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第67話 RAiN③

 オーディションは、大学のレッスン室で行われることになった。

 この三週間、私は久しぶりに時雨と一切顔を合わせない生活を送った。それどころか、スマホでメッセージのひとつも送った試しが無い。

 時雨の方も同じことで、彼女もまた本気でこの課題に取り組んでいることが、それだけで伝わって来た。


(課題には、必ず意図がある。先生は、昔からそうだった)


 大学の自販機でミネラルウォーターを買いながら、私は静かに思いを馳せる。

 課題には、必ず意図がある。苦手の克服であったり、長所を磨くためであったり。内容はそれぞれだが、何の意図もなく渡されるということは、少なくとも先生の場合はあり得ない。


  作曲家のパガニーニはイタリア人で、「悪魔に魂を売った」と表現されるほどのバイオリンの名手でもあった。そんな彼が書いたバイオリン協奏曲は、音楽史における屈指の難曲だ。


 全編を通して超絶技巧を余すところなく求められ、まずは引ききることが困難。そのうえでオペラ歌手のように表現豊かに「歌う」ことも求められる。イタリアンオペラは情熱的な旋律が多く、その要素をふんだんに取り入れたロマンチックな曲調が印象的である。


 一方で「楽譜通りに奏でる」ことを求められる曲でもある。そうすることで、オーケストラの中でバイオリンが最も輝くように「仕組まれている」のだ。

 もちろん演奏するのは本人で、作曲したパガニーニ自身が主役となり、舞台上で弾くために書かれたものである。


(今の世で言えば、まさにシンガーソングライターね)


 そんなバイオリン協奏曲に先生が込めた意図。


(まず、曲の難易度から今回のオーディションは、減点方式であることが分かる。引き切って当たり前ではなく、引き切ることに意味がある。その点は、私は有利)


 楽譜通りに奏でるのは、私の得意分野。それによってバイオリンの良さが引き立つのがこの楽譜の強みなら、その点、私に大きく分がある。


(一方で、オペラ的に歌い上げる表現力は時雨が有利。その点では、私は彼女の足元にも及ばない……つまるところ、両方の長所が内包された曲)


 どこか、私たち集大成のような選曲だと思った。

 およそ七年における、先生のもとでの私たちのすべて。


(……巣立ちを促されているようで、少し寂しいかしら)


 自販機の口からペットボトルを取り上げ、哀愁に満ちたため息を吐く。すると、突然肩をトンと叩かれて、私は驚いて振り返った。


〝I'm sorry I scared you.(驚かせてしまって申し訳ない) 〟


 見知らぬ外国人がそこに居た。

 いや、見知らぬ……というのは少し語弊があるかもしれない。この白髪交じりの茶髪をオールバックに固めたナイスミドルには見覚えがある。


〝クラウスさん?〟

〝ええ。先日は素敵な演奏をどうもありがとう〟


 私はつたない英語で答えながら、にこやかな笑みと共に差し出された握手を返した。


〝国際コンクールでのあなたの演奏は素晴らしかった。入賞には届きませんでしたが、あなたはまだ若い。よりハイレベルの環境に身を置いて励めば、ゴールドも夢では無いでしょう〟

〝ありがとうございます。審査員賞に加えて、このような機会を与えてくださり、本当に感謝しています。しかし……留学の件は、まだ決めかねています〟

〝それはなぜですか?〟

〝私は、先生の教えを信じています。今の環境が私にとってのベストではないかと、常々そう思っていたもので〟

〝師弟の絆ですか。それもまた美しい〟


 クラウスさんは、憤るでも、落胆するでもなく、どこか納得した様子で頷く。


〝無理強いするつもりはありません。私は、選択肢を与えるために来たのです。あなた――いえ、あなた方にとって、もっとも良いと思った道を選んでください〟

〝ありがとうございます〟

〝ところで……〟


 突然、クラウスさんが不安げな表情で口ごもった。

 それまでの悠々自適で自信に満ちた様子とはうって変わって、慎重に言葉を選んでいるかのように感じられた。


〝もうひとりのガール、シグレとは仲が良いのですか?〟

〝ええ、七年ほど一緒に先生のもとで学んでいますが?〟

〝そうですか〟


 要領を得ない質問に私が不信がっているのを感じ取ったのだろう、クラウスさんは苦笑しながら「何でもない」と言いたげに手を振る。


〝ただ、彼女の持つバイオリンが、とても希少なものだったと記憶していたので〟

〝彼女もそんなことを言っていました。ドイツの片田舎の――ああ、失礼しました〟

〝いえ、構いませんよ。確かに、ドイツの田舎の小さな工房で作られるものです。私は、あそこの職人の手で作られる生々しい音の響きが大好きで〟

〝生々しい?〟


 私の問いに、クラウスさんはやや興奮気味に頷く。


〝楽器とは、人の心を奏でる媒介器具です。あのバイオリンは、心の底の底を丸裸にしたように、赤裸々に奏でてくれる。ストラディバリのような楽器に人が服従するのではなく、楽器を人が服従させる、または楽器が人に寄り添ってくれる……そんな名器なのです〟


