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第69話 SOS

「……それじゃあ、そのバイオリンって?」


 それまで栗花落の話を静かに聞いていた蓮美が、傍らのバイオリンケースに視線を移す。


「時雨のものよ。彼女のお母さんにお願いして譲ってもらったの」

「そう、なんですね」


 蓮美は栗花落の正確な年齢を知らないが、まだまだ若いはずだ。大学生の頃だというなら、まだほんの数年前の話だろうに、遠い昔のことのように語る彼女に、本心を測ることができずに狼狽えてしまう。


「どうして、その話を私に……?」

「あなたが時雨に似ているから、じゃ納得はしてもらえないかしら? それじゃあ、そうね……」


 栗花落は少しばかり思いふけるように俯いた後、自らもバイオリンを見つめる。


「いいかげん、誰かに話したかったのかもしれない。言葉にするって、何よりの気持ちの整理だから」

「それでも……」


 何か言葉をかけたいが、その言葉に詰まる。

 家族を含めて親しい人間を失ったことがない蓮美が、栗花落の抱える過去に寄り添えるはずもない。


 栗花落自身も、蓮美に何か言葉をかけて欲しくて身の上を語ったわけではない。

 ただ話したかった――その気持ちに偽りは無かった。


「〝RAiN〟として生きていくことを決めてから、すぐに大学もやめた。学びはノイズになってしまうと思ったから。私がするべきことは、時雨の音楽を――彼女が生きていた証を残し続けることだから。その手段として選んだのが動画の投稿だったの。全世界、不特定多数の人に、彼女の音楽を届けることができるものね」

「……そんなことって」

「快適な投稿環境を整えるにはお金が必要だった。けれど仕事にあまり長い時間をかけることもできない。それで、手っ取り早い手段としてクラブで働くことを選んだ。一度は性風俗とかも視野に入ったけど……流石に、そこまでの踏ん切りはつかなかったわね」


 他人事のように笑う彼女に、蓮美は胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 同時に、いつか涼夏に言われた言葉が頭の中に響く。


 ――アレは、別の意味で覚悟が決まってるよ。


 音楽のための人生を歩む覚悟。

 いいや、音楽をやめてはならない覚悟。


「辛く、ないんですか? その気持ちで音楽をやって……?」

「どうかしら? 辛いとか辛くないとか、そういうところはとっくに越してしまっていて、日常になってしまったから」

「そんな……」


 そう言われてしまえば、蓮美はもう何も言い返せなくなる。

 そんな気持ちで音楽をやっている人がいるなんて――語りかける言葉は、もう何もなかった。


「……それでも、栗花落さんが弾いている以上は、RAiNの音楽も栗花落さんの音楽だと私は思います。だって、私にあの演奏を聞かせてくれたのは、栗花落さん本人なんだから」


 苦し紛れのように口にしたことだが、それもまた蓮美にとっての本心だった。

 蓮美は、時雨というバイオリニストの演奏を聞いたことは無い。だとしたら、本質は栗花落が演奏する時雨のバイオリンだとしても、蓮美にとっては栗花落のバイオリンであることに変わりはないのだ。

 一音で心を奪われた。

 涼夏が、蓮美に対してそうであったように。


「そう言って貰えるのは、素直に嬉しいわ。ありがとう」


 言いながら笑む栗花落のいつもと変わらない表情に、今の蓮美はもう、心の奥底まで落ち切った悲しみを感じざるを得なかった。


 その後、疲れたので休むと部屋を出て行った栗花落と別れて、蓮美は部屋にひとりきりになった。貸して貰った布団にくるまって、部屋の電気を落とす。

 視界が奪われて真っ暗になると、先ほど聴かせて貰ったデモテープの音源が頭の中で繰り返し思い起こされる。


 バンドのためを思えば、栗花落は絶対にバイオリンを弾くべきだ。

 しかし本人が出来ないと言っているものを、無理矢理弾かせるのは正しいことなのだろうか。


(……涼夏さんなら、弾かせちゃうんだろうな)


 どうやってそうするのかまでは思いつかないが、きっとそうだという確信があった。なぜなら、自分がそうだったのだから。

 二度とひとと合奏することはないと思っていたのに、気づいたら彼女と一緒に演奏して、バンドまで組むことになっていた。それはひとえに、蓮美が「涼夏と演奏したい」と思わされたからだ。

 自分の音楽に、それだけの力があるだろうか。


(無理だと思う)


