「先ほど運営から参加申請書を見せてもらいました。確かにあんたの名前はないようだが……不正をするつもりだね?」
母親の視線も語り口も、まるですべてを見通しているかのようだった。
その実、彼女にとってみれば娘のやりそうなことはたいてい検討がつく。むしろ、馬鹿正直に自分の名前で申請でもしてあったものなら、そこまで浅はかな娘だったのかと落胆すらするものだ。
「許しがなくたってステージには出るぞ。そもそも、あんたの許可がなきゃいけねぇってことがおかしいんだ。普段、ロックも音楽もさほど興味ないくせに、こういう時ばっかりしゃしゃり出てきやがって」
「別に、興味なくはないよ。昔はよく聞いたもんさ。それこそ、あんたの親父が好きだったから」
「親父の話は良いんだよ。あたしの話をしてんだ」
「なら……とにかく、人様に迷惑をかけるようなコトは一切合切認める気はない」
母親が改めて言い切ると、涼夏はいくらか表情を険しくして一歩にじり寄る。
流石に取っ組み合いの喧嘩になるとは思わないが、千春も何かあったら間に割って入れるようにと覚悟を決めておく。
「……ふっ」
そんな涼夏を前にして、母親はやや小ばかにするように鼻で笑う。
「負けん気が強いのは一長一短だね」
「あ?」
「不正は認めないと、私は言っているんだ」
「ん……んん?」
言われていることが理解できずに、涼夏は喧嘩腰のまま首をひねる。
その様子を見て、母親が呆れたように溜息をついた。
「ウチの旅館は、イベントに協賛することで宿泊客を融通して貰っています」
「んなことは知ってるよ」
「その中にね、居たんだよ。あんたの前のバンドのファンだって客が。それも、結構な数」
母親が、手を広げて「こんだけ」とアピールする。
「みんな、私に話かけてくるわけさ。解散して、別々のバンドになったのは残念だけど、あの時のメンバーがそれぞれに活動を続けてるのは嬉しいって」
「あ……そう、なのか」
「そもそも、提携旅館からウチを選んでくれたのもその縁があるからだって。そういや、前の時は県内出身のバンドだって、結構大っぴらに宣伝してたね。ウチのことも実家だって出していたし」
「あー……たぶん? いや、よく覚えてねーわ」
「とにかく。あんたが知ろうと知るまいと、非常に嬉しいことに――ああ、もちろん皮肉だよ――ウチの旅館の役に立っていたというわけだ」
「あ、それじゃあ……!」
涼夏より先に事情を察したらしい千春が、期待に満ちた目を向ける。母親が応えるようにうなづた。
「バンドの参加を認めます。というか、認めざるを得ない。大事なお客様に、楽しみにしてるって言われちゃあねぇ」
「わっ!」
「あら」
「……まじか」
千春と栗花落が顔を見合わせて喜ぶ中で、涼夏は単純に驚きの方が強いのか、いくらか気後れした様子で口元をひくつかせる。
「ただし、やるならしっかりとイベントとしてやりなさい。来場者勝負? どうやって数える気?」
「そういうのは雰囲気で分かるんだよ」
「馬鹿。そんな曖昧なもので周りが納得するもんですか」
「ストレートに馬鹿って。仮にも娘によ」
「運営に居た学生ボランティアに計測係を頼んできました。人力なら誤差はあるでしょうけど、これだけのイベントじゃひとりふたりの差の勝負にはならないでしょう」
「お、おう」
「それと、もうひとつ」
突然の申し出に圧倒されっぱなしの涼夏に、母親がずいと距離を詰める。まっすぐに娘の目を見る瞳には、フェスの参加を禁止した時よりも一層有無を言わさぬ凄みが宿る。
「やるからには勝ちなさい。ウチの看板に泥を塗らないように」
「あー……結局はそれかよ」
