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第75話 最後の砦

 期待膨らむ嵐の前の静けさである昼下がりを過ぎ宵の口になったころには、各エリアでいよいよ今日のタイムテーブルが回り始める。

 それまでロッジやフードエリア周辺に集まっていたオーディエンスたちは、そぞろに目当てのエリアに移動してステージを楽しんでいる。特に目当てが無い人たちは、未だに屋台の周辺をうろうろしたりもしているが、手に持てる分の軽食やドリンクを購入すると、遠巻きにふらりと近場のステージへ耳を傾けにいくのがほとんどだ。


「別に、ほかのとこ見に行きたいやつは行って来ていいんだぞ」


 妙にそわそわしたメンバーの空気を感じ取ったのだろう。

 なんとなくひと固まりになったまま、ドラゴンステージが遠く眺められる位置でたむろする一同へ、涼夏が痺れを切らしたように声をかける。

 ステージで演奏しているのは、聞いたことのないフォーピースバンドでかぶりつきに溜まるファンもそれほど多くはなかったが、まだまだイベントも序盤で体力があり余っているのか、歓声やコールでひとしきり盛り上がっている。


 確かに、ライブハウスのそれとはまた違った空気のステージだなと、フェス初参加の面々は、緊張と僅かな怖気を含んた固唾を飲む。


「涼夏さんはいいの?」

「あたしは、今日の客の流れを見てるとこだ」

「見て、どんなことが分かるの?」

「日を跨ぐフェスの場合は、日によって客層やら目的意識が変わるから……まあ、いろいろだ」


 途中から面倒になったのか、投げやりに締めた涼夏に、蓮美は察したように苦笑した。


「どうする? まだまだ時間はあるし、偵察兼ねて少し回ってみる?」


 気を遣って尋ねた千春だったが、蓮美も緋音もやんわりと難色を示した。


「軽く人酔いしちゃったから、私はいいや。千春ちゃんがお目当てあるなら付き合うよ?」

「私もそこまでじゃないかな。ここでも、それなりに楽しんでるつもりだしね」

「栗花落さんたちは、どこまで行っちゃったんだろ」

「心配はないと思うけど……うーん、でも、私も人を待たなきゃだし」


 タイミングを見計らったかのように千春のスマホが震える。デニムのポケットから引っ張り出して通知を目にした彼女は、すくりと立ち上がった。


「ごめん、ちょっと行ってくるね。すぐ戻る――」

「千春せんぱーい!」


 溌剌とした、ほとんど悲鳴に近い黄色い声が響いた。

 一斉に振り返ると、十余名の若い女子の集団がパタパタとゲレンデをかけてやってくる。蓮美は初見だったが、涼夏は彼女たちの一部の顔に見覚えがあった。


「後輩か」

「はい。声をかけたら、何人か来てくれるってことだったので」


 千春が笑顔を浮かべて歩み寄ると、あっという間に後輩たちに囲まれてちょっとした人だかりができた。


「今回は、先輩のステージが見れるんですよね! 楽しみです!」

「わざわざ来てくれてありがとう。全国前の大事な時期なのに」

「いえ、ちょうど練習が終わった後ですから!」

「居残り組もステージの時間には間に合うそうです」

「そっか、嬉しいよ。それで例の件だけど……」


 千春が後輩たちの顔色を確かめるように尋ねると、後輩のひとりが自信たっぷりに力こぶを作ってみせる。


「任せてください! そういうの得意な子居るんで、ぶっつけ本番だけどどうにかなると思います!」

「助かるよ。来てくれるだけじゃなくって、手伝ってまでして貰っちゃって」

「こんなことで恩返しできるならいくらでも任せてくださいよ~」


 卒業しても、こうして慕ってくれるのは本当にありがたいなと千春は思ったが、それは千春だからということを本人はよく理解していない。もちろん、千春のルックスがどうこうの問題ではなく、彼女が高校時代にしてきたことの結果だが、そうだと思わないのもまた千春という女の人間性だ。


