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第90話 巨人襲来

「緋音!」


 演奏が終わって控室代わりの小ホールで荷物の整理をしていると、声をかける人物がいた。

 緋音の姉だった。


「姉さん」


 座ったまま顔をあげた緋音は、どこか疲れた様子で目がとろんとしている。

 おそらく、全力で歌うという経験が彼女の中では初めてだった。

 ペース配分も何も分かったものでなければ、持ち時間が終わったあとにはほとんど精魂尽き果てていた。


「どう……でした?」


 それでも、大好きな姉のためならばと力を振り絞って立ち上がり、歩み寄る。


「昔のこと、思い出したよ」

「昔のこと……?」

「せっかく聖歌隊のメンバーに選ばれたのに、当日に高熱を出してわんわん泣いてたこと」


 どこか見透かされたような気持になって、緋音は頬を染めて俯く。


「でも、あの日からいつかこういう日が来るのかなっても思ってたの」

「え……それって」

「だって緋音、熱も咳もすごい辛いはずなのに、そんなこと全く気にならないってくらいに、ひたすら歌えなかったことを泣いてたんだもの」

「そう……でしたっけ。あの時のことは、もうろうとしててあんまりよく覚えて……」

「この子には、悔しくて泣いちゃうくらい大切なものを見つけられる才能があるんだって、その時に思った。だから私も、自分の大事なものを見つけようって思って、デザインの道に進んだんだもの」


 その言葉に、緋音は言葉を飲んだ。


「わたしが……きっかけ?」


 これまでのすべてが逆転する。

 ずっと、姉に頼りっぱなしの人生だと思った。

 姉が優秀すぎて、自分はその出がらしだと思っていた。

 それでいいと。

 輝く姉の成功を、自分のことのように噛みしめて、喜ぶことができるのだから。


 だけど、姉はそうではないという。

 はじまりは、自分なのだ――と。


「自慢の妹の晴れ舞台、すっごく良かったよ」


 目元にこみ上げた涙を、緋音はぐっと堪えた。

 ここで泣いたら、今までの自分と何も変わらない。

 だから、少しくらい力が入って不格好になったとしても、彼女はめいいっぱいに笑顔を浮かべて頷いた。


「はい……!」

「うん。これで私も安心して、新しい会社で頑張れる」

「はい……え? 新しい会社?」

「そう、って、あれ、いつだか晩御飯の時にみんなに話した気がするけど……今の会社辞めて、知り合いが立ち上げたデザイン事務所に移るのよ。つまるところ、引き抜き?」

「え、ええ……!?」


 少なくとも、緋音の記憶にそんな話は微塵も残っていない。

 ただおそらくは、会社を辞めたという話を聞いてショックを受けて、ご飯も喉を通らなかった夜に、茫然とする中でそんな話がされていたのだろう。

 聞かされていたけど、緋音は聞いていなかった。


「つまり……わたしの早とちり……?」

「うん?」


 そんなことはつゆ知らず、姉は柔らかい笑みを浮かべて首をかしげる。

 一方の緋音は、勘違いで恥ずかしいやら、力を貸してくれたメンバーに申し訳ないやら、またいろんな感情がぐるぐると頭の中をめぐって、爆発する。

 弾かれたように振り返って涼夏のそばに置かれたチューハイの缶を手に取ると、勢いよく口を切って一気に中身を煽った。


「あ、おい。打ち上げにはまだはえーぞ」

「いや……あれはそう言うんじゃないと思う」


 仲間に見守られながら半分くらいを飲み切った緋音は、そのまま赤ら顔で苦い笑みを浮かべる。


「みなしゃん、ご迷惑をおかけしました!」


 そう一声上げて、そのまま座り込んで動かなくなってしまった。

 どうやら、眠ってしまっているようだった。


「相変わらず、繊細なんだか豪胆なんだかわかんねーやつだな」

「ウチに馴染んだってことだよ、たぶん」


 そう涼夏に返す蓮美も、今ばかりは「良かったね、緋音さん」とことが丸く収まったことに安心するばかりだ。

 意味があるのか疑問だったクリスマスコンサートは、今でもバンドとしては脱線だったと思っているが、それでも、メンバーのためになったのなら頑張る価値があったと思えるものだ。


「こんにちわ、ペナルティボックスの皆さん」


 その時、不意に声をかけてくる人物がいた。

 緋音の姉でも、もちろんタツミでもない。

 誰のものかもわからず振り返る一同だったが、たったひとりだけ嬉しそうに声を上ずらせたメンバーがいた。


「先生」

「うん、竜岩祭ぶりか。思ったより早く、次の演奏が聴けて良かった」


 フェスの時にわざわざ演奏を聴きに駆けつけてくれた、栗花落のバイオリンの先生だ。

 先生は、ねぎらいの言葉をかけながら、反応に困っている面々の顔を見渡すと、蓮美のもとで視線を止める。


「こんにちわ。こうして話をするのは初めてだね」

「はい、あの……」

「その節は、お誘いどうもありがとう。キミのおかげで、過去に残してきたものに、ようやく片を付けることができたよ」


 他のメンバーからすれば、完全に「なんのこっちゃ?」である。

 ただ、蓮美にはそれで十分に伝わったようで、もじもじとしながら「は、はい」と小さく頷く。


「まさか、今日も聞きに来てくださるとは」

「私もファンのひとりになったのだと思ってくれ。機会があれば、それは足を運ぶさ。それに今日は、友人たっての願いでもあってね。ただ、用を足しに行くと言ったまま見当たらないのだが――」


 ――I got it !


