静まり返った講義室に、教卓に立つ教授の声だけが響く。
プロジェクターを通してスクリーンに地域創生の資料を映し出す講義は、蓮美たちの学部の必修科目だった。
窓の外はしんしんと雪が降っているが、全暖房の学内は外套が必要ない程度には温かい。外との気温差に講義を子守歌にすれば、すぐに船をこぎ出すことすらできそうだ。
「時間なので、今日の講義はここまで」
大学の授業にチャイムは無い。教授の声で学生たちは一斉に教材を片付けはじめ、部屋の中はガヤガヤと喧騒に包まれる。
「蓮美ちゃん、今日は直接スタジオに行くの?」
隣通し座っていた千春が、蓮美の足元に置かれたサクソフォンのケースを見下ろして尋ねる。大学では荷物になるので、たいていは一度家に帰ってからスタジオ練習に向かう蓮美だったが、たまに直接向かわなければ間に合わないのが分かっている日は、こうして楽器を持ち歩くことがあった。
「うん。今日も、ゼミ室に寄って行こうと思って」
「そっか。じゃあ、先に行ってそう伝えとくね」
「ありがとう」
お礼を言いながら、蓮美は早足で講義室を出て行く。
残された千春は、その背中をどこか困ったような顔で見送った。
講義室のある本館を出ると、肌を刺すような冷気が目の前を駆け抜けていった。
ここ数日、毎日ひと桁代の最高気温を記録してうんざりした日々が続いているが、山形の冬はこの程度では飽き足らない。二月ごろになれば、最高気温がマイナスをマークして、安いアパートでは容易に水道管が凍結して破裂する。
そんなピークを思えば、風さえ凌げば耐えられる十二月頭の寒さなんて、大したことはない。
足早に研究棟にたどり着いた蓮美は、お目当ての研究室のドアをノックして中へと入った。以前、竜岩祭の話を聞くために訪れた、先輩たちが所属するゼミだった。
「失礼します」
「やあ、お疲れ様」
今日はまだ先輩たちの姿はなく、代わりに研究室の主であるところの学科の教授が、パソコンでメールチェックを行っていた。
「昨日の講義で質問がいくつかあるのですが、よろいでしょうか?」
「もちろん。ちょっと待って、今、お茶を淹れてあげよう」
「ありがとうございます」
竜岩祭を終えてしばらく、蓮美はすっかりこのゼミ室の住人になっていた。
一年生である彼女はまだ正式な所属を行うことはできないが、ゼミ室自体は常にあらゆる学生に開かれている。だからと言って利用する下級生はそう多くはないのだが――せっかく高い学費を払ってもらっているのだからと、蓮美はこの場所を最大限に活用する道を選んだ。
「――というわけで、参考に実例をいくつか調べてみようとしたんですが、あまり参考になるものがなくて」
「なるほど。それなら、過去にウチの会社で行った企画で良いものがあったはずだ。ちょっと待って」
教授はパソコンに向き直って、フォルダを漁り始める。
大学の教授というものは、何も教授業ばかりをしている人ばかりではない。この教授も例に漏れず、広告業を生業とする会社に身を置きながら出向のような形で准教授を兼任している。
「それにしても柊さんは、後期に入ってから随分と講義に熱が入っているね」
「え……あはは、まあ」
資料を探しながら尋ねられて、蓮美は言葉を濁しつつも頷く。
「本当は、セルフプロデュースに特化して学びたいんですが……まだ全体的な基礎知識が全然足りていないので」
「なるほど……確か、柊さんは外部でバンドをやっているんだったかな?」
「え? どうしてそれを?」
「そりゃあ、ウチのゼミの企画の話は教授の私にも入ってくるさ」
「ああ……なるほど」
ペナルティボックスの出演したロックフェス『竜岩祭』に、このゼミの生徒たちは研究の一環としてスタッフとして参加していた。ならば、ゼミを預かる教授がことの経緯を聞いていてもなんら不思議ではない。
「プロデュース論を学びたいのは、バンドを盛り上げるためかな?」
「……はい」
「なら、もっと直接、自分たちのケースで実証してみれば良いんじゃないかと、教授の立場としては思うけどね」
ちょうどいい題材があるのだから、と彼は続ける。
蓮美は、しばし迷ったように口をもごもごさせていたが、やがて意を決して首を横に振る。
「確かに学生の企画として捉えればトライ&エラーで学べることも多いと思います。でも、それじゃあダメなんです」
「なぜだい?」
「エラーは……ダメなんです。〝これだ〟という確信をもったプランで臨まなきゃ。メジャーを目指すのに、もうあまり時間が無いから」
「なるほど」
教授は、マウスを止めて肩越しに蓮美を振り返る。
「つまるところ、マーケティングの目的はメジャーデビューということだね?」
「あ……は、はい」
「うん。高い目標は素晴らしい。もちろん大変ではあるけれど、やれることも多くなるからね」