 思わずこぼれた言葉は、決して弱気になったわけではなく、冷静に自分のことを見つめ直してのことだ。

 自分に涼夏ほどのエネルギーはないし、行動力も、ある種のカリスマ性もない。

 できないことはできない、というのはペナルティボックスに関わるようになってからいっそう感じるようになったことだ。とりわけ根無涼夏の隣に立つにあたって、蓮美は、向日葵との差にひとしきり打ちひしがれた後なのだから。


(でも……あの新曲は絶対にバイオリンバージョンの方が良い。それだけはハッキリと言える)


 できないことはできないとして、そのうえでどうしたいのか、が何よりも大切だと思った。

 栗花落にバイオリンを弾いてもらいたい。

 いや、栗花落のバイオリンが聞きたい。

 それは、ひとりの音楽として隠しようのない気持ちだ。

 できないことはしないなりに、どうすれば「したい」ことを成し遂げられるか。


(先生……か)


 ふと思い至った蓮美は、暗闇の中で枕元のスマホを手繰り寄せ、ブラウザアプリを開いた。思いつく限りのワードを検索エンジンに書き込み、栗花落の言っていた「先生」を探す。

 やがて、それらしい人物を紹介する記事のサイトへとたどり着いた。


(たぶんこの人、かな? 話に聞いた通り、厳しそうな人だな)


 今度は、サイトで明らかになった名前で検索をかけると、栗花落が通っていた音楽教室のものらしいサイトが引っかかる。別に、通おうと思ったわけではない。蓮美が探しているものは、全く別の情報だ。


(……あった!)


 サイトの隅の隅に、手紙マークのついたアドレスを発見する。リンク化されていないその文字列をコピーして、蓮美はキャリアのメールアプリを立ち上げた。

 宛先に目的のアドレスを張り付けると、本文にカーソルを合わせてはたと手が止まる。


(何て書こう……?)


 久しぶりに元恋人にメッセージを打つかのような心境。もっとも、彼女に恋人がいたことなどなかったが。ただ、考えて取り繕っても仕方がないと思い、下書きのつもりで思いつく限りの文面を書き込む。


(お節介かもしれないというか……間違いなくそうなんだけど、でも放ってはおけないよね)


 蓮美が引っかかっていたのは、栗花落の行動の些細な矛盾だ。

 彼女の目的が〝RAiN〟として親友の音楽を残し続けることなら、一〇〇万フォロワーの動画チャンネルとして既に手段も場所も得ているはずなのだ。


 それでも栗花落は、涼夏に接触してペナルティボックスへの加入を望んだ。

 弾けないと言いながら、ふたつの楽譜を用意して、比べさせるように蓮美に聴かせた。


(それって、栗花落さんなりのSOSだったんじゃないのかな)


 他人の音楽を背負って生きていくことが、どれだけ苦しいことか蓮美には分からない。蓮美からしたら、そこに「I」が無いことが何よりも苦しい事だとも思う。

 覚悟を決めて音楽と向き合う栗花落は、涼夏も認めるくらいに強く、したたかな女性だ。

 けれど、人間である以上は許容量は必ずある。


 ――今まさに、その限界を迎えようとしていたのではないだろうか。


(そう言えば……この間の曲をアップする時も、RAINじゃなくて時任栗花落として公開したいって言ってたよね)


 それは、栗花落からしたらRAiNであることを捨てることになる選択だ。


(もちろん、RAINを捨てるつもりは無いと思うけど……でも、栗花落さんとしての音楽ができる場所が欲しいんじゃないのかな……?)


 それは、蓮美が感じた妄想でしかない。

 しかし、もしもそうなら、自分にできる方法で力になりたい。

 涼夏が自分にそうしてくれたように――


 意を決して、メールの送信ボタンを押した。指先が震えるほどではなかったが、心臓がばくばくと飛び出しそうなほど高鳴っていた。

 物事が動き始める前の興奮。もしくは、余計なことをしてしまったかもしれないという早速の後悔。

 それでも一歩踏み出してしまったら、あとは前に進み続けるしかない。


(そしたら、残った問題はひとつだけ。それで全部解決……できたらいいな)


 蓮美は、メールアプリを閉じて入れ違いにメッセージアプリを立ち上げる。その中から涼夏のトークルームを選んで、メッセージを打ち込む。


 ――フェスに参加する方法、考え付きましたか?


 送信して、返事を待たずに画面を落として胸の上に抱え持つ。


(竜岩祭、何としても出なくっちゃ)


 たったひとつの道筋は、すべて来るフェスに集約する。

 決戦の日を想い、蓮美は落ちるように眠りについた。

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