 控室に、割れんばかりの大声が響く。

 誰もがびくりと肩を揺らして、何事かと辺りを見渡す。

 すると、背の丈二メートルはあろうかと言う褐色肌の外国人男性がひとり、興奮した様子で小ホールを闊歩する。

 彼は、何か嬉しいことがあったのか矢継ぎ早にしゃべりながら先生のもとへとやってくるが、何を言っているのかバンドメンバーの耳ではほとんど理解できなかった。


「千春ちゃん……あれ、何て言ってるの?」

「さあ……なんとなく、キレイな話ではないように思うけど」

「ふふ、知らなくても良いと思うわ」


 唯一聞き取れていた栗花落も、翻訳はせずに含みのある笑みを浮かべる。

 彼の言葉を簡単に要約すると、トイレに長いこと籠った結果、いかにすんごいのが出たのかということを千のスラングを用いて説明していた。


〝PJ、あまり下品な話を女の子たちの前でするもんじゃないよ〟

〝でも、マジですごかったんだ! そのあとのウォシュレットの気持ちよさと言ったら、これもまた――〟

〝PJ、彼女たちが引いているよ〟


 先生に再度諫められ、PJと呼ばれた男性は、ようやくバンドメンバーへと視線を移す。

 それから、アメリカのコメディアンみたいな大げさな笑顔をうかべて握手を求める。


「ハジメマーシテ! ヨロシークー! ヨロシークー!」

「え……な、ナイストゥミーチュー」

「Nice to meet you too!」


 千春が拙い受験英語で挨拶すると、PJはさらに嬉しそうに先生を振り返る。


〝バンドはガールばかりと聞いていたが、ボーイもいるじゃないか!〟

〝よく見なよ。彼女も女性さ。失礼だよ〟

〝まさか! 遺伝子はどうなってんだこの国は!〟


 相変わらず何を言ってるのか分からないが、とりあえず理解できなくていい話だという事は千春たち全員が共通認識として理解した。

 ひとしきり挨拶が終わって、ようやく先生が咳払いとともに彼を紹介する。


「彼はPJ。かつて、アメリカのナイトクラブ界隈で一世を風靡したプレイヤーだ。今はプロモーターも兼任していて――」


 挨拶を終える前に、PJは最後の握手の相手となった蓮美の前に立ち、じっと見下ろす。

 二メートルの背丈から見下ろされた威圧感に、蓮美は完全に委縮して後ずさってしまうが、栗花落の先生の知り合いだという手前失礼も働けず、震える手を差し出した。


「ええと……よろしくお願いします」

「Sorry」

「え?」


 彼は、それまでの陽気で口うるさい声のトーンを一転、落ち着いたバリトンボイスで柔らかく口にして、蓮美の前で片膝を折って跪く。

 そのまま彼女の手を取ると、ちょうど騎士がお姫様に忠誠の宣誓をするかのような、そんな印象を受けた。


〝怖がらせてしまって申し訳ない。可愛らしくも、器に似合わぬ情熱に溢れた少女よ〟

「え……えっと……?」


 もちろん、蓮美には何を言われているのか分からず、たまらず栗花落や先生に助けを求めるような視線を向ける。

 PJもまた、通じていないことは織り込み済みなのか、先生を振り返って「訳せ訳せ」と顎をくいくいと指し示す。

 仕方なく、先生は溜息交じりに間に入って通訳の位置に収まった。


〝君の演奏を二度聞かせてもらったよ。一度は、動画で。二度目は、今日、この耳で。素晴らしい演奏だった。実にジャジーで、パワフルで、心臓を掴まれたままシェイクされたかのようだ〟

「え、あの……あり、がとうございます」


 それから、PJは何か一言付け加えたが、先生は翻訳するのを一瞬ためらったように息を飲む。

 しかし、やはり彼は「訳せ」とせっつくので、一度だけ言諫めるような鋭い視線をぶつけてから、PJの言葉を蓮美に伝える。


〝僕の目には、君が大いなるステージで万雷の喝采を受けて演奏する姿が見える。ぜひ、僕のもとへ――アメリカへ来て学ぶ気はないかい?〟


 訳された言葉を理解するのに、蓮美も、他のメンバーも、少なくない時間が必要だった。

 特に蓮美は、理解に至ってからもなお、自分が何を言われているのか飲み込むことができなかった。


 しかし、目の前に跪き、純粋無垢な瞳で自分を見上げる大男に、これ以上ないパッションと可能性を感じたのは、言うまでもない。

 それが、どういう道へと繋がっているかは、考えが至らぬままに――

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