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第64話 空の彼方

「えっと……ごめん、どういう意味……なの?」


 突然の栗花落の告白は、蓮美にとって支離滅裂なものだった。

 戸惑いで視線を泳がせながら、必死に理解しようと頭を働かせる。


「RAiNっていうのは……えっと、栗花落さん本人だよね?」

「ええ。RAiNは私の名義」

「うーん……二重人格ってこと?」

「ふふ、そういう解釈も面白いけど、違うの」

「じ、じゃあ、前に加入テストってことで聞かせて貰ったバイオリンは……?」

「あれは、RAiNのバイオリン」

「じゃあ、栗花落さんのバイオリンって……?」

「私のバイオリンは――」


 蓮美の質問攻めによどみなく答えていた栗花落だったが、そこで初めて言葉を詰まらせる。

 自分の答えを咀嚼するように何度か頷いてから、改めて向き直って、


「私のバイオリンは、もうどこにもないのかも」


 そう、寂しそうに笑った。


(ますます訳が分からない……! じゃあRAiNって何!?)


 考えたところで答えが出るわけもなく、ひたすらに混乱するばかりである。


「結論としては、今聞かせて貰ったバージョンは、実際には演奏できないってこと……で良いんだよね?」

「ええ、申し訳ないのだけれど」

「だったら、どうしてあの時、バイオリンを披露してくれたの……?」


 蓮美が一番引っかかるのが、その部分だった。

 栗花落の口ぶりからして、バンドに入った時点から弾けないのは分かり切っていたようだったのに、なぜわざわざ聴かせてくれたのか。

 初めからキーボードだけ披露すれば良いのに……と、そこが腑に落ちに無かった。


(あんな情熱的な演奏をするのに、聴かせされたら欲しくなっちゃうじゃん……それとも聴かせたかったの……?)


 まるで、手の届かない才能をひけらかすように――いや、それは無いだろうと心の中で否定する。

 だったら、何のために?

 届かない才能を見せつけられた事実は、その通りだと言うのに。


「……見当違いのことを言ったら、聞き流して欲しいんですけど」

「何かしら?」

「それって、音大を辞めたことと何か関係があります……?」


 蓮美の問いに、栗花落は僅かに眉を上げて、かすかな驚きを露わにした。


「やっぱり、あなたはアンサンブルの人ね」

「何というか……他に、納得のできる理由が無かったから」


そう返されたら、尋ねずにはいられない。


「何があったんですか? きっと〝RAiN〟が、栗花落さんの愛した音楽――ってことですよね?」


 ――あそこに、私の愛する音楽はなかった。


 再び、いつかの栗花落の言葉が蓮美の脳裏に蘇る。

 音大ではできなかった音楽を今、彼女がやっているのだとしたら、RAiNこそが栗花落の愛した音楽であるという推理は間違っていないはずだ。

 しかし、栗花落は「RAiN」は「栗花落」ではないと言う。

 この矛盾を生み出した何かがあったはずなのだ。


 栗花落は、初めて困ったような顔で押し黙った。

 ただでさえ中退というネガティブな話題だ。話辛いこともあるだろう。しかし、彼女の表情、そして吐息が、単なる学歴コンプレックスによる沈黙ではないことを物語っている。


「質問……変えましょうか?」

「……例えば?」

「どうして、私たちのバンドに入ろうと思ったんですか?」

「それは、あなたたちのライブの動画を見てよ」

「でも、私たちのバンドでは〝RAiN〟の音楽はできないんですよね? 名義を出すのも渋っていたし。栗花落さんにとっては何のメリットもない……むしろ愛する音楽の枷になるようなことなのに」


 栗花落は何も答えない。

 しかし、蓮美は少しずつ核心に迫ってきているような手ごたえがあった。

 物事に納得できる理由を欲しがるのね――栗花落は、蓮美のことをそうも言った。実際に今、そうなっているのが皮肉なところだが、「あり得ない答え」をひとつずつ潰していけば、自ずと答えは絞られてくるものだ。


「〝RAiN〟を押し込めることになっても、栗花落さんにはバンドに入りたい理由があった。音楽性に惹かれてくれた……なら嬉しいけど、音楽性で大学を辞める人だもん、それは違うよね? だったら答えは――」


