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第81話 ムスタング・メモリー

 まどろみの中に、爪弾かれる弦の音が響く。

 アンプに繋がれていないエレキギターの音色は、脳天を突き抜ける快感も、お腹に響く力強さもない。しかし、流れるような指運びから奏でられる旋律は、優雅なハープの音色に身を委ねるようにも、母親の子守歌に心を委ねるようにも感じられた。


「――おっ、起きたか。悪いな、うるさかったか?」


 眠い目をこすりながら少女が声のしたほうを見上げると、髪の毛を緩やかなオールバックにまとめた無精ひげの男が、優しい顔で見つめている。


「……おやじ」

「お父様と呼びなさい」

「おやじー」

「せめてパパで」

「なー、おやじー」

「……なんだ?」


 無意味な問答を繰り返した後、男は肩を落として尋ねる。

 少女はきょろきょろと辺りを見渡して、壁にかけられた時計を探すと、蔑んだような目つきで男を見つめる。


「はたらけよ、おやじー」

「こら、母さんの口癖を真似るんじゃない! それに今は、歴とした休憩時間だ! 朝から休みなく働いてようやく手に入れた昼下がりの優雅なひと時を、そんなサボリみたいに――」

「んなことより、おやつは?」

「……客室から下げたお饅頭でいいか?」

「白あんのやつならゆるす」


 男は、籠に雑に積まれた饅頭の山からお望みの白あんを引っ張り出して、少女へと放る。取り落としそうになりながらも受け取った少女は、包みを乱雑に開くと、大口をあけて中身にぱくついた。


「ひかないのか、おやじ」


 もちゃもちゃと饅頭を咀嚼しながら、少女が男に尋ねる。


「弾いてほしいか? 何かリクエストあるか?」

「別に」

「あ……そう」


 嬉しそうに身を乗り出した男は、またすぐに肩を落として座りが悪そうに尻をもぞもぞとした。それから肩に下げたままのギターに指を這わせて、また弦を弾き始める。

 少女は饅頭の残りを平らげ、最後に指にくっついた薄皮をカリカリと歯でこそぎ落としながら、男が弾くギターをじっと見つめていた。


「弾いてみたいか?」

「やだ」

「や……やだ……?」


 流石にショックだったのか、男は、はたと演奏を止めて悲しそうな顔で少女を見つめる。少女は座ったまま、起き上がりこぼしみたいに身体を揺すって男の方に向き直ると、退屈そうに身体を前後に揺らしながら唇を尖らせる。


「だって、同じ楽器だったらバンド組めねーだろうがよー」


 その言葉に、男は目を丸くしたきょとんとする。

 やがて噴出したように笑うと、身を乗り出して少女の頭をワシワシと撫でた、


「そうかそうか。お父様とバンドを組みたいか」

「別に」

「ええー」

「でも、たまになら組んでやってもいい。こらぼれーしょんだ」

「お……そ、そうか。それはなんだ……ありがとうございます」

「よし」

「なんだ……誰の影響でこうなっちまったんだ……? 母さんか? それともタツミか?」


 眉をしかめてぶつぶつと呟いてから、気を取り直したようにネックを握りなおす。

 そうして片手間で爪弾きながら、少女へと語りかけた。


「ギターがイヤなら何にする? ベースか? ドラムか? ウチには居ないがキーボードもアリだぞ。お前ならボーカルでも映えるかもなあ」

「んー」


 少女は眉間にしわを寄せて、ウシガエルのようにグーグーと唸る。

 やがて、相変わらず前後に揺すっていた身体をピタリと止めて、男が持つギターを指さす。


「おやじと同じはやだけど、おやじと同じのがいい」

「なぞなぞか……?」

「なまえ知らない。あの、タツミさんのやつ」

「ベースかぁ。我が娘ながら渋いな……うーん、よし」


 男は顎をさすりつつ何かを考えた後に、ギターを肩から外して、代わりに少女の肩にかけてやる。


「わっ!」

「わははっ。流石に重いだろ」


 自分の身長とさほど変わらないギターの重さに、少女がすっ転びそうになったところを、男は笑いながら支えてやる。笑われるのが面白くなくて、少女はスネたような視線を彼へと向けた。


「だから、ギターはやらねーって」

「ギターもベースも重さは大して変わらんぞ。まずは持てるようにならんとな」


 そう言って男は、もう一度頭をわしゃわしゃと撫でてやる。


「自分の力で持てるようになったら、お前のベース買ってやろうな」

「まじか。やった」


 子供というのは現金なものだ。

 たったそれだけの約束でコロッと機嫌をなおして満面の笑みを浮かべた。




 大きなくしゃみひとつで涼夏は目を覚ます。

 ベッドのうえで寝返りをうった彼女の身体は、床にずり落ちた布団から半身だけさらけ出されていた。

 決して新築とは言えない彼女の自室は、隙間風こそなくても、時が止まったように空気が凍り付いている。

 ぼんやりと開いた眼で、わずかに空いたカーテンの向こうを見つめると、真っ白な粉雪が空を漂うように降り注いでいた。


「げ……初雪かよ」


 涼夏は、げんなりしながら大きなあくびをひとつする。

 雪――というよりも、冬が嫌いだった。


 寒くて指がかじかむし、乾燥して皮膚も割れやすくなる。ベースのボディだって、長いこと持っていられないほど冷たく冷え切るし。気温と室温の差で伸縮を繰り返す弦は、微妙に狙った音からズレることがあるので、逐一のチューニングが欠かせない。

 空を覆う灰色の雪雲のように憂鬱な季節だ。


 だからと言って、文句を言ったところで季節が巡るわけでもないし、不満は不満で受け入れるほかない。

 涼夏は、床に放り投げられた部屋着のパーカーを手繰り寄せて肩に羽織る。

 それからもうひとつとびきり大きなあくびをして、ひたひたと部屋を出て行った。寒さで全身の関節がかじかんだせいで、ロボットみたいにぎこちない脚運びだった。


 バタンと音を立てて締め切られた後の室内は、冬特有の軽やかな静寂に包まれた。

 ある意味で真の静寂とも言える時の中で、彼女のムスタングは万雷の喝采を弦に抱いて眠っている。

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