うっすらと雪が降りしきる中、緋音は丘の住宅街にある自宅へと帰宅した。
閑静ないわゆる高級住宅街であるこの辺は、さらに丘の上のほうにある大学へ通うには近くて便利だが、街へ出るには自家用車やバスなどの交通機関を使うのが一般的だ。
ところが初雪となれば、除雪の行き届いていない道路は車でごったがえし、公共交通機関であろうと平気で十分から二十分遅れることもざらである。地下鉄が整備されていればそんなことはないのだろうが、田舎の地方都市にあるわけもなく。下手をしたら、バスに乗るより歩いたほうが早いなんてことも往々にしてあり得る。
もっとも、片道一時間そこらの道を歩いて帰るような体力のない緋音は、道路の混雑を横目にバスで帰宅したわけだが。
「……ただいま戻りました」
帰宅した彼女の表情は、外の曇天のように曇っていた。
今日はいろいろなことが重なって、結果として涼夏に散々と絞られてしまった。
もちろん、フェスの失態をいつまでも引きずっている自分が悪いのだと、彼女も理解はしている。
それでも終始やり玉にあげ続けられるというのは、キツイものはキツイのだ。
「あら、お帰り。遅かったのね」
「……え?」
聞きなれた、しかし予想外の声を耳にして、緋音はうつむいた顔をあげる。
すると、自宅のリビングでファッション誌を広げながらくつろぐ姉の姿が目に入った。
「え……あれ、姉さん……? いつ帰ってきたんですか?」
「ついさっき。雪で新幹線が遅れちゃって。本当は、お昼にはついてるはずだったのに」
「そう、なんですね……えっと、お仕事は? まだ年末のお休みじゃないですよね?」
「あー、それね」
姉は、照れ隠しのように笑いながら答える。
「辞めてきちゃった。あ、これお土産ね」
「あ、ありがとうございま……え、やめた?」
クッキーの入った小さなショッパーを受け取りつつ、緋音は矢継ぎ早に耳にした情報に耳を疑う。
「やめたって……会社を、ですか?」
「そう。あ、お茶入れたとこだけど、飲む?」
「あ……いただきます……じゃなくって!」
あまりにも日常の一部として語る姉にのまれそうになりながらも、緋音は気丈を保って問いかける。
「え……だって、やっとやりたかったデザインの仕事ができるって、前に……?」
痛いところを突かれたのか、姉は申し訳なさそうに視線を逸らした。
「まあ、なんというか、あれからだいたい半年? いろいろあってね。やっぱり、私には向いてなかったなって」
「……そんな」
すでに気持ちの整理をつけたらしい本人よりも数倍のショックを受けた様子で、緋音は立ち尽くしてしまった。
お盆に家に帰ってきた時には「デザイン部署に配属された」と喜んで報告してくれた姉。
緋音も、彼女が服のデザインの仕事が夢であることを知っていたので、自分のことのように喜んだ。
本当に嬉しかった。
自分のこと以上に。
だというのに、それをあっさり「やめた」と言われて、返せる言葉があるはずもない。
「そういうわけで、しばらくこっちにいるから。失業保険が入って切れるまでだから、春先くらいかな」
「……ええと……はい」
「もお、ショック受けすぎでしょ。今時、転職なんて珍しくないんだから、そんなに気を遣わないで」
狼狽える妹を前に、姉は優しい笑みをうかべて雪に濡れた頭をそっと撫でてあげた。
その間も緋音は、かける言葉がひとつも思い浮かばず、ただ黙って身を任せることしかできなかった。
明くる日曜日。
今日はスタジオ練習はなかったが、涼夏は海月に呼び出されて駅前のドーナッツチェーンに呼び出されていた。
はじめは無視しようと思ったものの、見透かされた相手から「来なきゃ家に乗り込む」という追撃メッセージが送られてきたので、しぶしぶ承諾したのだった。
「今度は何の用だよ。つーか、明日から大学だろ。帰れよ」
「この後の新幹線なんだよ。それまでヒマだから付き合って♪」
