先生は、バートラックでカクテルを二本注文すると、うち一本を栗花落に渡す。時季外れのモヒートは、秋の雲のように淡く濁っていた。
「本当なら二十歳のお祝いもしたかったところだが、もう遅いな」
「いえ、喜んで受け取らせていただきます。乾杯」
プラスチックカップの縁が交わり、やや物足りない音が響く。それでも中身のドリンクを口に含むと、さわやかなミントの香りが喉の奥から吹き抜けていった。
「外で飲むモヒートは、むしろ格別なものですよ」
「普段はもっと良いものを飲んでいるだろう。悪いな」
「からかってますか?」
栗花落は含んだような笑みを浮かべ、もう一度グラスを傾ける。
「……怒っていますか?」
「何をだ?」
「大学をやめて、クラブなんかで働いていること」
「自らの生計を自ら立てているんだ。怒る要素がどこにある。それに」
ひと呼吸おくように、先生もまたモヒートをひと口煽る。
「音楽はやめていない。聴かせてもらったぞ、〝RAiN〟」
先生の口からその名前が出て、栗花落は息を飲む。
知られたという後ろめたさよりも、自分が人生で唯一尊敬する音楽の師に、RAiNの音楽を聴かれたということへの緊張感が勝っていた。栗花落は、〝RAiN〟が自分であると肯定も否定もせず、ただ無言で次の言葉を待つ。
「もう、私の指導はいらないだろう。素晴らしい音だった。願わくは、弦が奏でる音の震えを直接肌で感じたいものだが」
「……ありがとうございます」
お礼の言葉を口にしながら、栗花落は不思議と戸惑う自分に気づいた。
一種の焦燥感なのか、嬉しさよりも、胸やけに似た不快感が喉元をせり上がって来たからだ。もちろん酒に寄ったわけではない。一日に店で客にシャンパン数本を開けさせる彼女が、この程度のお酒で酔いが回るわけがない。
「大学を辞めたときは驚きはしたが、今もこうして音楽を続け、しかも認められている。これもまた怒る要素にはならない」
「なら……何に怒っているのですか?」
「怒ることなど何もない。いや――」
思うところがあるのか、先生は自らの言葉を自ら否定し、栗花落に視線を向ける。
「私が怒ることで、お前の気は済むのかもしれない。救われるのかもしれない。しかし、それでは前に進むことはできない。私も、お前も」
その言葉を聞いて、栗花落はようやく不快感の正体を理解した。
先生は、知っているのだ。
栗花落がオーディションでわざと手を抜いたことを。
先生は、理解しているのだ。
手を抜かなければ栗花落がドイツへ行っていたであろうことを。
先生は、分かっているはずなのだ。
栗花落のお節介が結果として時雨の命を奪うことになってしまったことを。
これまで誰にも知られず、胸に秘め続けていたことだ。言えるはずがない。栗花落が知る限り、たったひとり事実を知っているであろう先生を除いては。
「どうしてですか? ひと思いに罵って貰えれば、それで私は、罪も後悔もすべて墓まで持っていけるのに」
「だからこそだ」
先生が、栗花落の言葉に食い気味に被せる。
「そんなことをする必要はない。私は今日、お前に謝りに来たんだ」
「あやまる……?」
「時雨の葬儀の日にお前に伝えるはずだった。しかし、お前に避けられ、そのまま今日まで来てしまった。無理矢理にでも捕まえ、伝えるべきだった」
「何を、先生が謝ることなんて」
「時雨は、お前が手を抜いたせいで死んだわけではない」
その口から発せられた言葉を、栗花落はすぐには理解できなかった。
狼狽えるように唇を震わせ、息を飲み込むことでようやく胸の内へと納める。
「まったく……人が悪いですよ。だって、先生も解かっているはずでしょう?」
「ああ、分かっている。お前がわざと手を抜いたことなら。何年、お前たちの音を聞いてきたと思っているんだ」
「じゃあ、なぜそんなこと――」
「お前は、思ったよりも思い上がりが強い女だったようだな」
「……はい?」
未だに話の筋を理解できていないところに突然けなされ、流石の栗花落も眉をひそめて先生のことを睨みつける。先生は動じることなく、真っすぐにその瞳を見つめ返した。
「確かに、お前が手を抜いたことでオーディションの勝敗は決定的となった」
「なら――」
「しかし、お前が手を抜かなくても、結果は変わらなかっただろう」
「……え?」
ようやく、散らばっていた不可解の断片がひとつずつ組み上がっていく。
次の言葉を待たずとも、栗花落には先生の語る答えが分かった。
「時雨は、実力で勝利を掴んだ。あの日、彼女は確かに栗花落よりも素晴らしい音楽を奏でていた」
「ああ……そうか」
不意に身体から力が抜けて、栗花落はその場にへたり込んだ。
それから猛烈な羞恥心と後悔が胸の内を渦巻いて、解き放たれたように全身をかけめぐる。
「私……確かに思い上がっていたみたいです」
「そうだな」
「それ以上に――」
ぐっと、口元をゆがませて奥歯を噛みしめても、溢れる涙を抑えきれなかった。
零れ落ちた雫が歪んた口元を伝って、カップがひしゃげそうなほどを握りしめるドリンクの中へと滴り落ちる。
「時雨との最後の演奏が、あんなだなんて……私、なんて恥ずかしいことを」
