オーディションの帰り道。
それぞれの学生マンションへ帰るまでの道のりで、私はしきりに喋り倒す時雨の話を、どこか上の空で聴いていた。
「ドイツって言ったら、まずはソーセージだよね。あのくるくる巻いてあるやつ食べたい!」
「そう」
「あとはジャーマンポテトでしょ。それからアイスバインとー」
「食べ物のことばっかりね」
興奮した様子で語る彼女の横顔には、新年度から始まる新しい生活への希望と期待に満ちていた。
オーディションの結果――ドイツ行きの切符は、時雨が手に入れることになった。
彼女は、心から喜んでいた。
私も、心から祝福した。
ただひとり、先生のどこか責めるような視線が私に向けられていたことだけが、しばらく夢に出て来そうな心地だった。
――これで良かった。
私は、自分のしたことに対して後悔していない。
私のエゴを通せば、時雨の心にわだかまりが残る。だったら私が彼女に席を譲ることで、全てが順風満帆。パハッピーエンドを迎えられるはずなのだ。
「あのね、栗花落ちゃん。お願いがあるんだけど」
ひとしきり異国の食事情に想いを馳せていた時雨が、突然思い出したように私を見た。
くりくりと悪意を知らない瞳が、どこか哀願するように見つめてくる。
「栗花落ちゃんのバイオリン、貸してくれないかな」
「え?」
言われていることの意味が分からず、私は言葉を飲みながら首をかしげる。
「貸すのは良いけど、何のために?」
「ああっ、言い方が悪かった! ドイツに行ってる間、栗花落ちゃんと私のバイオリン、交換しないって話だよ」
「交換って……どうしてそんなことを?」
未だに話を飲み込み切れない私に、時雨がはにかみながら答える。
「ドイツに行くのは楽しみだけどね、私、絶対にホームシックになっちゃう自信があるんだ」
「それは嫌な自信ね」
「でも、だからと言って留学を切り上げて帰って来るつもりも無いから。私、ちゃんとドイツで勉強して来たいから……だからね、栗花落ちゃんのバイオリンがあれば、勇気づけられるかもなって思って」
「私のバイオリン、それほど良い品じゃないけれど……それこそ、栗花落のバイオリンに比べたら天と地の差があるのに」
「値段じゃないんだよ。心だよ。あ、私、良いこと言った」
自分の名言に得意げになる栗花落を見て、私は、なんだか細かいことを考えるのが面倒になってしまった。もちろん、良い意味で。
「そのバイオリンからしたら、せっかくの里帰りの機会なのに」
「あ! それを言われると心が揺らぐ……けど、やっぱり栗花落ちゃんの心はプライスレス」
「なにそれ」
どんな理由であろうとも、遠く離れた海の向こうで私の存在を心の支えにしてくれるというのは、これ以上ないほどに嬉しいことだ。
それに、時雨が私のバイオリンを支えにするように、日本に残される私も時雨のバイオリンを支えに、これからもふたりで高め合うつもりで音楽と向き合っていけるとも思った。
「分かった。じゃあ、空港で見送る時に交換ね」
「ありがとう!」
屈託のない笑顔で彼女が笑う。
彼女の父親が誰でどこにいるとか、私にとってはもはや関係のないことだ。
これほど嬉しそうな彼女の姿を目にすることができたなら、やっぱり私の選択は間違っていなかったのだ。
それから数ヶ月後――時雨はドイツへと旅立った。
遠い海の向こうへ行ったと言っても、今のご時世、スマホ一台あればリアルタイムでメッセージも通話もできる時代だ。直接会えないことを除けば、私たちの生活は思いのほか大きな変化は無いように感じられた。
しいて言えば時差の壁がある程度で、時雨も初めのうちはずいぶんと時差ボケにやられていたようだったが、彼女がドイツ時間に慣れて、私がやや夜型に生活リズムを切り替えたころには、あまり気にならないようにもなった。
日本とドイツの時差はおよそ八時間。こちらが大学の講義が終わったころに、寝起きの時雨と「おはよう」の挨拶をする。
逆に時雨のレッスンが終わったころに、こちらは日付が変わるころ。すっかり夜更かしを覚えた私は、アフタースクールを楽しむ時雨のビデオ通話越しに、一緒にドイツの街を散策したりもした。
「結局、お父さんは見つかったの?」
「そんな事より食べ歩きの方が大事だよ!」
海の向こうでも、時雨は時雨だった。
