その晩、蓮美は栗花落のマンションのレコーディング室で椅子に座って、ぼんやりと虚空を見上げていた。手元に抱えたサクソフォンは、つい先ほどまでバンドの既存曲を練習していた名残だ。
(この時間まで全力で音出せるって、実際良いな……)
壁の時計は、とっくに日付が変わっている。自分の住むアパートならとっくに近所迷惑の時間で、今のように吹き鳴らそうものなら隣の部屋からの壁ドン必死だろう。
かといって日中なら好きにできるかというと、そうでは無く、やはり気を遣って部屋の中で練習するということはまずない。せめて近所の公園か、夜なら大学の裏の丘を登ったところにある、人里離れた公園なんかに出かけて練習するのが常である。
(ウチの環境とは大違い。お金があれば、なんだって解決できるんだな)
ここの物件のお値段がいくらかは分からないが、地方都市のマンションにしては新しくて設備も充実していて、決して安いということは無いだろう。それだけ栗花落が稼いでいるのか、それとも家族の支援を受けているのかは定かではないが、本気で音楽をやろうと思った時に楽器や日々の活動費以外にも、お金をかけるべきところがあるということを改めて痛感させられる。
(なんか、栗花落さんと出会ってから、いろんな現実を見せつけられてる気分になる。涼夏さんの時は、そんなこと無かったのに)
涼夏と出会った時の蓮美は、一度は目を背けかけた音楽との新しい向き合い方や、新しい道が拓けたような気分だった。それは、涼夏が元プロのベーシストであり〝音楽を仕事にする〟ことを知っているからこそ、今まで意識したことのなかった景色を見せられているいるように感じられたからだ。
(栗花落さんも、涼夏さんと似た雰囲気はあるんだけど、もっと精錬されてるっていうか……達観してる? ような?)
中退とは言え音大に進学したなら、一度はプロを目指そうとしたことはあるのだろう。涼夏と同じレベルに立つ実力を持っていた人。
しかし、今の栗花落は決してプロの音楽家として活動しているわけではない。もちろん、百万フォロワーの動画チャンネルを運営し、その広告収入を得ているのでその点ではプロ(音楽を通してお金を稼いでいる人)とは言えるのだろうが。
(その立場の違いのせい……なのかな。そもそも、なんで音大を辞めちゃったんだろう)
音大と一般大は、空気も環境も違うだろうが、少なくとも同じ大学生というくくりの中で、蓮美は「大学を辞める」という選択肢が微塵も頭の中に無い。それくらい、彼女にとっては大事なのだ。
――あそこに、私の愛する音楽はなかった。
かつて栗花落が口にした言葉が、蓮美の耳に妙にこびりついている。
栗花落の愛する音楽とは?
そもそも、自分の愛する音楽とは――
「――あら、寝て無かったのね」
声をかけられてハッとすると、防音室の扉が少しだけ開かれて、仕事帰りの栗花落が顔を覗かせていた。
「あ、お、お帰りなさい」
「ただいま。ずっと吹いてたの?」
「まあ……うん。なかなか、夜中まで練習できることはないから」
「蓮美ちゃんは、練習熱心なのね」
栗花落は部屋に足を踏み入れて、そのままデスクへ向かいパソコンに火を灯す。仕事でお酒を飲んでいるからか、いつもは雪のように真っ白な頬が、ほんのりリンゴに似た色に色づいている。
今日は居候の身分である蓮美は、遠慮がちに肩をすぼめてサクソフォンを膝の上に置いた。
「練習熱心っていうか、クセ……なのかな。時間があれば吹いていないと落ち着かなくって」
「それは、フェスに緊張して?」
「それもあるにはあるけど……たぶん、吹奏楽部の時のだと思う。大会までの限られた時間の中で上手くなって、結果を出さなきゃいけないから。一分一秒が惜しいっていう気持ちが沁みついちゃって」
「なるほどね」
栗花落は、それ以上話題を広げるでもなくパソコンに向かってマウスを操作する。静寂の中にカチカチとクリック音だけが響き、蓮美は余計に居心地が悪くなる。
