベイベルの気配もそこから感じられた。
その樹の根本に、オーディス・シャティオンが……エデンの
カナンは天火の翼を展開して正面に向けた。そのまま先制攻撃を仕掛けるつもりだった。
だから、彼から……彼らから問い掛けがあったのは、あまりにも意外だった。
「試みに問う」
オーディスが振り返る。彼は、彼のままであるように見えた。だが、顔の右半分から右肩にかけて、不自然な隆起がいくつも走っている。空色の瞳は意思を失い、彼本来のものではない狂気に濁った光を湛えていた。
「試みに問う。お前達は、一体いかなる展望があって、我々の望む世界を否定するのか?」
その声音は純粋な疑念を基調としていたが、根底には苛立ちや侮蔑が濃く滲み出ていた。「1足す1」の回答は一つしかありえない、それ以外の答えは誤りでしかない。なのにどうしてか頑なに「2」を認めない。そんな出来の悪い、強情な生徒を相手にしているかのような疲労感が混ざっていた。
だがカナンに言わせればそれは、自分たちの願っていることだけが正義と信じて疑わない者の声音だ。
だから、彼女は高く声を張り上げた。
「それがただの独善だからです!
私たちには選択する自由がある! 世の在り様も、人の生き方も幸福も、誰かに一方的に決められる謂われはありません!
貴方たちにも……」
カナンは剣を突きつけた。
「元より、私たちの世界を否定する権利は無い」
返ってきたのは、あからさまな嘆息だった。
「言ったはずだ。我々は権利を行使するのではなく、責務を果たすために在るのだと。この世界に蔓延る変わらざる者共を一掃し、より栄えるに相応しい者たちに明け渡す聖なる役割だ。
お前は今しがた、選択する自由、などとほざいたな。誰しもが選択権を持った世界こそが理想だと、そう考えるわけか。
だとしたら、お前は人間のことを何も理解していない」
オーディスの顔に、回顧と嘲弄の色が同時に浮かんだ。
「成程、選択とは確かに尊い行為だ。意思と思考を持つ生き物だからこそ、手に入れられた概念だろう。
だが我々は、魔導という奇跡を手にした人間がどのように社会を動かすかを見てきた生き証人だ。分かるか。選ぶ権利を与えるということは、同時に
選択は常に主体者としての自意識と努力を求める。大抵の人間は……凡俗はそれが出来ない。だから、選ぶ権利を与える世界は、大衆が物事を選ばないがためにいずれ自壊する運命を免れ得ない。
端的に言って、お前の論理は破綻している。その破綻を埋めようとするならば、必要になるのはやはり……理性と優しさを備えた、人ならざる人、天使にしか出来ないことなのだ」
「……人間を総入れ替えなどしなくても、人は変われます」
カナンとしては、それ以外に答えようなど無かった。
「何故、人がいつも愚かな方に向かうとばかり考えるのです? 貴方たちは、自らの絶望を通してしか世界を見ていない、それだけではないのですか!?」
「それで十分ではないか。我々は『我々』なのだぞ? 現に」
「この男など、男の我欲と女の嫉妬に翻弄された、まさにありふれた愚かさの落とし子だ。業のなかで育った人間は必ず同種の業を引き摺ることになる。だから自らの愚かしさに取り込まれ、このような有様になったのだ」
「……よくも悪びれずに!」
「人間の在るところ、愚かしさもまた在るのだ。だからいつまで経っても変われない。変革のためには全焼の生贄を供えねばならない。
母と子を繋ぐ
「それを傲慢と言うのです!!」
「だから我々も、一切が成就すれば滅び去ろう」
「そんな言い訳が、本気で通用するとでも……!」
なおも食って掛かろうとするカナンの肩を、イスラは静かに抑えた。振り返った彼女に対して、静かに首を横に振る。元より対話が通じるならば、このような展開にはなっていない。
彼らは人類粛清と新人類の創造を謳っているが、根底には自殺願望にも似た、死への強い情動が宿っている。「自分たちも死ぬから、それで一切が赦されかつ解決する」という、論理と呼ぶにはあまりに乱暴な考え方。
イスラはそんな彼らの言葉繰りに、何か暴力的なものを感じ取っていた。外部に向けられる暴力ではない。内向的で、自傷的な暴力。己の命と心そのものに向けられる暴力だ。
その痛みは、イスラ自身も覚えがある。だから、こんな時であるにも関わらず、ふと問い掛けてみたくなった。
