時は五分ほど遡り――メインのドラゴンステージ。
新曲『HELL DIVER』を演り終えて、向日葵は肩で大きく息をした。
スピードメタルに傾倒した、音を放つのではなく叩きつけるような激しい演奏に、客席のボルテージは最高潮に達している。向日葵たちの一挙手一投足に、タオルやペットボトルを振り回して、大きな歓声があがる。
その分、演者たちの疲弊はひとしおだ。もちろんステージに立ち慣れている彼女たちは、ペース配分の術を心得ている。しかし、ステージが始まる直前に、向日葵はふたりの仲間に対して言った。
「限界を超えるつもりでいこう。それくらいの覚悟じゃなきゃ、アイツはいつだって予想の斜め上を飛び越えてくる」
「心配しすぎじゃないすか? 渋谷ライブも、動画サイトの新曲も、イクイノクスが負けてるなんて思わないっすよ」
「もちろん、アタシも負けてるとは思ってない。ただ、アイツの真価はいつだってステージの上にある。それに、RAiNの新曲も気になるし」
ぶーたれるダリアに、向日葵は真面目な顔で説いた。
向日葵の目から見て、〝ペナルティボックス〟というバンドはまだまだ未完成だ。バンドの体裁は整っているが、まだ音楽としてはまとまっていない。
それぞれの個人技の高さのおかげで、並みのバンドよりも〝良く聞こえる〟だけだ。
だからこそ、それぞれの長所が無意識に「カチッ」とハマった瞬間が怖い。個人技の高さが相互に影響を与えて、曲のレベルは何倍にも膨れ上がるだろう。
これは、ひとりの
そして、ここからは
おそらくRAiN――栗花落は、そんな無意識を引き出す曲を創ることができる。それくらいの作曲家だと向日葵は理解している。
動画サイトに投稿されていた先の曲は、まだバンドの特性を掴み切れていないように感じられた。しかしフェスで披露すると謳っていた新曲に関しては、その〝不慣れさ〟を克服している可能性が高い。
すなわち、ペナルティボックスの強みを引き出す楽曲が相手になる。
もちろん作曲家としての技量に関しても、向日葵自身、引けを取っているとは思っていない。
しかし、曲のレベルがイーブンなら、あとは演奏者としてのガチンコ勝負になる。
そして涼夏の本番の強さに関しては、向日葵が誰よりも良く知っている。
「でも、だからこそ今回のステージ構成にしたんでしょうー?」
のんびりとした声が響いて、向日葵もダリアも振り返る。
声の主――菜々は、大きな身体で両腕に力こぶを作って見せて、ニコリと笑う。
「向日葵ちゃんがそう思って作ってくれたステージなら、信じて全力でやるだけだよー。大丈夫、体力には自信があるから」
「そ……そんなの、菜々に言われなくったって分かってるし! 別に、向日葵サンに反対するわけじゃないし! 私はただ――」
「大丈夫」
取り繕おうとするダリアの言葉を遮って、向日葵が穏やかに、しかし力のある言葉で言い切る。
「イクイノクスのベースはダリアよ。胸を張って演奏しなさい」
「……はいっす!」
尊敬するリーダーの言葉に、ダリアは力強く頷く。
向日葵が決めたことを疑う者は、このバンドの中にはひとりもいない。
〝サマーバケーション〟のころには成し得なかった向日葵なりのバンドのまとめ方。
ここ〝イクイノクス〟には、それがある。
向日葵は大きく何度か深呼吸をして、歓声鳴りやまぬ客席を見渡した。
やや酸欠気味のせいか、とっくに観客の顔なんてぼやけてよく見えていない。
それでも、ひとりひとりの熱は感じ取れる。
目の前に集まっているのは大勢の観客ではなく、自分たちの演奏を聴きに来てくれたひとりひとりのファンなのだ。
