やがてホールは開場となり、コンサートも開演する。
比較的早めの出番を貰っていたペナルティボックスは、すでに舞台袖で待機していた。
蓮美が、邪魔にならない程度にステージと客席の様子を伺うと、いくらか空き席はあるものの七、八割はお客で埋まっている状態だった。
「思ったより人、入ってるね」
「大人数の団体の身内で、毎年チケットさばいてるらしいしな」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。それぞれに努力をしてもらってるんだ」
涼夏を諫める声は、今日は一日スタッフとして働いているらしいタツミだった。
いつものラフな接客スタイルではなくフォーマルなパンツスーツ姿に、ふだんはボサついた髪の毛も後ろで丁寧にまとめあげている。
「ほんとならアンタたちにもチケット捌きを手伝ってもらいたいもんだったけど、どうやらその心配は必要なかったみたいだね」
「どういうことです?」
「まあ、ファンは何も言わずとも調べて来てくれるということだ。感謝しなよ」
タツミの言葉にいまいち要領を得ない蓮美だったが、この大勢の中に自分たち目当ての人たちも来てくれてると思えば悪い気はしない。
全力で楽しんでもらうばかりだ。
「それじゃあ、せいぜい盛り上げに貢献してくれ。期待してるぞ」
一応は労いに来てくれたのだろう。
それだけを言い残して、タツミはどこかへと去っていった。
「涼夏さんって、タツミさんとどうやって知り合ったの?」
「あ? 親父が昔、バンド組んでたんだよ。タツミさんと、あと渋谷のアキオさんとスリーピースで」
「あ、そうなんですね。それでスイタジオ貸してくれたり、こんなによくしてくれるんだ……てか、お父さんもバンドやってるんですね?」
「やって〝た〟だよ。タツミさんも、アキオさんも、それぞれ別のとこで働いてんの分かんだろ」
「ま、それはそうですけど」
「ペナルティボックスさん、そろそろ準備お願いします」
微妙に引っかかる言い方をされたのが気になったが、詳しく話を聞く前にスタッフに呼ばれてしまった。
仕方なく、気持ちを切り替えて隣に控える緋音を見る。
握りしめた両手をぎゅっと胸元に押し当てる彼女は、見るからに極限の緊張状態だった。
「やっぱ、酒入れといたほうが良かったんじゃねーか?」
「い、いえ、それじゃあ意味が無いので……」
緋音の中でもとっくに覚悟は決まっている。
それでも緊張するものはするし、怖いものは怖い。
先ほどからずっと耳の後ろあたりの血管がドクドク波打っていて、顔もサウナに入ってるように熱い。
それでも逃げずに居られるのは、姉と自分のために仲間が力を貸してくれると言って支えてくれたからだ。
その想いにも答えたい。
(それも……仲間を頼る、ということなのかもしれないですね)
ようやく少しだけ、バンドというものが分かったような気がした。
みんながひとりのために、なんて高校時代のスローガンみたいなものを改めて掲げなくったって、当たり前にそこにある。
自分の居場所がここにあるのだと心に刻んで、彼女はステージへと躍り出た。
県民ホールのステージは、これまでのライブハウスやフェスのそれに比べたら、客席もステージそのものも落ち着いた雰囲気だ。
お客は全員座ったまま静かに耳を傾けているし、ペットボトルやタオルを振り回すようなことももちろんない。
この中でバンドの演奏をするというのは、盛り上がりの面で難しいものがあるが、少なくとも栗花落は、ちゃんとそういうのも加味したうえで舞台演出を考えている。
ステージのライトを消したまま、それぞれ楽器と音響の接続を確認する。
最終的に涼夏が代表して裏に「OK」サインを出すと、パッとステージ全体に光が灯った。
その瞬間、ステージのかぶりつき周辺から「わっ」と歓声があがる。
「きゃっ!?」
一番驚いたのは、ステージの最前列センターに立つ緋音だ。
つられてステージ眼下に視線を落とすと、数名の集団が目を輝かせて自分のことを見上げていた。
何人かの手にはお手製らしい「眠り姫♡」と書かれたプラカードが握られている。