「シンタローに言えよ」
「シン君は、今日お仕事だからムリなの! 寂しいけどりょーちゃんで我慢する」
「仕事って……そういや、アイツなにやってんの?」
「市役所だよ。今日は日曜窓口の担当だって」
「は? 公務員? あのツラで?」
「仕事の時はピアス全部外して、ウィッグかぶるんだって。オンオフのできた男だよね~」
ノロケ語りをする海月をよそに、涼夏は頭の中で顔中のピアスを外して、モヒカンの上から黒のウィッグを被った彼の姿を想像した。
イメージできるようで、できないような。
ただ、高校時代の「比較的マトモ」な姿を知ってる涼夏なので、無理やりそれらしいモンタージュを脳内生成することができた。
「相変わらず、謎の生態してるなあいつ」
「でしょー。そこがイイのよ」
「付き合いたてのころは、昔飼ってたオカメインコに似てるからとか、そんな理由だったじゃねーかよ」
「年月で愛は深まるのよ、ふふふ」
どうでもいい話を繰り返していると、なんとなく高校時代のことを思い出す。
涼夏の記憶からすれば、海月という女は年下のくせに物怖じしない、負けん気が強い――というよりは、自己表現が強いタイプの人間だった。
自分が良いと思ったものはいいし、嫌いだと思ったものは嫌い。それをおくびもなく口に出せるから、我の強いほかのメンバーふたりの中でも戦っていけたのである。
「こうしてると、高校時代を思い出すね」
数珠みたいな形のドーナツを頬張りながら、海月がまた涼夏の心を見透かしたように言う。
海月――訓読みなら「くらげ」。
その透き通った身体のように、彼女は相手の考えを透かして読むのがうまい。
その特技に、涼夏は何度となくしてやられてきたし、助けられてもきた。
「竜岩祭、本当にすごかったよ。少なくとも、私たちが立った時は越えたね」
「動画で見たんだろ。生ならもっといいモン見せられたのによ」
「しょうがないじゃん。リアタイはメインステージに居たんだから」
その言葉に、涼夏の眉がピクリと動く。
「……どうだった? アイツら」
顔色を伺うような問いかけだった。
海月はいくらかもったいぶるような笑みを浮かべてから、まっすぐに涼夏の目を見つめて答える。
「感動した。ひまちゃんって、あんな演奏できたんだね」
言葉は薄っぺらい。
しかし、海月の口から出る言葉であるならば、涼夏としては十二分すぎる答えだった。
そうか、と短く返事をして、手元のホットコーヒーに視線を落とす。
「海月さ、いっこだけ後悔してることあるんだ」
後悔と言いながらも、彼女は過ぎ去った思い出話のように軽い口ぶりで言う。
「バンド解散した時に、何も言わずにりょーちゃんとひまちゃんの言うとおりにしちゃったこと」
「そういや、お前にしちゃ成すがままだったな」
「りょーちゃんの気持ちも、ひまちゃんの気持ちも分かったから。味方するのも、意見するのも、違うなって思っちゃった」
どこか寂しそうに笑う姿に、ようやくいくばくかの後悔が見え隠れする。
しかし、その後悔を新たな希望に変えて飲み込んで、海月はやや前のめりに涼夏と向き合った。
「だからさ、提案あるんだ」
その口ぶり、そして話の流れに、涼夏は嫌な気配を感じ取る。
それを〝嫌〟だと感じ取ったのは、涼夏がすでに新しい一歩を踏み出している証である一方で、そう遠くない過去の記憶が楔となって胸の内に残り続けていることに他ならない。
「別に、メジャーを目指さなくっていい……って言うと二人に失礼だと思うから。だったら、目指してもいい。ううん、むしろ目指したい」
だから、涼夏は聞こえないふりをしてガラス張りの壁の向こうに見える、雪景色に心を向けた。
もっともそんなのはポーズでしかなくって。
こと音を聞き分けるのに長けた彼女の耳には、ハッキリと、抗いようもなく、海月の声が届いていた。
――もう一度、三人でバンド組もうよ。