だから、ひとり残らず満足させる。
自分自身が信じる音楽で。
「みんな、ありがとうー!」
盛り上がる客席と真正面から向き合う向日葵に、観客たちはタオルを振り回して応える。
「フェスの前に、アタシたちは『リリース前の新曲を披露する』って宣言しました。今のがその曲。それを地元で披露できて、とても嬉しいです。やっぱり生まれ故郷って特別だから。たくさんの特別を貰ったぶん、アタシなりの特別で返していきたいって思う」
向日葵は、立ち位置を確かめるように何度か足元を踏みしめる。
どちらかと言えば、まだ自分の力で立っていられるかどうかの確認だった。
まだいける――確信を持って、彼女の双眸が客席を力強く射抜く。
「まさか……ステージの目玉は、もう終わったと思ってない?」
挑戦的な視線を送る彼女に、オーディエンスはあっけに取られて、きょとんとした顔でステージ上を見上げた。
文字通りに虚を突かれたわけだが、向日葵のもったいぶるような口ぶりに、かすかな期待が沸きあがる。
何かある。
ことフェスと言う環境でなら、ただそれだけで十分に気分を高ぶらせるに足る。
十二分によく知っているからこそ、向日葵もそれ以上余計な言葉を尽くしたりしない。
二、三呼吸分、期待のボルテージを高ぶらせる時間を置いて、彼女はこのステージのために――ペナルティボックスに勝つために用意した切り札を切る。
「新曲は、もうひとつある」
言葉に続いて、一瞬だけ息を飲む観客たち。
しかしその直後、夜空が震えるほどの喝采がメインステージ一帯を包み込む。
箱揺れの絶頂を逃さず、向日葵は菜々に合図を送る。
菜々のスティックが緩やかにビートを刻み、ベースとギターがひとつひとつの音を踏みしめるように宵闇の空気を震わせる。
「同じ日は二度とない。今日という一日が特別でありますように――『Wish to Heaven』」
その日、メインステージに詰め掛けていた観客たちは口々にこう言った。
見間違いでも妄想でもなく、ステージが輝く瞬間を見た――と。
それぞれのステージが終わり、メインステージにペナルティボックスとイクイノクスの両陣営が集った。
仕切り役を任されたイベントスタッフの男性が、突然の抜擢をものともしないこなれたMCでステージ間対決のセレモニーを司る。
「それでは、イクイノクスとペナルティボックス。両バンドのステージ動員数を発表します!」
今回の勝負は、イベントスタッフ数名ずつが各ステージにつき、カウンターで来場数を手動チェックするという方法で行われた。もちろん誤差は出るだろうが、複数名でカウントを比べることで近似値を出そうというものだ。
事前準備もなく、かつ人数の流動が激しいフェスという環境では、これができうる限り正確に近い数値を出せる方法だった。
「まずはドラゴンステージのイクイノクス! 最大来場数は――1268人!」
わっと客席が湧きあがるのに合わせて、ペナルティボックスの面々は固唾を飲んだ。
「千人超えか……ホールライブ並みだな」
眉間にしわを寄せる涼夏の様子に、蓮美は胸が締め付けらえたように息苦しくなった。
負けたつもりはない。
むしろ、勝っていると信じている。
だけど、余興とはいえこうしてメインステージに立った瞬間に、不安とも違うざわつきが胸の奥をぐるぐるとうごめいていた。
嫌な予感……ともまた違う。
しかし無意識に、天に祈るように両の手と手をぎゅっと合わせる。
「続いて、ふれあい市民ステージのペナルティボックス! 最大来場者数は――」
(お願い……!)