「……栗花落さん、どうして今日、私が泊まるのに賛成したの?」
気になることは沢山あったが、今何よりも聞いておきたいことがそれだった。
栗花落は、画面に目を向けたまま、ながら返事で答える。
「学生の頃、友人とお泊りなんてしたことがなかったから、やってみたくって」
「つまり、誰でも良かったってこと?」
「蓮美ちゃんは、物事に納得できる理由を欲しがるのね?」
突然そんなことを言われて、蓮美はぽかんとして栗花落のことを見つめてしまう。
「え……そんなこと考えたこともなかったけど……そう、なのかな?」
「だって、涼夏さんが思いつきで何かするとき、いつも不満そうに意見しているから」
「それは……だって、いろんな事を勝手に決めちゃうから」
「私は、スピード感あって良いと思うけど?」
「その点はそうだけど……せめて相談はして欲しいっていうか。涼夏さんのバンドだけど、みんなのバンドでもあるんだから」
「ふふ、なるほどね」
蓮美の回答が琴線に触れたのか、栗花落は肩越しに振り返って彼女を見る。
「和を重んじて、仲間を大切にするのも、アンサンブルに長けた吹奏楽部譲りかしらね」
「そう……かもしれないですね」
微妙に揶揄された気がして、蓮美は少しムッスリとしながら答える。
その不満を晴らすように、栗花落が笑みを湛えた。
「これでも褒めてるつもりなのよ。この間のボーカルのレコーディング、蓮美ちゃんの提案がなかったら今でも躓いていたかもしれないし。聞いた話によると、渋谷でのライブもあなたの機転のおかげで良いステージになったって言うじゃない」
「……ありがとうございます」
「んー……それじゃあ、そんな蓮美ちゃんに、ウチに来てくれた理由をあげちゃおうかな」
そう前置いて、蓮美のことを手招きする。半信半疑で椅子から立ち上って近寄った蓮美だったが、栗花落は何も言わずにヘッドホンをひとつ彼女へ手渡した。
蓮美が装着するのを確認して、画面上の再生ボタンをクリックする。相変わらずムスッとしたままの蓮美だったが、やがて表情が明るく開けていく。
「これって……!?」
「新曲、とりあえずの形にはなったから、一度聞いてもらいたくて」
一瞬の感動をこぼしたきり、蓮美は全身を曲に集中させるかのように、目を閉じて耳を澄ました。
先のムード満点のジャズバラードと打って変わって、『FIREWORK』のような駆け抜けるアップテンポのナンバー。しかし、花火のような煌びやかさと一抹の哀愁を描いた陽よりの曲であった『FIREWORK』と違い、ダークでサイケデリックで、少々メランコリックでもある陰の楽曲だ。
客席の単調なノリ方を拒むかのように、複雑に乱れる変調と表拍・裏拍の打ち替え。そして上下の激しいオクターブ。そして挑戦的な各楽器のソロが、入れ代わり立ち代わり組み込まれている。
負の感情を爆発させ、音に乗せて叩きつけるような――ある意味、フェスのヒールとなったペナルティボックスにピッタリだった。
「……すご」
すべてを聞き終えて、蓮美は映画の超大作を一本見終えたかのような充実感でヘッドホンを外した。パソコンの打ち込みで作られたデモ音源は、全ての楽器が電子音声で、どこか単調で軽い印象を受ける。
それでもハードな充実感と、ある種の疲労感を与えるこの曲が、生演奏で披露されたらいったいどうなってしまうのか。
全く想像ができない。
「まだまだ粗削りのつもりだから、率直な意見を聞かせてくれると嬉しいな」
「意見なんて……! むしろ、これで完成してないの?」
「うーん、そうねぇ」
栗花落は、歯切れの悪い様子で明後日の方向を見上げる。
「何か物足りないような気がして……第三者の意見が欲しくって」
そう言いながら、真っすぐに蓮美の目を見た。
その瞳は、困っているというよりは、相手の芯をじっと見つめるかのようだった。
(これ……試されてる?)