 饒舌な彼に、私は気圧されたように相槌を打つことしかできなかったし、なんなら私の英語力では正確な言葉の意味を捉えきることはできなかった。

 ただ、彼があのバイオリンに大層な思い入れがあり、大好きであることだけが口ぶりや表情から伝わって来る。


〝彼女は、母親から譲り受けたと言っていました。母親もまた、人から譲り受けたものだそうで。とても大事にしていましたよ〟

〝……そうですか〟


 突然、クラウスさんの興奮がすっと鎮まり、彼はもとの余裕ある笑顔へと戻る。


〝それが聞けて満足しました。ありがとうございました。改めて、演奏を楽しみにしています〟


 そう言って恭しくお辞儀をすると、彼はレッスン室の方へと向かって行った。

 残された私は、その背中を見つめながら胸の内に妙な引っ掛かりを覚える。


 何だろう、この違和感は。

 演奏の前に余計な興味を持ちたくは無いのに。


 仕方がなく、ミネラルウォーターと共に無理矢理飲み込んで、大きくひとつ深呼吸をする。


(行きましょうか)


 それで気持ちのスイッチを入れ、私もレッスン室へ向かった。


 多忙なクラウスさんがレッスン室に合流してすぐ、オーディションは始まった。内容は、審査員に対面して曲を弾くだけだが、今回は補助として先生がそれぞれのピアノ伴奏としてリードしてくれることになった。


「では、まずは栗花落から」

「はい」


 私はひとり、部屋の中央に立ちバイオリンを肩に添える。

 オーディション中は、相手が演奏している間、外で待機することになっている。部屋を出ていくとき、時雨は振り返るどころか、視線ひとつ私へ向けることはなかった。

 それだけで、彼女がどれだけこのオーディションに本気なのかが伺える。


 私は、それに真っ向から答えるだけ。

 先生のピアノに合わせて、私は弦に指を走らせた。


 落ち着いた、よどみのないスタート。難易度の高い曲だが、三週間も練習期間を与えて貰えれば十分に体得できる。

 〝楽譜通り弾く〟のであれば、もはやそこに「私」は居なくてもいい。私自身が楽器となって、五線譜に乗った旋律を現世に再現するのだ。


 後方でピアノを弾く先生の表情は伺えないが、審査員席のクラウスさんと大学教員は、うっとりした様子で私の演奏に身を委ねていた。


(さっきの違和感は、何だったんだろう)


 演奏に集中しているが、先ほどのわだかまりが妙に脳裏をよぎる。

 どこかぎこちないクラウスさんの表情。

 やたらと時雨のバイオリンを気にしていた彼。


(まさか……彼が時雨の父親だなんてこと、言わないでしょうね)


 ふと思い至って、自分でも笑ってしまいそうになる。

 そんな事を考えてしまうくらい、私もまた時雨の与太話を、心のどこかで「あり得るかも」と思っていたということだ。


(時雨の家は、どこに住んでいるか分からない父親から経済的な支援を受けている……つまり、父親も時雨の過程のことは認識しているということ。だったら、私に探りを入れるようなことをしないで、堂々と時雨にそのことを告げれば良い。時雨だって、とても喜ぶと思う)


 もしも本当なら、たったそれだけのこと。

 しかし、今の今まで父親からはもちろん、母親からも内緒にされて来たことだ。打ち明けられない事情があるのであれば……いやいや、何を本気になって考えているんだろう。

 雄大な弦のボーイングに合わせて、逸る気持ちを落ち着ける。


(ただ……もしも私の思い付きが本当だったら、このオーディションは時雨にとって見た目以上に大事なものになる)


 彼女がオーディションに勝てば、ドイツへ行き、クラウスさんのもとで――父親のもとでバイオリンを習うことになる。

 〝父親がいるかもしれないドイツ〟ではなく、本当に父親のところで。

 彼女がそのことを知るかどうか、クラウスさんが打ち明けるかどうかは分からないが……それは、彼女にとって何よりも幸せなことではないだろうか。


 いや、私の考えが単なる思い過ごしだったとしても、なんなら時雨の考えすら的外れだったとしても、彼女が父親への想いを糧に今日までバイオリンを奏でて来たことは変わらない。


 ――私はここにいるよって、気づいて欲しいからかな。


 そう語る彼女は、とても幸せそうで。

 だけど、無理して幸せを装っているかのようで、私は少しだけ苦しかった。


(なら……私のしていることは、時雨の幸せを邪魔するだけ……?)


 私が勝てば、ドイツ行きの話は無くなる。

 時雨も、私が敗けたら行かないと言う。

 それで良いのだろうか。

 そんなことをして、私たちはこの先も同じように隣でバイオリンを弾くことができるのだろうか。


 ――怖い。


 その時私は、生まれて初めて先行きの見えない未来のことを恐ろしいと思った。

 いいや、怖いのは先行きが見えないことじゃない。

 いざ直面した未来が、時雨に嫌われる未来がやってくること、だ。


 突然の不安とプレッシャーに心臓が押しつぶされそうになる。

 それでも何のためらいもなく演奏し続けてしまうこの身体が、心のない人形か何かのようにすら思えた。


(どうすればいい? どうすれば私は、私の望む未来を手に入れられるの……?)


 悩み抜いた末に、私が選んだ答えは――

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