「あんたらは、生きてて楽しくないのか?」
とんでもない愚問を聞かされた、とオーディスの顔が歪んだ。それまでイスラを一顧だにしなかった彼らが、初めてこの場違いな闇渡りに向けた表情がこれだった。
だが、イスラは気にしない。そういう顔をされるのは慣れている。ただ、オーディスの顔を使ってそうされるのが、いささか辛くはあったが。
なおも続ける。
「今まで生きてきて、幸せだって思ったことは無かったのか?」
「そんな下らない質問に答える理由がどこにある?」
エデンの賢者たちはあくまで侮蔑の色を隠そうとしなかった。だが、イスラは怯むどころか、さらに一歩乗り出して静かに、しかし真っ直ぐに問い掛ける。「大事なことだろ」
「あんたらは完璧な人間と、そいつらのための世界を創ろうとしている。
でも、肝心のお前らが楽しさや幸せを知らないなら、生み出される子供たちだって同じものになるしかないんだ。
世界を憎み、人を見下し、生きることの意味を見失った哀れな生き物にしかなれないんだ。
誰もそいつらに……何が楽しくって、何が幸せかって、教えてやれないからな」
イスラの言葉が響いた瞬間、鳥籠の内部は一気に音と温度を失い、静まり返ったようだった。実際には何も変わってはいない。だがカナンにはオーディスの顔が凍り付いたのがはっきりと分かったし、何より彼らの絶句そのものが、いかにイスラが痛い所を突いたかという事実を明瞭に物語っていた。
(イスラにしか言えないことだ)
カナンはそう思った。
絶望は人の心を挫く。心が乾けば、いつかひび割れて壊れてしまう。イスラはそのことを良く知っている。
だからこそ、糾弾するでもなく、静かに諭すのだ。
お前たちは本当に正しいのか、と。
「憎しみは自分を焼く火だ。それで一杯になったら生きるのも死ぬのも同じになる。
でも、もしそんな風に落ちぶれるのを止めてくれるものがあるとすれば、それって、自分が通ってきた幸せとか楽しさなんじゃないのか?
なあ、あんたらはもう止まらないのか?
あんたらは、憎しみに心を満たしたままで、世界を受け継がせてやることが本当に出来るのか?」
ともすればイスラの言葉は、完全な否定と捉えられても不思議ではないだろう。還元すれば「お前たちにその資格は無い」と言っているようなものだからだ。
イスラ自身、己の言葉遣いの下手さには気付いていたし、先程カナンと語らった時と同じ歯痒さを覚えていた。言いたいのはこんなことではない、もっと適した言葉を使いたい。しかし自分の中にふさわしい語彙は無く、従って不器用極まり無い台詞しか吐き出せない。
だが、対話においては、言葉などただの一要素に過ぎないのだ。
イスラの表情や声音は、敵意と傲慢さで鎧のように覆われたハザルたちに確かに届いていた。
そもそも、こんな時にそんな場所まで追いかけてきた挙句、すぐさま剣を抜かず悠長に話し掛けること自体、人が良過ぎる。
だから彼らも、イスラにこう返した。
「……我々とて、かつては幸せだった」
オーディスの目が右手に注がれる。まるで、零れ落ちていったものを見出そうとするかのように。
「我ら一人々々に掛け替えの無い存在があった。彼らの遺してくれた光が……その残光が、今日まで我らを生かしてきたのだ」
右手は、そのまま腰に帯びた
「我らの望む世界の敵よ。我々は互いに分かり合えない。
我々は我々の掲げる希望のために、貴様らを絶滅する。
故に貴様たちも、己の望む世界の敵を排除すると良い。
これは聖戦なのだ」
イスラは目を閉じ、嘆息した。そして右手に
カナンがそっと手を添える。背中の翼が一つ消え、イスラの身体を巡り明星へと宿った。
ふと、オーディスの言葉を思い出した。
——今の君に必要なのは、勝つことだけだ。
「……ああ、分かってる」
イスラは金色の目を開き、そして二つの剣を構えた。
カナンも残った四枚の翼をはためかせ、彼の傍らに立つ。
鳥籠の壁から炎の筋がいくつも噴き出し、地面から染み出した血潮が三人の裾を濡らした。
黒炎の核が戦いを促すかのように一際激しく燃え立つ。その間隔は心臓の鼓動に似ており、現に鳥籠を揺らす振動と全く同じ早さだった。
それはあたかも、世界の命運を賭けた戦いを囃し立てる、戦鼓のようだった。