もともと栗花落に対してやや否定的な心境のせいか、蓮美は彼女からの視線を思わずそう感じ取ってしまう。わずかに尻込みするが、意見できないのも負けたような気がして、眉間に皺を寄せながら言葉を考える。
何か、重箱の隅をつつくつもりでも――
(ダメだ。第一印象で圧倒されちゃったのが響いて、ケチひとつ思いつかない)
これで完成してないの――そう訊ねた蓮美の第一声が全ての答えだった。
これ以上、弄るところなんてない。強いて言えば、難易度がすこぶる高そうなのでフェスまでの限られた期間でモノにできるかどうかという不安があるくらいだが……それは、このバンドに於いては後ろ向きな感想だ。
自分たちの技量を言い訳に曲の完成度を下げるようなことは、誰も求めないし、求めてもいない。
(それでも何か……だって、本人が足りないって言ってるんだもの)
万が一、単に栗花落がウソをついている可能性もある。本当は文句の付けようがないくらい完成していて、「それでも何か」と、それこそ蓮美を試している、と。
しかし、蓮美は一切そんなことは考えなかった。音楽に関しては嘘をつかないと……それだけは、まだ二ヶ月そこらの付き合いでありながらも、彼女のことを無意識に信用していた。
(本人が……本人……?)
あっ――と、声があがる。蓮美の中で思いついたものがあったが、本当にそれが答えなのかは自信がなかった。だが、気づいてみればどこか胸にぽっかり穴が開いたような気分で、それ以外の答えがもはや思いつく余地がなかった。
「……栗花落さん、今回もキーボードなんだね」
蓮美が思い浮かべたのは、この曲をステージで演奏している自分たちの姿だった。
千春が爽やかにドラムを叩き。
涼夏が暴力的にベースを弾き。
自分が力いっぱいサックスを吹き。
緋音が儚げに歌い上げる。
その中で栗花落は、蓮美なら指が釣りそうな音階を、何食わぬ顔で奏できっていた。
「なぜ、そこが気になったの?」
栗花落が、何かを探るように蓮美の答えを突く。
それまですっかり尻込みしていた蓮美だったが、今、心のうちに沸き起った違和感に、彼女自身もまた嘘をつけなかった。
「前回はジャズバラードだったから、馴染みやすさでキーボードにしたって栗花落さん言ってた。でも、今回は違う。これだけノイジーな曲なら、むしろ馴染み過ぎて主張がない」
口にすることで、違和感は確信に変わる。
「このごった煮の中でこそ、栗花落さんのあのバイオリンが劇薬になる……気がする」
蓮美は、加入テストと称してはじめて栗花落のバイオリンを聞いた時の衝撃を思い出した。
あの、心をわし掴みにされるような音の存在感。
この曲にこそ、あの響きが欲しい。
蓮美の意見を無言で聞いていた栗花落は、しばらくして吐息交じりに頷く。呆れたのではなく、どこか観念したような様子だった。
「そう……じゃあ、こっちを聞いてみて貰える?」
そう言って、彼女は蓮美にもう一度ヘッドホンを装着するよう促す。
蓮美が言われるがまま耳にあてがうと、すぐに新しい曲が再生された。
構成の軸は、先ほど聞かされたものと大きくは変わっていない。
しかし、ちょうど蓮美が指摘したことの答え――キーボードがバイオリンに置き換わったバージョンのものだった。
(ちゃんと作ってるんじゃん……電子音のバイオリンで、流石に生で聞いた栗花落さんの演奏には程遠い、けど)
いい。
先ほどのよりも断然に。
こうして聞き比べる形で披露されたからこそ、如実に違いが分かった。さっきのキーボードバージョンでも情緒を乱されるほどのインパクトがあったが、こちらのバージョンの方がより感情的で、悲愴的で、破滅的な調べだ。
(そうだよ、やっぱりこれが、この曲の完成形……! 演奏したい! はやくこれ、セッションしてみたい!)
気づけば何も持っていない宙にサクソフォンを持つように構えて、音に身を委ねながら後を追うように自分のパートを追奏していた。
再生が終わると、あたかも実際に演奏し終えたかのような充実感で、心と息が弾んでいた。
「これで行きましょう! 絶対、これで行くべきです!」
蓮美はヘッドホンを外すのも忘れて、興奮した様子で栗花落に迫る。
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しい」
「なら、決まりで――」
「でも、ダメなの」
栗花落が、どこか冷めた笑みを浮かべて、蓮美の声を遮る。
蓮美は口を噤んで、栗花落を見つめる。
「私は、この曲を演奏できない」
「え……どうして?」
「これは、RAiNのバイオリンだから」
戸惑いで声が震える蓮美に対して、栗花落は落ち着いた口調で続けた。
「RAiNのバイオリンを、時任栗花落は演奏できないの」