「いやぁ……ただ、多すぎてどれが自分たちに合っているのかも分からなくって。だからモデルケースをもとに、自分たちなりの方法を模索しようかなと」
繰り返すが蓮美はまだ若干一年生で、マーケティングも基礎の基礎しか学んでいない。それでも自分のバンドに活かそうと思ったら、先人の知恵をベンチマークにするしかない。
教授は、あごをさすりながら明後日の方向を見上げて唸る。
「うーん……まず単純な話だが、目標の出口は見えているのかな?」
「出口、ですか?」
「そう。つまりは、どうすればメジャーになれるのかということだよ」
「どうすれば……」
そう言われても、深く考えたことのなかった蓮美は口ごもってしまう。
竜岩祭前までは、とにかくいい音楽を奏でていれば道が拓けると思っていた。
そして竜岩祭を経て、もっと自分たちを売り込む必要があるのだと気づいた。
「事務所の……オーディションとか受けると良いんでしょうか?」
「それもひとつの手だろうね。あとは音楽事務所にサンプル音源を送るとか……もっともこれは、そもそも聞いてもらえない可能性もあるけれど。今のご時世ならSNSや動画サイトで多くのフォロワーを獲得して事務所の目に留まるということもあるかもしれない」
「そうですね」
「大学受験と違って、試験に合格したらなれるわけでもない。だからこそ、手段は多岐にわたるわけだ。ちなみにバンドとしては、どの方法で狙うのかは考えているのかい?」
「いえ……特には」
「得意分野があるなら、まずはそれに絞って特化させるのがベターだけれど」
「得意分野……」
教授の言葉を反芻して、蓮美は今一度ペナルティボックスのことを考える。
自分たちの得意分野とは何か。
これまで、最も成果を出せたものとは。
「……やっぱりライブ、ですね。バンドのリーダー……のような方が、いつも言ってるんです。バンドはステージの上で完成するって。そして同じステージも二度とないって」
「なるほど」
教授は再び明後日の方向を見上げた。
しばらくそうして、何か考え込んでいたが、やがてパソコンに向かってWEBブラウザで何かを検索し始める。
「会社に、ちょうどこんな営業が来ていてね。参加の口利きくらいならできるけれど」
そう言って、蓮美にとあるサイトを見せる。
はじめはなんともなしに眺めていた蓮美だったが、サイトを読み進めるにつれて、徐々にその目が見開かれていく。
「これは――」
小一時間後、蓮美はいつもの商店街、いつもの楽器店、いつもの三号スタジオへと飛び込んだ。
勢いよく開け放たれた扉に、中で談笑していたバンドのメンバーたちが一斉に振り向く。
「ど、どうしたの蓮美ちゃん?」
驚いて尋ねる千春をよそに、蓮美は乱れた前髪を直すこともせず自分のスマホを仲間たちの眼前に突き付ける。
そこには、先ほど教授に見せてもらったとあるイベントのサイトが映し出されていた。
「これ、出ませんか!?」
勢いに押し切られるように、みなはスマホの小さな画面に顔を寄せる。
「〝ニュージェネレーション・アワード〟……ですか? ま、まさかまたフェス……!?」
「いえ。何度か審査があって、最後に本戦って、何かのコンテストのようだけれど」
ぎょっとして青ざめる緋音をなだめるように、栗花落が彼女の肩に手を置いてサイトを精読した。
すると、唯一画面に興味を持たず、壁際でベースのチューニングをしていた涼夏が顔をあげる。
切れ長の瞳が覗く顔は、すっきりとした金色のウルフカットに包まれていた。幾分ボーイッシュな印象が強まったその髪型は、隠すことのできない、竜岩祭の対決で負けた代償だった。
「ニュージェネだ……? おい、てめぇ」
涼夏は、眉間に深い皺を刻んで遠巻きに蓮美を睨みつける。
長いことロックとそれに通じる界隈に慣れ親しんできた彼女は、イベントの名前を耳にしただけで蓮美の考えが手に取るように理解できた。
だからこその、あまりにも馬鹿らしいアイディアを一蹴するような、非難の眼差しだった。
いつもならばここでひるむ蓮美だったが、今日は違った。
教授に紹介されたからというわけではなく、自分の直感が「これだ」と告げたのだ。
聳え立つ巨大な壁を登るための、長く果てしない階段を見つけたような。
そして、それ以外に道は残されていないような。
「ニュージェネレーション・アワードは、一次審査、二次審査を経て、本戦でお客さんを入れてのライブを伴う公開オーディション。その勝者は、翌年に行われる〝フジ・ダイヤモンド・ロックフェス〟の出場権を得る――」
ひと息でまくし立てて息が切れた蓮美は、大きくひとつ深呼吸をしてから、その決意を力強く口にした。
――みんなで、フジロックに行こう!!!