私が彼女――時雨と出会ったのは、通っていたバイオリン教室でのことだった。
私の先生は、国内有数の格式ある交響楽団でファーストバイオリンを務めていたこともあるバイオリニストで、初心者はお断り。数年にひとり、中学にあがるタイミングで生徒を取るか取らないかという狭き門で、選りすぐった子供たちに厳しくも高度なレッスンをしてくれることで、界隈では人気があった。
それこそ、自分の実力を測る物差しも持っていない子供からすれば、選ばれること自体がステータスのようなもの。私が選ばれた時は、それはもうコンクールで賞を貰うよりも喜んだものだった。
しかし、その代は珍しくもうひとり門下に入った生徒がいた。何年かにひとり選ばれれば、という中で同じ年にふたり選ばれるのは、教室を開いてから初めてのことだと聞いていた。
それが時雨だった。
周りには、数々のコンクールで優秀な成績を残す年の離れた先輩ばかりの環境で、同じ時期にこの〝特別〟を共有した私たちは、すぐに仲良くなった。
「お前たちは、実力は拮抗しているが演奏スタイルが正反対だ。そんなふたりが切磋琢磨したら互いにいい影響があるのではと思い、両方を取ってみることにした」
先生はそう言って、基本は個人レッスンが中心の教室の中で私たちにはグループレッスンをよく課した。グループとは言っても結局は個人ごとのレッスンにはなるのだが、互いに同じ課題を与えられ、締めくくりとして相手と先生の前で成果を発表し合うというのを繰り返すのが、基本的な流れだった。
正反対の演奏スタイル――その時の私は、楽譜をいかに正確に表現して作曲者の意図を忠実に演奏しきる音楽に傾倒していた。バイオリンを始めたばかりのころ、最初に通った教室でその正確さを褒められたのが成功体験として頭にこびりついていたからだ。
一方で時雨は、楽譜から感じ取った自分の表現を情熱的に演奏することに長けていた。小さい身体を力いっぱいに躍動させて、迫力ある演奏で見た目すらも大きく見せてしまうような。もちろん、楽譜を無視すれば先生からこっぴどく怒られるので、それはしないが。演奏者の感性に委ねられる範囲は、独特の時雨ワールドを展開した。
「時雨って、何を考えながら演奏してるの?」
先生のところに師事してから一年ほど経ったころ、何度目かのグループ発表会の後に私は彼女に尋ねた。
時雨は、少しだけ考えてから屈託のない笑顔で答えた。
「私はここにいるよって、気づいて欲しいからかな」
「……どういうこと?」
「私、お父さんの顔知らないんだ。生まれた時からずっとお母さんとふたり暮らしで」
「そう、なんだ。お父さんはどこに?」
「知らなーい。生きてるっては聞いてるけど」
中学生程度の頭では、その程度の理解が精一杯だった。後になって聞いた話では、父親の素性こそ分からなくても、彼女の母親のもとには定期的に結構な量の養育費が送られてきているらしい。
だから生活には全く問題なく、時雨は顔も知らない父親のことを足長おじさんのような存在だと思っているようだった。
「じゃあ、お父さんに気づいて欲しくてバイオリンやってるの? なんで、バイオリン?」
「お母さんが昔、やってたからかな。お父さんと出会ったのもこれを通してだったんだって」
そう言って、彼女は自分のバイオリンを軽く掲げる。
「これ、お母さんのおさがりなんだ。ドイツの演奏会に出た時に使ってたやつなんだって」
「え……もしかして、時雨のお母さんって有名な人?」
「ううん。ぜんぜん。市の楽団に入っててね、ドイツにある姉妹都市との交流会で演奏したって、それだけだよ」
「なんだ、びっくりした」
子供特有の向こう見ずな自信と侮りで、私は胸を撫でおろした。
その時の私と言えば、先生のもとで実力をつけて将来は高名な楽団でファーストを受け持つのだという自負と自信に満ちていたものだから、友人でもありライバルでもある時雨の母親が高名な演奏者だったとしたら、人知れず嫉妬に狂っていたことだろう。
音楽の才能は遺伝するものだと言われる。特に母親の遺伝が強い。
私の家も音楽に傾倒する家系ではあったが、決して業界における地位は無い。父親は音楽教室を営みながら地元合唱団の指揮と指導を。母親は父の教室でピアノ講師をしている。おかげで生まれた時から音楽に触れる環境にあったということだけが、私の持つ強みだった。
「もしかしたら、時雨はドイツ人とのハーフだったりして」
「えー? やっぱりこの鼻筋の高さは、顔も知らないお父さん由来かぁ」
「思いっきり日本人のペチャ鼻じゃないの」
「あ、ひどい!」
急に得意げな顔になった時雨の華を小突いてやって、私たちは笑い合った。
厳しいが音楽と真摯に向き合う先生の下で実力をつけて、辛い時もあったけれど、それ以上に苦楽を共にする仲間と過ごす時間を楽しむ方が大きかった。