 ――人。


 今ある情報で考えられる答えは、その一点だった。

 というよりも、その一点だけが蓮美の意識の中で、強烈に輝いて見えたのだ。


「私は、涼夏さんと涼夏さんの音楽に出会って、もう一度、誰かと音楽をやってみたいと思った。他の人たちも、きっと同じ。みんな、それぞれの理由で音楽と距離を置いていたのに、根無涼夏っていう一点の曇りもないお星さまに出会って、その真っすぐ過ぎる音楽との向き合い方に――半分引きずられるようだけど――惹かれて、今、ここにいる」


 蓮美は、涼夏と初めてセッションをした時のことを思い返していた。

 トイレで、しかも半ば喧嘩を売られるようなセッション。

 とにかく腹立たしかったが、一方で「この人は本当に音楽のことしか考えてないのだ」と、涼夏の潔さに羨ましさも感じた。

 自分も彼女くらい強く、そして素直に音楽と向き合えていたら、苦しむことなんて無かったのかもしれない。


(いや……そしたら涼夏さんと出会って無いか)


 自嘲気味に笑ってから、改めて栗花落に向かい合う。


「栗花落さんも、涼夏さんの演奏に何かを感じ取ったんじゃないですか……? 自分では見つけられなかった道を照らしてくれたような輝きを、あの音楽から」


 じっと聞いているばかりだった栗花落が、初めて小さく唸った。


「……半分当たり、かしら」

「半分?」

「確かに、人に惹かれたのはその通り。心を掴まれた……というよりは、驚いた」

 ため息に近い呼吸をひとつ置いて、彼女は部屋の中を一周見渡す。

 まるで、蓮美以外の誰かを虚空に探すような視線だったが、やがて長めの瞬きひとつ置いて蓮美に向き直った。


「あなたよ、蓮美ちゃん」

「……私?」


 深い海のような瞳に見つめられ、蓮美は息を飲む。

 彼女にとって、ペナルティボックスとは涼夏だった。もちろん、自分のバンドだという帰属意識も愛着も芽生え始めているが、根本はやはり「根無涼夏のためのバンド」であることは変わらない。

 だから、自分の名前が出てくるとは、これっぽっちも考えたことが無かった。


「ロックバンドにサックスなんて、珍しいから……とか?」

「そうじゃなくって、似ていたの。私の幼馴染に。見た目の雰囲気もそうだし、何よりも演奏の空気が」

「そう……なんですね? なんだろ、どう反応したらいいのか……困る」

「ふふ、だから黙っていたのに」


 悪戯に笑む栗花落に、蓮美は妙に居た堪れなくなって俯きがちに顔を背ける。

 愛の告白をされたわけでもないのに、どうにも恥ずかしくって、胸がむずがゆい。


「その……幼馴染も音楽をやってたんですか?」

「ええ。地元では、私と同じ先生のところに通って、大学も一緒だった」

「じゃあ、栗花落さんは辞めて、その方はまだ大学に……?」

「いいえ。もうこの世に居ないわ」

「そっか……え?」


 あまりにさらりと言うので、蓮美は思わず聞き流してしまうところだった。

 栗花落の言葉を反芻するように頭の中で繰り返し、ようやく彼女が何と言ったのかを理解する。


「居ないって、亡くなられたんですか?」

「ええ。空の彼方で」

「それは、何というか……」


 こういう時に欠ける言葉を、若干十八歳の蓮美は、まだ咄嗟に思いつくことができなかった。まだまだ人生これから。死なんて遠い未来の出来事だと信じて疑わない若人にとって、ほとんどフィクションの世界の話だ。

 これまでも似たような反応をされて来たのだろう。栗花落の方は、言葉に詰まる蓮美を前に慣れた様子で、逆に思いやるように微笑みかける。


「ありがとう。無理しなくていいのよ」

「すみません……頭が真っ白になっちゃって」

「そこで上辺の言葉を並べ立てないのは、きっとあなたの優しさね」


 栗花落が、座っていたオフィスチェアの背もたれにゆっくりと身を預ける。


「ここでなら時任栗花落として演奏できるかも……と、思ったから」

「え……?」

「バンドに入った理由。あなたが尋ねたことよ」


 そうか――と、蓮美は半ば勢いで頷かされる。

 満足げにその様子を見つめて、栗花落が視線を壁際のバイオリンケースへと移した。

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