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【第二四〇節/黎明の聖戦 一】

 戦闘は、イスラの突撃によって幕を開けた。


 世界の命運を賭けた戦い。


 だが、当事者であるイスラには、世界に対する責任感や気負いの類は一切無かった。


 生き残る。ただ前に進む。そのために戦う。


 闇渡りとして生を受けた瞬間から、それが彼にとっての生存の大原則となっていた。カナンと出会って以来、人生に厚みが増したのは事実だし、変化が自分を強くしてくれた。


 だが、根底には変わらないものがある。


 正確には、変わらなくても良いもの。それがあることによって、未来にわたり自分を救い続けてくれる何か。イスラにとって、戦う意思こそがそれだった。


 だから世界がどうなるかとか、人の未来がどうなるといった難しい話は、最初から意識の外に捨て置かれた。会ったことも話したこともない、この世界にいる誰か……のために戦えるほど、自分の視野は広くない。


 ただ自分が見てきたもの、会ってきた人々、そして自分自身のために戦っているに過ぎない。


 だから、両腕に世界の重さを乗せて剣を振るっているのではない。そういう緊張は無い。


 だが、相手はオーディスの身体を使っている。いくら言葉で否定しても、その事実が胸の奥底に確かに位置を占めているのを認めないわけにはいかなかった。


 それでもなお、剣に迷いは籠めない。


 蒼炎を纏った明星ルシフェルの一撃は、しかし、同じオレイカルコスを鍛えて作られた月桂樹アウレア・ラウルスによって受け止められた。カナンの蒼炎もまた、彼らの奪い取った黒炎によって相殺される。


 だがイスラに動揺は無かった。明星の圧倒的な性能は理解している。だからこそ、それだけに頼り切らない心構えは常に備えてきたつもりだ。


 すかさず左手の混血児ヒュブリスで横薙ぎを繰り出す。それもまた、オーディスの帯びていた短剣の一つによって防がれた。


 そしてそれも織り込み済みである。


 イスラは後方に跳び退ると同時に、左の袖に仕込んでいた梟の爪ヤンシュフを放った。狙いはオーディスの右脚。しかし元より転倒を狙えるとは思っていない。避けられるだろうと思っていたし、事実そうなった。


 だが、視線は十分に引きつけた。イスラの意図を察したカナンは、無言のままオーディスの左半身……月桂樹を握っているのとは逆の位置に移動している。


「……בלסת העליונה שלך」


 咄嗟に発動されかけた失語の魔法は、しかし最早全く意味を為さなかった。


「無駄ですッ!」


 カナンの翼の一つが展開し、オーディスの左側面に炎の散弾を浴びせかける。


 着弾と同時にいくつもの閃光が爆ぜ、敵の姿を二人の視界から隠蔽した。


 カナンはとうに覚悟を固めていた。今の攻撃は決して手抜きなどではない。十分な殺意を込めた一撃だった。天火を吸収されにくい左側面から仕掛けた上、回避も出来ない面制圧である。普通ならこれで終わる。


 それはつまり、全力の攻撃ではなかったということだ。


 もっと手の込んだ攻撃も出来たのにこの程度で済ませたのは、何らかの方法で回避された場合により大きな策が使えなくなるからである。ただでさえ敵の戦法や能力は未知数なのだ。



 世界を滅ぼし、そして創りなおそうとする執念の持ち主たちが、よもやこの程度で敗けてくれるとは到底思えない。



 だから驚いた。


 爆炎が晴れた時、そこに立っていたオーディスの左腕は爆炎によって吹き飛ばされていた。それだけでなく、大小さまざまな傷が彼の左半身を覆っていた。


「なっ……!?」


「……!?」


 二人揃って呆気にとられた。こんな時、この状況で、しかも味方だった男を傷つけたにも関わらず、不謹慎と分かりながらも二人揃って同じ感想を抱かざるを得なかった。


 すなわち拍子抜けである。


「まさか直撃するなんて……」


 イスラは、カナンが喉をごくりと鳴らすのを聞いた。「切り替えろ」と耳打ちすると、カナンはこくりと首を縦に振った。


 あまりに不気味だった。


「成程、法術という概念を棄てたか」


 オーディスの声音は平静そのものだったが、喉を焼かれたのかやや雑音交じりの音になっていた。常人なら激痛で立っていることも不可能な有様にも関わらず、あくまで平然としている。


