ステージ裏を離れて、蓮美が緋音を連れてきたのは、会場の裏手にある搬入口だった。
トラックを横づけできる大きなシャッターに仕切られたそこは、暖房の利いたほかのホール内にくらべて外と大差ないほどに寒い。
防寒着も身に着けないままで、ふたりは同時にぶるりと身を震わせた。
「蓮美さん……ここで、何を?」
「緋音さん! ああ、見つかってよかった」
「千春さん?」
少し遅れて、蓮美から連絡を受けた千春が合流する。
その手には3人が今朝着てきた防寒着が携えられていた。
「見つかったのは良いけど、搬入口に来てって言われて何事かと思ったよ」
「ごめんなさい……心配かけてしまいましたか?」
申し訳なさそうな緋音に、千春は「いいよ」と首を振る。
それから、薄暗い辺りの光景をざっと見渡した。
「懐かしいね、と言うには私はまだ頻繁に来たことがあったけど」
「千春ちゃんとここに来るのは、中学の全国予選の時以来かな」
「そうだね。私個人は、去年の県大会が最後だけれど……」
口にして、千春は「失言だったかな」と微妙に口ごもる。
その様子を見て、蓮美は控えめに笑った。
「大丈夫。高校のことはもう吹っ切れてるから。それよりも、もっと大事な思い出がここにあるから」
在りし日の光景を思い出しながら、蓮美が緋音へと振り返る。
「高校二年の夏……全国をかけた県の予選会の朝にね、私、ここで吐いちゃったんだ」
「え……っ!?」
「ちょうど……ああ、あの、今は廃材コンテナのあるあたりかな」
ぎょっとする緋音をよそに、蓮美は廃品を雑多に放り込んであるゴミ箱代わりのコンテナを懐かしそうに見つめた。
「前に話したかもわからないけど……ウチの中学って吹奏楽のかなりの強豪校で、全国も公立なのに数年に一度は行けるくらいでね。必死に練習して、大会の編成に入れたのが二年生の時。嬉しかったけど、同時に、すごいプレッシャーだった。それで、これから大会だって朝に耐えきれなくなっちゃって……」
「すごい大騒ぎだったね。ほかの学校も搬入でいっぱいいたし。病気で編成に欠員が出たらどうしようとか……ほかにもいろいろ」
「あの時は本当にご迷惑をおかけしました」
苦笑しあう蓮美と千春にとっては、とっくに青春の一部の思い出だ。
しかし、たった今聞かされた緋音にとってはそうではないようで、見ても居ない光景に釣られたように口元に手を抑える。
「うえっ……」
「わっ、ご、ごめん! そんなつもりで連れてきたんじゃないの!」
蓮美が慌てて駆け寄って、緋音の背中をさする。
彼女は身をかがめて数度えずいたものの、本当に吐くまでは至らずどうにか飲み込む。
「すみ……ません。想像したら、つい」
「私こそ、ほんとごめん……ただ、その時の先輩の話をしたくって」
「先輩……ですか?」
蓮美が柔らかい笑みで頷く。
「いっこ上の……その時のパートリーダーの先輩で。在学中すごくよくしてもらって。その時も、何も言わずにゲロの掃除してくれて……申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、すごく嬉しくもあって」
「佐伯先輩、すごくいい人だったよね」
「うん。高校の先輩も、そうだったらよかったのになぁ」
もしもそうなら、高校時代だって楽しく音楽をできていたのかもしれない。
その一方で、いい先輩がいてくれたからこそ中学時代に辛くても充実した生活を送れたとも言えなくもない。
結局は、めぐり合わせの問題だ。
「その時、先輩が言ってくれたんだ。吐き出してスッキリするならいくらでも吐き出したらいい。泣いて心が落ち着くなら、いくらでも泣いたらいい。誰かが吐くときも、泣くときも、練習も、ステージの上も、そして金を貰って喜ぶ時も、いつでもみんな一緒。それが吹奏楽部だからって」
「いい……先輩ですね」
「うん。でも、今にして思えば中学生の言葉だし、全然すごいこと言ってるわけじゃないなって思う」
「そ、そんなこと……」
「でも……その時の私には、なぜかすっごく響いたんだ」
それがあったから、高校でどんな目に遭おうとも音楽だけは――サックスだけは手放さずにいられた。