やがて中学を卒業して高校へ進学した私たちは、部活には属さずほとんど毎日をレッスンと個人練習に費やしていた。主な目標は全国区のバイオリンコンクールで金を取ることであり、中でも隣県の宮城県仙台市で行われる国際音楽コンクールのバイオリン部門に挑戦することを長期的に視野に入れていた。
いくつかある全国コンクールの中でどれを狙うかに関しては、先生が私たちに一任させてくれたが、この国際音楽コンクールは時雨の強い希望で決まったものだった。
「確かに、近くで行われて気楽でいいけど。どうしてこのコンクールだったの?」
「えー、なんでだろう……国際って響きよくない?」
「また安直な」
相変わらずパッション重視の時雨に、私は半分呆れていたものだが、しばらくしてふといつかふたりで話したことを思い出した。
「時雨……あなたまさか、本当にドイツに父親がいるんじゃとか思ってないわよね?」
「ぎくっ!」
よくもまあ、漫画みたいに驚きが声に出るものだ。
時雨は視線を泳がせながら、しどろもどろに答えた。
「だって……もしも音楽関係の人だったら、国際コンに来てるかもしれないじゃん」
「それって、お父さんが外国人だったらって前提の話でしょう。そんなこと、あり得ると思ってるの?」
「それは……」
私の問いに、時雨は歯切れの悪い様子で唸る。
「確信があるわけじゃないけど……もしかしたらそうかもって、根拠はあるの」
「へえ?」
「あのね、このお母さんに貰ったっていうバイオリン。お母さんもね、人から貰ったものなんだって。それでいろいろ調べたらね、ドイツの田舎の小さな工房でしか作ってない貴重なものだったの」
時雨が、バイオリンの入ったケースをぎゅっと抱きしめる。
「そんなの、日本からでも入手手段はいくらでもあるでしょう」
「そうだけど……」
私の言葉を受け入れつつも、時雨はどこか納得しきれない様子だった。
情報だけを整理すれば、もしかしたらそんなこともあるかもねという、眉唾レベルの与太話だ。けれど、彼女は心の底からそうであると信じて疑わないようだった。
何がそこまで彼女を掻き立てるのか。これもまた受け継いだバイオリンの響きが、時雨なりの音楽に対するパッションの琴線に触れていたのかもしれない。
難しいコンクールに挑戦すること自体は私も望むところだったので、私たちは国際音楽コンクール出場に向けて毎日のレッスンに励んだ。
しかし、そう簡単に出場できるほど甘いコンクールではない。日本をはじめ、世界中のオーディションを勝ち抜いたバイオリニストだけが挑むことができる、これもまた狭き門だ。私たちは毎年デモテープと共に書類審査に臨んでいたが、高校在学中にチャンスが回って来ることはついに無かった。
しかし、全く芽が無かったわけではない。高三の時のコンクールで、私たちは初めて共に書類選考を通過して、現地オーディションまで駒を進めることができた。結果は落選だったが、大きな一歩を踏み出せた心地で、落ちたのに祝勝会を開きたいほどモチベーションが高まっていた。
高校を卒業した私たちは、先生の勧めで首都圏にある音大へと進学した。
国際音楽コンクールは、最終的にオーケストラの中で演奏することを求められる。感覚を掴むためにレッスンをしようにも、いくら先生のツテがあっても東北の片田舎では機会に恵まれるものではない。対して音大であれば学内でオーケストラを編成して演奏する機会も多いので、レッスンの機会には事欠かない。
ふたりとも、先生のもとを離れるのは少々寂しかったが、今までほどではなくても、月に何度かは調子を確かめるためのレッスンをしてくれると言うことだったので安心して旅立った。
そんな私たちの決断が花開いたのは、大学二年のオーディションの時だ。
「――以上が、今年の仙台国際音楽コンクール、バイオリン部門の出場者となります」
発表と同時に、私たちは歓喜の声をあげて抱き合った。嬉しさが爆発してあまりよくは覚えていないが、たぶん泣いても居たと思う。
私たちは、ふたりそろってコンクール本選への出場権を獲得した。
ふたりで始まり、ふたりで挑み、ふたりで走り続けて来た。その成果がふたり一緒に出場ということであれば、いくら現実的な私でも運命めいたものを感じてしまうものだ。
ふたりであることを提案してくれた先生にも、これ以上ないくらい感謝した。先生の目論見は正しかった。
ふたりでなければ、きっとここまでの成果を出すことはできなかっただろう。
「喜んでばかりもいられないでしょう。時雨、本番はコンクールで演奏する時なんだから」
「分かってる! でもこんなに嬉しいのは大学に合格した時以来だよ~!」
「割と最近だし、大学合格なんかと同列にしないでよ。だけど……本当に嬉しい」
仮に本選で結果が残せなくてもいい。もちろん金を取るつもりで全力で演奏をするが、結果よりもふたりで共に成し遂げたことの方が私にとっては重要だった。
このままふたりなら、どこまでも上り詰めていけると思った。どんな障害も乗り越えていけると思った。
私たちは共に、無くてはならない存在なのだと。
――コンクールの後に、あの申し出さえなければ。