合奏したわけではない。しかし、事実上あのオーディションが時雨とふたりで行った最後の演奏会となったのだ。そこで素晴らしい演奏をしなかったこと。時雨は、持てる全ての力を発揮して最高の音を響かせたのに、自分は彼女の勝利に泥を塗るようなことをしてしまったこと。
「それじゃあ、私が殺したのは時雨本人じゃなく……時雨という素晴らしい才能への敬意と誇りということですね。そんな私が〝RAiN〟だなんて……なんてばかばかしい……っ!」
「〝RAiN〟は素晴らしい。その事実は変わらないだろう。聞いている大勢のリスナーは、お前と時雨のことなど知らずに、音の良し悪しだけで判断するものだ」
「それでも」
「まさしく、私がお前たちふたりに求めた音の完成形だ。よく突き詰めた」
「ありがとうございます……でも」
「もう、弾かないと言うのか?」
先回りするように尋ねられ、栗花落は僅かに狼狽えながらも頷く。
「だって、そうでしょう。私にRAiNを奏でる資格なんてありません」
「資格など誰が決める? 私が与えるものではない。時雨だって与えることはできない。自分で自分に……などと言うなよ」
「……ですが、そんな話を聞かされて、なおも弾けと言う方が酷じゃありませんか?」
栗花落は、涙を溜めながら自嘲気味に笑って先生を見つめた。
親友を失ったことに対する悲しみも。それを背負ってRAiNを奏で続けて来たことも、RAiNのための生活をしてきたことも。そのすべてがばかばかしくて。どうでもよくなって。
ただただ自分が惨めに思えるばかりだった。
先生もその心中は察しているのか、言葉を選ぶように息を飲み、静かに拳を握る。やがてふとその拳を解いて、ゆっくりと踵を返した。
「少し待っていろ」
そう言って、先生はどこかへと去っていく。待てと言われなくても、栗花落にはどこかへ歩き出すような気力は無かった。背負った後悔の重さに耐えきれなくなって、項垂れるばかりだ。
やがて先生が戻って来る。その手には、一本のバイオリンケースが握られていた。
「……何ですか、それは?」
うつろな顔で見上げた栗花落が、ぽつりと口にする。
「まさか、今ここで弾けと? 流石にそれは、追い打ちがすぎませんか?」
「いいや、そうじゃない。これはクラウス氏から、お前に渡すよう預かって来たものだ」
「クラウスさん……? なぜ……?」
「いいから、開けてみろ」
半ば無理矢理押し付けられたケースを、栗花落は膝の上に置く。震える指先で留め具を外して、ゆっくりと蓋を持ち上げ――目を見開いた。
「これ……私のバイオリン」
記憶の中にあるものと微妙に印象が違うが、持ち主だったからこそわかる。そこに横たわっていたのは、時雨がドイツに行く前、寂しいという彼女のために交換した、時雨のバイオリンだった。
「事故で壊れていたところを、あちらの工房で修理して送り届けてくれたものだ。持ち主に渡すようにと言伝を預かっている」
先生の言葉を横耳に、時雨は数年越しに帰って来た自分のバイオリンに触れる。色艶共に全くの別物と言って良いほど美しく磨き上げられていた本体だったが、指先を伝わって不思議と懐かしさが身体の内へと流れ込んでくる。
流れ込んでくるのは、感情ばかりではない。
――音。
弦を鳴らしたわけでもないのに、響き渡るであろう煌びやかな音の粒が、自分の身体の中を通って毛穴から外へと噴き出していくかのようだった。
「事故にあった後、救急病院に運ばれていくまで時雨はケースごとこのバイオリンを力いっぱい抱きしめていたそうだ」
「……え?」
「まるで、命に代えてもこれだけは守ってみせると言わんばかりで……その力が強すぎてフレームが歪んでいたらしいのが、実に時雨らしいが」
「そんな……」
栗花落は、目の前のバイオリンに在りし日の時雨の笑顔を重ねる。
「他人の楽器を守って死んでちゃ意味ないでしょう……しかも、時雨のそれよりもずっとずっと安物だって言ったのに」
それでも時雨は、「栗花落のバイオリン」だから守ったのだろう。
栗花落のバイオリンがあれば、遠い海の向こうでも勇気づけられる。
そう言ったのは時雨のほうだ。
事故にあって恐ろしかっただろう。
心細かっただろう。
悲しかっただろう。
寂しかっただろう。
痛かっただろう。
それでも時雨は、親友そのものであったバイオリンを捨ててまで自分の命が助かろうとするような人間ではない。
当時の彼女の気持ちが痛いほどよく分かるからこそ、栗花落は精一杯の叱咤と感謝を込めて呟いた。
「……ばか」
それからケースの中からバイオリンを取り出して、優しく、そっと胸の内に抱き留める。
「〝RAiN〟はお前が始めたことだ。辞めるも続けるも、お前が決めろ。だがもしも資格が必要だというのなら――そのバイオリンが、無事にお前の手元へ戻って来たことが、資格と言えるんじゃないか?」
時雨は、すぐには頷き返すことができなかった。
彼女にとって〝RAiN〟とは、時雨のバイオリンで時雨の音楽を奏でることなのだ。
なら自分のバイオリンで奏でる〝RAiN〟とは――
分からない。
想像もつかない。
理解することも怖い。
「……確かめるまで、答えは待って貰えませんか?」
栗花落は、そう口にして先生の顔を見上げる。
「確かめて来ます。私たちの音楽を」
泣き腫らした瞳は、真っ赤に充血していた。
しかし瞳に駆け巡るその血潮は、確かな生の証でもあった。