そんな生活が二ヶ月ほど経ったころ――突然、彼女との連絡が途絶えた。
一日くらいなら忙しいのかなと思うこともできたが、二、三日続くと流石に気が気ではなくなる。
先生に連絡をしてみようか。
しかし、あのオーディションの後から私はどこか引け目を覚えて、先生とのレッスンを何かと理由をつけて控えるようになってしまっていた。少なくともあのオーディションの場で、先生だけは、私のしたことに気づいている。
今でも忘れられない、最後に向けられたあの視線が、そのことを嫌でも物語っている。
そうして、全てが判明したのはさらに数日後。
母親から送られて来た、一本の電話によってだった。
――時雨が、乗っていたバスの事故で亡くなった。
はじめ、何を言われているのか分からなかった。何かの冗談かとも思った。
しかし、母親はそんな洒落にならない冗談を言うような人ではない。
でも、そんなことを言われたって信じられるわけがない。
ほんの数日前まで、何事も無かったかのようにテレビ電話で話していたのに。
しかし、現地で火葬され遺骨の形で海を渡って来た時雨の鳴れの果てを目にした時には、嫌でも現実を受け入れざるを得なかった。
運が悪かったとしか言いようがない。
言いようが無いのに、葬儀の遺影で笑う彼女を目にした瞬間、激しい後悔が胸の内に渦巻いた。
私のせいだ。
私のせいだ。
私のせいだ。
参列していた先生が、何か言いたげに私に手を伸ばした。
私はその手を振り払って葬儀場を飛び出す。
時雨が死んだのは私のせいだ。
時雨がドイツに行かなければ、不運な事故で死ぬことはなかった。
私がオーディションで勝ってさえいれば。
私があの時、
気づけば、私は息を切らせながら実家の自分の部屋の中に立っていた。
どれだけ急いでいたのか、髪の毛はボサボサで全身から滝のように汗が噴き出していた。
なめらかな材質の喪服のドレスが、肌に張り付いて気持ちが悪い。
ふと……視線が傍らに置かれたバイオリンケースを捉えた。
ドイツへ向かう前に交換した時雨のバイオリン。
本当なら、遺品として彼女の母親へ手渡すつもりでマンションから持って来たものだ。
私は、ケースを開けて中のバイオリンを掴み上げる。
そのまま投げやりに肩に担ぐと、張り詰めた弦に弓を走らせた。
柔らかな音色が部屋の中に響く。
嫌な気分を吹き飛ばすように、音楽を奏でる……が、数小節分も引かないうちに私は手を止めた。
違う。
このバイオリンが奏でるべき音色は、これじゃない。
もっと情熱的に。
演奏するのではなく、歌い上げるように。
時雨の演奏は、こんなものじゃない。
バイオリンは覚えているはずだ。
その身に刻まれた時雨の演奏を。
私は、必死になって記憶の中の時雨の演奏を思い出していた。
誰よりも近くで、誰よりも沢山、彼女の演奏を聞いてきたじゃないか。
いつだって耳に音を再現できる。
それを頼りに、私は時雨の音楽を奏でた。
楽譜通りに曲を再現するのは私の十八番だ。
だったら、演奏者の音楽を再現することだってできるはずだ。
とっぷりと日が暮れるまで、私はバイオリンを弾き続けていた。
一心不乱に、音の向こうに時雨の面影を追い求めるように。
これだけ長い時間演奏を繰り返すのは久しぶりのことで、弦を押さえる指先にうっすらと血が滲み始めていた。
不思議と、心地よさが身体を包み込む。
長年追い求め続けた演奏にたどり着いたかのような充足感に、心が満たされた。
これは私の演奏じゃない。
でも、時雨の演奏でもない。
私が演奏する、時雨の演奏だ。
その歪さを、このバイオリンが受け止めて、ひとつの音楽へと昇華してくれているかのようにも感じられた。
くたくたになってその場にへたり込みながら、私は、先生がなぜ私たちふたりを選んだのかが理解できたような気がした。
ひとりでもダメ。
ふたりでもダメ。
私たちの音楽は、溶け合うことで完成する。
ふたりの間に起きる化学反応――融合の時を、先生はずっと待っていたのではないだろうか。
答えが今の演奏であるならば、それは決して時任栗花落の演奏ではなかった。
かといって、もちろん時雨の演奏でもない。
栗花落。
時雨。
ふたりの雨――〝RAIN〟。
そこに私はいないから、〝I〟を小さくして〝RAiN〟。
それは時雨の生きた証を残し続ける、贖罪の音楽――