それが目に付いた瞬間、緋音の顔面が蒼白になった。
「あ、やば……」
異変を察したのは、ほど近くに立っていた蓮美だ。
反応的に悪気のないファンの声援なのだろうけど、今の緋音にとっては絶妙に、かつものすごくタイミングが悪すぎる。
すぐさま涼夏にアイコンタクトを送ると、彼女も渋い顔で眉間に皺を寄せる。
ステージは始まってしまったのだ。
どうしたものか、この瞬間にいきなり対処法を考えろと言われるほうが難しい。
頭を悩ませることほんの数秒――突然、ステージの証明がすべて落ちた。
「えっ?」
演者も観客も全員が驚いた声をあげる中で、パッとついたスポットライトが栗花落と緋音のふたりだけを照らし出す。
涼夏がとっさにステージ袖を見ると、スマホを耳に当てたタツミが「感謝しろよ」と言わんばかりの表情で親指を立てた。
(あ……まぶしくて、何も見えなくなった)
煌々と照らしつけるライトの光で、緋音の視界はほとんど何も見えなくなる。
自分だけの世界。
いや、どこかから響くバイオリンの音だけは、目がくらむ中でも確かに響いて身体に染み入る。
大丈夫、怖くない。
音があれば、みんなが後ろについていると分かる。
だったら自分は、今日のステージを精一杯に歌い上げるだけだ、と。
震えは消え、喉が開く。
顔の熱は、音楽への情熱に変わる、
静寂のホールに、バイオリンとコーラスの二重奏が響く。
曲目は『Hail Holy Queen』の栗花落アレンジ版だ。
九十年代に流行った洋画でヒットした本曲は、同映画が大好きだという緋音の好みを存分に取り入れた結果の選曲だった。
讃美歌にゴスペルアレンジを加えたのが映画で使用された楽曲だったが、それをさらにバイオリンと緋音のウィスパーボイスのコーラスによるデュオに置き換え、より情緒的な響きに変えて共に〝歌い上げる〟。
重奏でもあり、これは一種のハモリでもある。
美しい二者の音色に、かぶりつきのファンたちはもちろんホール中の観客が息を飲み、またはうっとりとため息をついて心をゆだねる。
クリスマスコンサートとして、これ以上の選曲はないだろう。
だが、そんな綺麗ごとで終わらせないのもまたペナルティボックスの流儀だ。
ワンコーラスを歌い上げたところで、栗花落が残りのメンバーへと目配せをする。
それを見ていた舞台袖のタツミも、ステージ後方の管理室に合図を送ってステージ全体のライトをつける。
ほとんど同時に、激しいドラムとベースの爆裂的な電子音が、美しい天上の歌の空気を吹き飛ばした。
ゴスペルアレンジの原曲とは違い、自分たちはロックバンドなのだ。
当然、アレンジはロックに振る。
こんなことをしたら、神様への冒涜になるだろうか?
いいや、なるとしてもやる。
なるからこそやる。
これが、自分たちにとっての祈りの方法なのだと叫びあげるように激しいビートを刻み続ける。
美しく神聖な世界観は、マリアと天使を称える歌詞をそのままに一気に勇ましい凱旋歌へと変わった。
これは、聖戦を戦ぬいた天使たちの凱旋だ。
同時に、緋音にとっての闘いでもある。
今にして思えば、どうして何事もひとりで戦おうとしていたんだろうと彼女は思う。
いつだって仲間は手を差し伸べてくれていたのに、自分がそれに気づかず、手を取ることをしなかった。
心が軽い。
不安なんて全部吹き飛んで、ただひたすらに音楽を楽しむ心ばかりが沸き上がる。
楽しい。
いつまでも歌っていられそう。
いいや、いつまでだって歌っていたい。
スポットライトの熱で汗をかくのもお構いなしに、緋音は精一杯に歌を紡いだ。
何度も練習した丁寧なメロディも、お腹から声を通す伸びやかな高音も。
練習した成果を発揮することだけに集中できる。
それが楽しい。
初めての経験で、かつ、きっと、聖歌隊にあこがれていたあの時に体験できていたかもしれない経験。
ようやく、自分の中の公開を明日の思い出に変えられるような――そう思うと、自然と笑みが溢れた。
満面の笑みで大粒の汗をきらめかせながら、ひたすらに。
眠り姫は、今やペナルティボックスになくてはならない歌姫なのだと、自ら証明するように。