何を言われるのかと身構えていた涼夏だったが、ようやく警戒心を解いてカモフラージュにかぶっていた帽子を脱ぐ。帽子のせいで多少乱れた金髪を手櫛でほぐすと、いつもの不敵な笑みで母親に向かった。
「負けるわけねぇだろうが。根性見してやるよ」
「よろしい」
娘の威勢に、母親も満足げに頷く。
互いに腹はくくられた。
「ところで、お前は何しに来たんだ?」
「あ!」
千春が、思い出したように声を上げる。
「そうだ! 実はその、緋音さんが、ちょっと――」
千春に連れられ、涼夏と栗花落はロッジのある広場の方へと戻る。
そこには相変わらずのグロッキー状態のまま、蓮美の膝枕で苦しそうに唸る緋音の姿があった。
蓮美が、涼夏たちの姿に気づいて顔をあげる。
「あ、連れてきてくれたんだ……ありがとう」
「どういう状態だよこれ」
「見たまんま、飲みすぎてグロッキー……って感じだよ」
「どんだけ飲んだんだよ」
涼夏は溜息をついて、緋音のそばにしゃがみ込む。
「おーい、意識あるか?」
「う……うーん……」
「ダメだなこりゃ。おい、ちょっと、二人がかりでいいから抱えてやれ」
「え、どこいくんですか?」
「どこでもいいよ。ちょっと茂みの方」
涼夏に先導されて、千春と栗花落が両脇から緋音を抱え、蓮美がミネラルウォーターのペットボトルを持ってそのあとに続く。ステージの喧騒から遠く離れてトレッキングコースの茂みに分け入った一行は、やさしく緋音をその場に座らせた。
「おい、水」
「あ、はい」
促されて、蓮美がペットボトルを手渡す。受け取った涼夏は、キャップを外したそれを緋音の口に突っ込む。
「むぐっ!?」
「よーし、飲め。飲めるだけ飲め」
「ちょ、り、涼夏さん!?」
「いいから任せとけ。酔っぱらいの対応は慣れてんだよ」
突然口にペットボトルを突っ込まれて、はじめは驚き咽た緋音だったが、喉が渇いていたのかやがて喉を鳴らして中身を飲み下し始める。
しばらくして、もういらないと言いたげに力なく手を振った。
「よーし、飲んだな」
「うう……お腹ちゃぽちゃぽで気持ち悪い……れす」
「上等だ。おし、覚悟は良いな」
「へ……?」
力なく顔を上げた緋音の鼻先に、涼夏がピースをした指を突きつける。
「なんれすか……? えへ、ぴーす」
真似してにこにことピースする緋音に、涼夏も満面の笑みでピースした日本の指の間を、隙間なくぱったりと閉じる。
そして、その指先を緋音のぷるりと熟れた唇に添えた。
「いくぞ、せーの」
「ふえ、なに……むっ! もがっ……!? のえっ……!? おろろろろろろろろろろろ!」
口の中に指を突っ込まれた緋音が、のたうち回ってから弾かれたように胃の中身を吐しゃする。先に水をたっぷり飲ませたせいか、滝のようにものすごい勢いだった。
「よーし、もう一回行くぞ」
「え……? あの、やめてくらさ……おろろろろろろろろろろろ!!!」
再びの指、そして嘔吐。
一度目でほとんど吐ききっていたのか、二度目は苦しそうにえずきつつ、残った最後のちょっとを絞り出したような形だった。
「あとは水たっぷり飲ませとけ。最低、ペットボトル一本な。あたしは手洗ってくるわ」
「わ、わかった……うわぁ……緋音さん、大丈夫?」
「きゅー」
蓮美が居た堪れない様子で覗き込むと、緋音は泣き声なんだかうめき声なんだかよくわからないか細い声で鳴いた。
「うーん、ステージまでに復活すればいいけど」
「それこそアルコールが分解されるのを願うしかないわね。お水はたくさん飲ませときましょ」
千春と栗花落が、再び緋音を抱えて立たせてあげた。ステージまでまだ何時間かある。その間にせめて自分の力で立ち上がれるくらいには回復してほしいものだと、誰もが願うばかりであった。