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第66話 RAiN②

 国際音楽コンクールのバイオリン部門は、大きな波乱もなく終了した。

 結果だけを言えば、私たちは共に上位入賞が叶わなかった。しかし、その年の審査委員奨励賞が私に送られることになった。


「すごいや栗花落ちゃん! おめでとう!」

「ありがとう」


 時雨が自分のことのように喜んでくれて、私はほっと胸を撫でおろした。

 審査委員奨励賞とは、上位入賞が果たされなかった者の中から将来性を感じられた演奏者に送られる特別賞のことだ。

 私としては、ふたりで勝ち取ったような気持ですらあったのに実際に賞を与えられるのは私ひとりという状況に、妙な違和感を覚えてしまう。だからこそ賞を取れなかった時雨がどう思うか心配だったが、どうにも杞憂だったようだ。


「賞金も出たけど、私こんなに沢山貰っても困るわ。時雨、半分貰ってくれない?」

「えええっ!? なんで!? どうして!? 栗花落ちゃんが貰ったものを貰えるわけないよ!」

「だって、私だけ貰うっていうのもなんだか後味が悪いし」

「貰っておきなよ! 栗花落ちゃんが貰った賞金なんだもの!」

「そう……分かった」


 かと言って自分のために使う気にもなれず、私は初めて親孝行というものをした。音楽に掛かりきりで、楽器の維持費や先生のレッスン料、大学の学費に一人暮らしの家賃生活費など、とんだ金食い虫である私をここまで支えてくれた両親を沖縄旅行へと連れて行った。とても喜んでくれた。


 道が大きく変わったのは、私がちょうど沖縄旅行から帰って来たころの話だ。珍しく学校に先生がやってきて、学科の主任と共に私たちふたりと面談が行われた。

 先生はとても律儀な人で、いくら地元での教え子だからと言って音大で学んだことやカリキュラムについて意見をすることを決してしなかった。月に何度かのほとんどただの面会に近いレッスンも、音大で習うことプラスアルファのアドバイスを貰うのが基本だった。


 そんな先生がわざわざ大学までやってきて、しかも大学教員と一緒に面談を行うだなんて、それだけで異常な事態を確信する。


「お話って何ですか?」


 一方で時雨は、ただならぬ気配を全く感じ取っていない様子で、先生たちに朗らかに挨拶をする。すると先生は、余計な前置きもなく単刀直入に要件を語った。


「お前たちに交換留学の話が来ている。一年間、ドイツで音楽を学んでみる気はないか?」

「はい……?」

「ええっ!?」


 私は、ふたつの意味で驚いた。

 ひとつは、単純に留学の話がやってきたこと。

 もうひとつは言わずもがな、その留学先がドイツであることだ。


「先生、それはいったいどういう経緯でやってきたお話で?」

「先日お前たちが参加した国際音楽コンクールの審査員であったクラウス氏が、いたく気に入られたようでな。ぜひ一度来て欲しいと。まずは一年間、交換留学の形で師事を受け、もしもその気があれば帰国後に改めて編入を考えても良いとの事らしい。ちなみに、栗花落の審査員賞を推したのもクラウス氏だ」

「それは、光栄なことです。ですが――」


 私は、隣で驚きっぱなしの時雨を横目で見て答える。


「なら、なぜ時雨に審査員賞を贈られなかったのですか?」

「少なくともあの時は、栗花落の方が時雨より勝っていた。そのことは私も同意見だ。だがクラウス氏は、時雨のことも十分に評価していらっしゃった。そこで、ふたりに話がやって来たんだ。ただし、条件はある」

「条件?」


 先生は、少しばかり話しにくそうに咳ばらいをした。


「ドイツに行けるのは、お前たちのうち、どちらかひとりだけだ」


 ああ――声にならない落胆が、心の奥底からこぼれた。

 時雨も、慌てた様子で応接室のソファから身を乗り出す。


「ふたり一緒じゃダメなんですか!?」

「受け入れ先となるアカデミーの制度の都合でな。枠はひとつしか用意できないそうだ。話を受けるか受けないか、最後に決めるのはお前たちだが、誰が行くのかは――」

「――オーディションですか」


 先生が頷く。


「私としては、どちらがドイツに行っても存分に腕を振るい、また価値のある学びを得て帰って来るだろうと確信している。だが日本から送り出す者としての責任もある。ドイツ側にとってもより価値のある方を送り出したい。だから――」