「千春ってのは、昔っからああなのか?」


 涼夏が呆れた声で尋ねると、蓮美も苦笑しながら頷く。


「千春ちゃん優しいから。しかも、誰にも分け隔てなく。なんだっけ、倫理で習った……アガペー?」

「疲れる生き方してんな」

「あれで無自覚なのがすごいとこなんだよ。千春ちゃんにとっては当たり前のことなの。その代わり、人からの好意ににもものすごく鈍感なんだけど……」


 蓮美も中学時代は、千春のああいうところに何度となく助けられてきた。それこそ吹奏楽部内のトラブルなんて、高校のころに限った話ではない。しかしその場に千春がいたから、大きなわだかまりも亀裂もなく、三年間を無事に過ごせたと言ってもいい。


(そう考えたら、私がサックスに打ち込めたのも、千春ちゃんのおかげなんだな)


 蓮美もまた、千春が隣に居るという感覚に甘えすぎていたのは確かだ。自分も千春から人とうまく関わる術を少しでも学んでいたら、高校時代だってもう少しうまくやれて、少なくとも部活を辞めることも、そのせいでトラウマを負うことも無かったかもしれない。

 一方で、演奏が上手くなることだけを考えて過ごせたのは、千春がいろいろと取り持ってくれたからでもある。おかげでこうしてペナルティボックスで演奏できているのなら、そのことをこそ感謝するべきなのかもしれない。


(今更かもしれないけど……お礼したいな)