 その傷口を黒い天火が這い始めるに至って、二人は彼らの余裕の意味を理解した。


「考えたものだ。法術の発動を妨げられるなら、発動した状態を維持し続ければ良いという考え……単純だが、それほどの量の天火を保ち続けるとなると、並みの人造天使の仕様では不可能だろう。曲がりなりにも、真の天使の近似値を示しただけのことはあるか」


 彼らの講釈が終わる頃には、カナンの負わせた傷は完全に修復されていた。吹き飛ばされた左腕とて例外ではない。


「厄介だな」


 イスラにとってもカナンにとっても、今まで戦った中で一番大変だった相手が誰かは、意見が一致している。


 カナンは鳥籠の中心で燃え盛る、黒い炎の核にちらりと視線を送った。


「避けては通れない、ということですね」


 改めてカナンは、黒炎の魔女と呼ばれた一人の女性に、どれほど多くの業と因果が集められているのかを想った。彼女は世界を変革するための起爆剤として生を受けたようなものだ。彼女自身が恐れ、目を背けていた、避け得ない破滅……日々強くなっていく天火に自分が呑み込まれる未来。それは古の時代の賢者たちによって予め定められていたことだ。自分が彼女を破らなくとも、いずれはそうなっていたのは確実だ。



 彼女の宿命は、今や全世界の宿命と同一化した。



 だからこそ、今一度あの圧倒的な黒い天火と向き合わなければならない。



「イスラ、斬り込みますよ!」


 言うやいなやカナンは飛び出した。イスラもまた、彼女の言葉が終わるか否かというところで駆け出している。


 無限に近い回復を可能とする黒い天火。それそのものを完全に攻略することは出来ない。


 だが、それを操る肉体の方は、いくら回復可能だとしても制圧可能である。


 より具体的に言うなら、五体全てをバラバラに斬り刻んで戦場から投げ棄ててしまえば良いのだ。


 残酷趣味的な策だし、何よりオーディス相手にそれを実行するのは心苦しいが、自分たちがそうしなければ現人類が滅ぼされる。心情的にはどうあれ、やるべきことはやらなければならない。


 敵は一人。いくらオーディスの肉体を使っているとは言え、今のイスラと自分ならば十分勝算はある。


 事実、オーディスがオーディスのままならば、いくら彼が達人とはいえ押し切られていただろう。ハザルたちも元を辿れば魔導士であり、練達した剣の使い手はごく少数だった。彼ら自身の膨大な記憶や経験を参照しても、目の前の二人に対抗し得る者はいなかった。



「ならば、こうしよう」



 その声が聞こえたと思った次の瞬間には、オーディスの身体がカナンの眼前に立ち塞がっていた。


「っ!?」


 目を見張るほどの踏み込み、そしてそこから繰り出された袈裟斬りを、カナンは何とか細剣で受け流す。


 刀身同士が触れ合った瞬間、カナンは二重の衝撃に襲われた。一つは物理的な衝撃。たった一合だけで剣が折られたかと思った。天火で身体能力を底上げしているにも関わらず、思わず柄から手を離しそうになった。


 しかしより強烈なのはもう一つの方……精神的な衝撃だった。



 良く覚えのある太刀筋だったからだ。



「カナン下がれ!」


 出鼻を挫かれたと考えたイスラは、両者の間に割って入り、強引に敵の追撃を自分へと向けさせた。


 だが、カナンを衝撃から立ち直らせるはずだったイスラもまた、オーディスの……ハザルの攻撃によって面食らう羽目になった。


 オーディスはイスラの顔目掛けて何かを蹴り飛ばした。それが先のカナンの一撃でもぎ取られた左腕と理解するには、しばらく時間が必要だった。第一、猛攻を捌くのに必死で考えている暇が無い。


 その攻め方にしても、やはりイスラにとって強く印象に残っている動きだった。一手毎に変わる攻め口、視線誘導と死角からの強襲。



 かつて紙一重のところまで追い詰められた悪意と良く似ていた。



「チッ!」


 カナンの天火が二人を引き離す。イスラはカナンを守るように前方に立った。


「……気付いたか、今の?」


「ええ」


 互いに、互いがと戦わされたかを悟っていた。


 確かにハザルの記憶と経験の中には、イスラとカナンの組み合わせを凌駕する者はいない。



 だが、オーディスの・・・・・・記憶と経験の中には「彼ら」との交戦記録が焼き付いている。



 そして、彼の周到な性格からして、自分にとって脅威となった相手を徹底的に研究していたであろうことも、想像に難くない。




剣匠ギデオン、それに闇渡りの王サウルか。


 十分な戦力だな」




 冗談じゃねぇぜ、とイスラは呟いた。カナンも全く同じ心地だった。

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