「いえ、お気持ちはよく分かります」


 先生の心中を察し、先回りするように話を遮る。

 どのような建前があるとしても、そう言う話であれば私の答えは決まっていた。


「それなら、私が辞退します」

「えっ!?」


 先生たちよりも誰よりも、人一倍驚いたのは時雨だった。彼女は、私の腕を掴んで身体ごと強くゆする。


「どうして? 留学だよ? すごいことだよ?」

「そう、だから時雨が行ったらいいわ。それにドイツ――だものね」

「あ……」


 そのワードの意味は、私たちふたりにしか通じない、ある意味で合言葉のようなものだった。ゆする時雨の力が弱まり、代わりに眉をハの字にしながら項垂れる。

 ふたりでここまでやってきて、この先もふたりでやっていくと思っていた。そんな私が、時雨を置いてドイツへ行く理由はひとつもない。もちろん時雨も同じ気持ちなら嬉しいけれど、彼女が行きたいというのなら、私がそれを止める権利は無い。止めるつもりもない。

 だって、あのドイツだから。まるで嘘がまことになったような運命を感じてしまって、時雨の与太話も本当だったんじゃないかって、その時なら思える気さえした。


「栗花落ちゃんは賞を取ったんだよ……私より、優れてるんだよ。そんな栗花落ちゃんを差し置いて、私が留学なんてできないよ」

「私は、私の都合で辞退するだけ。そこに引け目を感じる必要はないでしょう?」

「うー」


 時雨が小型犬みたいに唸って、掴んだ腕をぎゅっと握りしめる。爪が食い込んで少しだけ痛かったが、それすらも健気で可愛く思えた。

 しばらくそうしていた彼女は、やがて覚悟を決めたように先生の方へ振り向く。


「先生方、オーディションをしてください!」

「いえ、だから私は――」

「栗花落ちゃんに勝てたら、私、ドイツに行きます! もしも負けたら、私も留学は辞退します!」


 時雨の宣言に、私は目を見開いたまま固まってしまった。


「時雨、それ、どういう……?」

「譲って貰ってドイツに行くつもりは無いよ。だから、ちゃんと栗花落ちゃんのことを越えて、堂々とドイツに行く。これなら文句ないでしょ?」

「だから、そんなことしなくたって、私は行くつもりが――」

「いいの! 決めたの!」


 時雨は、一歩も譲らなかった。困り果てて助けを求めるように先生を見ると、どこか呆れたような笑みを浮かべて頷かれてしまった。


「時雨はそう言っているが、どうする?」


 もはや、受け入れるしかないようだった。

 私は、途端に重くなった頭を抱えて大きなため息を吐く。


「……分かりました。オーディション、やりましょう」

「うん!」


 時雨が満足げに頷いて、掴んでいた手を放して手のひらを差し出す。

 宣戦布告と健闘しようの握手を、私は仕方なく受け入れた。


「返事に余裕があるわけでもなくてな。オーディションは三週間後だ。こちらが指定した課題曲をそれぞれに演奏してもらう。」

「はい」

「はい!」


 ハキハキと返事をして、時雨はにこやかな笑みを私に向ける。


「なんだか、中学時代を思い出すね」

「……そうね」


 私はただ、あの毎日が未来までずっと続いていけば良いと思っただけなのに。

 話が終わり、先生は大学の主任と軽い打ち合わせを済ませて立ち上がる。


「そう言えば、オーディションの日だがな。クラウス氏が別件でまた来日しているそうで立ち会って頂くことになった。講評もして頂けるので、勝敗に関わらず耳を傾け、今後の糧にして欲しい」


 そうして時雨のドイツ行きをかけたオーディションが決まった。

 私が勝てば、誰もドイツへ行かない。

 時雨が勝てば、時雨はドイツへ行く。


 立場を思えば、わざと負けることだってできる。しかし、それは時雨も許さないだろう。彼女は、私に買ったという大義名分を持って気持ちよくドイツへ行きたいのだ。


 決戦は三週間後。

 課題曲は、パガニーニ『バイオリン協奏曲第一番:第一楽章』。



 私は親友として、またライバルとして、本気で彼女の前に立ちはだかろう。

 持てる全ての力を尽くして。

 私が勝てば、私の望む未来もまた目の前に広がっていく。


 これは、そういう戦いでもあるのだから。

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