時間にすれば呼吸ひとつもないほどの間なのに、スタッフが結果を口にするまでの間が永遠のもののようにも思えた。
握る力を籠めすぎた指先は血が滞って赤く変色し、肩に震えるほど力がこもる。
「――976人!」
数字が耳に届いた瞬間、蓮美の頭の中を駆け巡っていたあらゆる感情が音もなく弾けた。
「よって、今宵の勝負はイクイノクスの勝利です!」
スタッフの声も、客席の歓声も、透明な幕を通したかのようにぐわんぐわんと歪に聞こえる。
脳は、結果を理解をしている。
しかし、喉を通って心に飲み下すための呼吸ができずにいた。
「……チッ」
涼夏が鋭く舌打ちをする。
大っぴらに悔しがるでも、悲しむでもなく、ただただ受け入れがたい――しかし覆しようのない事実に直面した時の
「はーい、それじゃあ!」
突然、背後からのんびりと弾んだ声が響く。
涼夏が弾かれたように振り返ると、菜々が手もみをしながら満面の笑みでそこに立っていた。
「はい、すわってー! はい、エプロン付けて―!」
「は? てめ――」
涼夏が何かをいうよりも早く、菜々はあっという間に涼夏をパイプ椅子に座らせて、カットエプロンをその首に巻く。
観客たちはわずかにざわつくが、このセレモニーに参加してこれから何が行われるのか知らない者はいない。
「いや、負けたら切るっつったけど――今、ここでする気かよ!?」
「大丈夫。可愛くしてあげるからね~」
菜々は、涼夏の肩をほぐすように添えた指で揉んでから、理容セットの詰まったポーチを腰に巻き、涼夏の長い金髪に指を通す。
それから、完成図を思い描くように目の前の後頭部をぐるりと見渡してから――ひと思いにハサミを閃かせた。
「あっ!」
金色の房がはらりと落ちた瞬間、思わず蓮美は目を反らした。
千春たち他のメンバーも、居た堪れない様子で顔をしかめて、成り行きを見守っている。
対するイクイノクス陣のダリアは、愉快なショーを見るかのように興奮した様子でワクワクを隠せず。向日葵は何も言わずに、しかし決して目を反らさず髪切り式を見つめ続けていた。
「う……くぅ……!」
チャキチャキと、小気味のいいハサミの音に詰め寄られたように、蓮美の目頭から涙があふれる。腰が砕けたように立っていられなくなってその場に崩れ落ちると、慌てて千春が駆け寄って支えるように肩を抱いた。
「蓮美ちゃん……仕方がないよ。結果は結果だし、約束をしてしまったんだから」
「でも……でも……!」
次々と零れ落ちる激情の本流を止める術を彼女は知らない。
湧きあがるのは、涼夏の髪が切られていくところを見せつけられたことによる哀しみか。
それとも、勝負に負けたことによる悔しさか。
いや――
「私たちの……涼夏さんの演奏は最高だったもん! 向日葵さんにだって負けてなかったもん……! 勝ってたもん……!!」
「蓮美ちゃん……」
怒り――結果に納得のできない憤りが湯水のように沸いては口先から吐き出される。
それは、決してん負け惜しみの我儘ではなかった。
確かに自分たちの演奏はイクイノクスに勝っているのだという確固たる自信があった。
根拠があるわけじゃない。
だが、あえて言うのなら、ひとりのプレイヤーとしての信念と矜持だった。
しかし、両方を直接聞き比べた者が存在しえない以上、結果は数値で表すしかない。
いくら自分たちの演奏の方が優れていたのだと主張しても、結果が覆ることはない。
「なんで……どうして……」
ステージのキャパシティの違いか。
それとも、メインステージの箔の違いか。
正規参加と飛び入り参加の違いか。
SNSのフォロワー数の違いか。
それとも……本当に、イクイノクスのステージの方が勝っていたのか。
要因と思われるものを細かく挙げれはキリがないだろう。
だが総じて分かりやすい評価でまとめあげてしまうなら、これこそが
優れた音楽を奏でたからといって道が拓ける世界ではない。
蓮美たちがこれまで、雰囲気でしか理解していなかった「メジャーへの挑戦」という漠然とした壁。
天辺が雲に隠れて見えないほど朧気で巨大だった壁の存在が、今の彼女たちにはハッキリと見えていた。
「ダメなんだ……ただ、良い演奏を……納得のいく演奏をするだけじゃ……」
自分が足を踏み入れたのは、これまで触れてきた〝音楽〟のように必ずしも努力が報われる世界ではない。
今まで見えていなかった現実を直視した蓮美は、ただただ、自らの思慮の浅さ――そして、本当の意味で涼夏の力になれなかった自分の無力さに、憤らずにはいられなかった。
中学時代。まだがむしゃらに音楽に打ち込んでいたころ。
喜びでも、悔しさでも、流れた涙は明日に繋がる勲章だった。
しかし、今流れる涙は、ただただ自分の中の器に滴り、溜まり続けるばかりだった。