 感謝の気持ちを伝えるのに遅いということは無いだろう。フェスが終わったら何かプレゼントでも用意しよう――蓮美は、ひとり心の中で想いを馳せる。


「あら、ずいぶんと賑やかでいいわね」

「あ……栗花落さん!」


 声が聞こえて、蓮美は弾かれたように振り向いた。けれども、過剰反応してしまったかなとすぐに平静を取り繕う。

 栗花落は、そんな蓮美をいつもの柔らかい笑顔で一瞥すると、その隣に座る涼夏へ視線を移す。


「涼夏さん、今日のセットリストで少しばかり相談が」

「あん? いいけど、なんだ、変えるのか?」

「そうね。こうしてそれぞれのステージを見比べてみたら、正攻法じゃ勝てないと思ったから」

「まあ、そうだな。あたしもそれを考えてたところだ」


 涼夏は、すくりと立ち上がってパンツのお尻についた枯れ葉を手で払う。


「ステージ、ちゃんと見てないだろ。見に行くか?」

「そうね。実際に見ながら打ち合わせましょう。蓮美ちゃんも来る?」

「え!?」


 自然な流れで声を掛けられて、蓮美は素っ頓狂な声をあげる。


「あ……いや、私は千春ちゃんもいるし待ってるよ。緋音さんも……あれ、緋音さんは? 一緒じゃないの?」

「あ」


 蓮美の問いに、栗花落がぽかんと口を開けて一瞬固まった。

 それから、一切毒気を感じさせないのが逆に性質の悪い、聖母のような笑みを湛える。


「ふふ、置いてきちゃった」

「ええー! それ絶対にダメなやつでしょ!? わ、わたし、探してきます……!」

「あ、蓮美ちゃん、敬語」

「そんなこと言ってる場合じゃなくってー!」


 バタバタと大慌ててで、蓮美が栗花落の来た方へと駆けていく。途中、何事かと気に欠けた千春が声を掛けたが、そんなこと気にも留めずに一目散だった。

 その後ろ姿を、栗花落がどこか羨ましそうに見送る。


「なんだかんだで、人のことをほっとけない子なのね」

「あー? まあ、千春と違って悪態のひとつもつきながらだけどな」

「何の話?」

「ついさっきまで、ちょっとな」


 釣られるように涼夏も蓮美の背中に視線を送り、諦めたようなため息をつく。


「ま、あたしはああいう方が分かりやすくていいや。感情に裏がなくて」

「あら……そうかしら?」

「あ?」


 意味深に否定されて涼夏は訝し気に見つめるが、栗花落はそれ以上何も口にしなかった。


 蓮美が緋音を見つけたのは、探し始めてわりとすぐのことだった。

 バートラックの周辺に、ステージそっちのけでやたら景気の良い飲み会集団がいると思ったら、その中心にいるのが緋音だったのだ。


「蓮美しゃん……今日はお日柄も良く、わらしはだいりょうぶれす」

「大丈夫じゃ無さ過ぎる……どれだけ飲んだんですか?」


 どうやら飲みベが高かったようで、緋音は差し出されたドリンクを、差し出されたままにパカパカとやっつけていた。はじめは面白がっていたのだろう周りの人々も、いつしか「いったいどこまで飲めるのだろうか?」とチキンレースさながら、はたまたジェンガでも楽しむかのように酒を捧げられていた。

 そこから蓮美が慌てて引っ張り出して、みんなの居る元の場所へと連れ帰る。


「うー……はれ、いつの間に夜になったんれすか? なんだかとっても眠いような……」

「緋音さん、寝ちゃダメ! あ、いや、むしろステージの時間まで寝ててもらった方がいいのかな……?」

「その前にお水飲ませてあげて。はい、ストロー差しといたからペットボトルでも飲みやすいと思うよ」

「ありがとう、千春ちゃん」


 千春に差し出された水を口元に持って行ってあげると、緋音はストローに口をつけてちゅーちゅーと吸い上げた。それが赤ちゃんみたいでなんか可愛いなと思ってしまった蓮美は、いやいやと頭を振って煩悩を振り払う。


「まったく、栗花落さんも緋音さんがこんなんなるまでどこに」

「なんか……誰かといっしょれしたよ。たしか……しぇんせい? とか、言ってたような……?」

「あ……」


 せんせい――その言葉に、蓮美ははたと思い当たる。


(そっか……来てくれたんだ。それじゃあ、栗花落さんは……)


 先ほどの様子では、いったいふたりの間でどんなやりとりがあって、栗花落がどう結論づけたのか、蓮美の目からは何も分からなかった。だから、一概に良い方に向かっていると確信することはできなかったが、少なくともバンドのもとに戻ってきてくれたことだけは心から安心した。


「とりあえず、緋音さんのことは私が見ておくから、千春ちゃんは涼夏さんたち呼んできてくれる? たぶん、市民ステージの方に居ると思うから」

「わかった……あ、もし吐きそうだったらこれにね。お水買った時に袋も貰って来たから」

「ありがとう~」


 真っ白な無地のビニール袋を置いて、千春は市民ステージの方へと駆けて行った。


(ええと、市民ステージの辺りって言ってたけど……)


 市民ステージエリアへ向かうと、涼夏の姿はすぐに見つかった。帽子をかぶっていようと、あのギンギンの金髪は、解る人には遠目ですぐにわかる。


「涼夏さん! あの――」


 声をかけようとして、千春は差し向けた手をはたと止めた。涼夏の背中越しに、どうにもピリついた空気を感じたからだ。

 隣に立つ栗花落も、どこか澄ました顔で静かに涼夏の様子を伺っている。


「結局は、力任せというわけだね?」


 びしゃりと、有無を言わさぬ強い物言いが辺りに響く。

 涼夏と対峙するように、着物姿の女性がひとり彼女たちの他に傍に居た。

 声をはりあげるでもなく、むしろ落ち着いた声色なのに何も言い返せなくなる


 そんな彼女――母親相手だからか、涼夏もいつもの勘尺玉みたいな喧嘩腰はなりを潜めて、相撲の立ち合いの瞬間のようにじっと押し黙って相手を睨みつける。

 フェスのステージに上がるために戦わなければならない最後の壁に立ち向かう、嵐の前の静けさだ。

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