ある意味で、蓮美がペナルティボックスのステージに立っていられること自体がそのおかげと言っても良い。
「私には……蓮美さんの先輩のような素敵な方が周りに居ませんでした。その分、姉さんがいつだって私の味方になってくれて……」
「違うの。そういう話じゃないの」
「え……?」
きょとんとした顔をあげた緋音に、蓮美は真正面から向き合う。
「私たち、まだ緋音さんの仲間……というか、友達になれてないのかな?」
「……ぁ」
「私はとっくに、ずっと、そのつもりでいたけど。緋音さんは違うのかな」
「それは……」
「私たち、緋音さんの支えにならないくらい頼りない……かな?」
「そんなこと……ない、です! ただ……みなさんによくしてもらってる分、何も返せてない自分が、申し訳なくって」
一瞬声を大にするが、すぐに風船がしぼんだように勢いを失っていく様子に、蓮美がその顔色を伺うように尋ねた。
「緋音さんって……実は、自己評価結構高いよね?」
「え、ええっ!? ないない……そんなこと、絶対にない、です!」
「だって、私は誰かによくしてもらった分、何か返せるほどのものを持ってるだなんて、思ったことないもん」
「あんなに素敵な演奏ができるのに……?」
「自分が演奏したいからここにいるんだよ。誰かのためじゃなく自分のために」
「自分のために……演奏する……?」
「緋音さんだって、最初はそうだったんじゃないの……? 聞かせてくれた聖歌隊の話……憧れて、緋音さん自身も歌いたいって思ったから、挑戦したんじゃないの? 誰のためでもない、自分のために」
強めの問いかけに、緋音は気後れしたように息をのんで黙り込む。
思い返すのは、言われたばかりの「最初」の気持ちだ。
幼稚園か、小学校低学年か――今ではとっくに記憶が定かではなかったが。
子供の目には、数歳年上の先輩が遠く及ばない大人のように見える。そのせいもあってか、ステージ上で美しい衣装を身にまとい聖歌を歌う聖歌隊の子たちが、アイドルか何かのように見えていた。
それもテレビの中で見るアイドルではなく、望めば手が届くような輝き。自分もあそこに立って、同じように輝いてみたいのだと。
しかし、たった一回の失敗が、そんな想いを忘れさせてしまうことがある。特に、失敗はやがて取り返せるということをまだ知らない、子供のころには。
「お姉さんに頼ってもらえなくて寂しかったなら、まずは緋音さんが自分から誰かを頼ることをしなくっちゃ。成長って……そういうのを言うんじゃないのかな」
「助けてもらうんじゃなくって、自分から頼る……くちゅんっ!」
不意に、緋音が大きなくしゃみをひとつした。
「そろそろ涼夏さんたちのところへ戻ろう。蓮美ちゃんも、ね」
「あっ、そうだね。千春ちゃんもコートありがとう」
「これも、頼られてるってことなのかな」
「もちろん。千春ちゃんには頼りっぱなしだよ」
無邪気な笑みを浮かべる蓮美に、千春も優しい笑みで帰す。
それから、自販機で温かい飲み物を涼夏や栗花落の分も買って、仲間たちのもとへと合流する。
「やっと来たか」
「ごめんなさい……心配をおかけしました」
「逃げてなきゃそれで良いんだが。おら、そろそろ入れとけ」
涼夏が、本当にどうでもいいことのように一蹴して、鞄からチューハイの350ml缶を取り出す。ほとんどルーチンになっていた、ステージ前の緋音の燃料補給である。
緋音は反射的にそれを受け取りそうになったが、途中で思いとどまって援助がちに押し戻す。
「今日は……いりません」
「は? それで歌えんのか?」
「それは……怖いし、恥ずかしい……ですけど」
緋音は、ちょっとだけ驚いた顔を浮かべる蓮美を見る。
それから千春、栗花落、そして目の前の涼夏へと視線を移して、今度は力強く頷いた。
「お酒じゃなくって、みなさんのこと……頼りたいから」
そうして、同じくらい頼られる人になりたい。
姉にも、バンドの仲間にも。
それを蓮美は自己評価が高いと評したが、これまでずっと誰かに頼りきりの人生だった緋音にとっては、心からそうありたい自分の姿なのだから。