「いらっしゃ……いませ」
三が日のあける一月三日の深夜〇時。
バイト先のバーでカウンターに立っていた涼夏は、店に入って来た人物の顔を見て眉をひそめた。
「うふふ、お疲れさま」
仕事帰りらしい、ちょっと高めのコートを羽織った栗花落が、慣れた足取りでカウンターに歩み寄って、席の一角に座る。
「同伴って時間でもねーだろ。それともアフターか?」
「どっちでも無いわ。今日は、お店が暇だったから早上がり。お得意様たちも、流石に三が日くらいは家族と過ごしているみたいで」
お店からは、基本的にはどんどん指名客を呼んで貢献しろと言われるキャバ嬢だが、それでも最低限の気遣いはするものだ。特に羽振りのいい上客と呼べる人たちは、たいてい家庭を持ったいい年のおじさんである。そんな彼らが家族と過ごすであろう盆や正月にメッセージのひとつでも送ろうものなら、どんな修羅場に発展するかもわからないので、空気を読むのが矜持というものだった。
涼夏は、そんなことには一切興味がない様子で、仕事モードに切り替える。
「あ、そう。んで何にする?」
「シェリーを、今日は甘口の気分。チョコレートを付けてもらえるかしら?」
「はいよ」
言われた通りのものを出すと、涼夏は退屈そうに大きなあくびをひとつする。
キャバクラも暇なら、それよりも遅くまでやってるバーだってそうだ。町の人がみんな家族と過ごしているのなら、こういう小ぢんまりとした店は、基本的に閑古鳥になる。
「はじめてこの店を訪れた時は、一緒にバンドを組むなんて思ってもみなかったわ」
「馬鹿を言え。狙って来たって言ってたじゃねーかよ」
「あら、そうだったかしら」
栗花落が冗談めかして笑う。
実は竜岩祭のあとの打ち上げで、栗花落は自分の身の上のことをバンドのメンバー全員にうちあけた。
もっとも、その語り口は蓮美に個人的に話した時のような後悔に満ちたものではなく、今の自分を形作るための大切な思い出としてのものだった。
もちろん、蓮美に近づくためなんてこともわざわざ語ってはいないが、バンドに入るためにこの店を訪れたことは、笑い話として付け加えていた。
「でも、勇気を出して踏み出してみて良かったかな。おかげで、先生とも仲直りできたし」
「その道じゃ有名なヤツなんだってな。あたしは、クラシックなんて全く分からんから、知らんかったけど」
「そうね、尊敬してる。今でもずっと、先生と呼ぶくらいには」
そう言って、シェリーを舐めるように口に含んだ。
芳醇な香りとともに、カクテルよりは強いアルコールっぽさがほんのり身体を温める。
「それで……涼夏さんは、どう考えてるのかしら?」
「あ? 何をだよ」
「蓮美ちゃんの、アメリカ行きの話よ」
回りくどい言い方をせず、栗花落はまっすぐにそのことを問うた。
涼夏は、わずかに息を飲む間をおいてから、あざ笑うように噴き出した。
「はっ。あたしがどうこう考えることじゃねーだろ。あいつが決めることだ」
「それでも、蓮美ちゃんはバンドの要でしょう? 他人事ではないんじゃないの?」
「あたしは、そもそもバンドを続けることを誰にも強要したことはねー」
手持無沙汰なのか、涼夏は棚に並んだグラスを手に取って、ダスターで磨き始める。
「強引にテリトリーまで引っ張ってはくるけどな。やるかどうかを決めるのはあいつらだ。まあ、首を縦に振らせるつもり満々ではあるが」
「じゃあ、アメリカへ行くって言っても引き止めないと?」
「引き止める理由がねーだろ」
何を当たり前のことを、とため息がこぼれた。
その言葉に、栗花落は納得したようなしないような、半端な気持ちのまま一旦引き下がる。
「それよか、あんまりピンと来てねーんだよ」
「あら、何が?」
「あたしは、音楽はどこでだってできるって思ってた人間だからよ。海外で学ぶっつーのは、そんなに意味のあることなのか? そりゃロックの聖地としてはイギリスやアメリカなんて行ってはみてーけど観光気分っつーか」
「それは……涼夏さんならではの意見かもしれないわね」
栗花落が苦笑で返す。
涼夏には涼夏の音楽が確立している。
だからこそ、どこで演るかは関係がないのだ。
「あなたのような人を、うらやましいって思うわ。もちろん本心でね。自分が目指す音楽に迷いがない。だからこそ、サマーバケーションは解散してしまったんでしょうけど」
「あたしの話は良いんだよ」
涼夏にとっては耳タコなのだろう。
うんざりした顔で、栗花落の言葉を遮る。
「お前、そういうの少しは詳しいんだろ。だから率直に聞く」
涼夏は、吹き終えたグラスを棚に戻して、栗花落へと向き直る。
「蓮美のヤツは、アメリカに行くべきか?」
そのまなざしを、涼夏なりの覚悟の現れと感じ取って、栗花落もまた真面目な面持ちで語る。
「それによって拓かれる道はあると思う。彼女は、今日までほとんど独学でやってきたわけでしょう?」
「誰かに習ったのは中学までとは言ってたな」
「彼女の音楽は粗削り。だからこその彼女らしさ――パッションは感じられるし、ほとんどそれだけであの素晴らしい演奏をやり遂げていると思う。ただ――」
その先を言うべきか言わないべきか、栗花落はちょっとだけ迷った。
しかし、その迷いが人のためにならないことを経験上痛いほどよく分かっている彼女は、心を殺して口にする。
「今の彼女の演奏は彼女が持つ才能――いわば〝本能〟によるもの。彼女は分かっていないようだけれど。その〝本能〟を、良い師からの学びによって〝武器〟に変えられたなら、彼女は世界が求めるプレイヤーになる。大勢の人間が、彼女のサックスを聞くために会場へ足を運ぶでしょう」
「それは一般論か? それとも、お前の個人的意見か?」
「私の個人的な意見よ。だけど、私にはそうだという確信がある」
「……よっぽど信用できらあな」
涼夏は乾いた笑みを浮かべた。
それがどんな感情によるものか、栗花落は推し量ることができなかったが、少なくとも涼夏自身の中では、ひとつの答えが決まっていた。
「あいつは行くと思うか?」
「さあ……それこそ、涼夏さんの言う通り、決めるのはあの子自身だから」
「だよな。だからこそ、あいつは選べないと思う」
「ふふ、その根拠は?」
「あたしが、あいつの音を好きだからだ」
涼夏は、まっすぐな目で言い切る。
「あたしがあいつの音楽を好きでいる限り、手放したいとは思わない。同じように、あいつもバンドを離れたいとは思わないだろう」
「それが……涼夏さんなりの答えなのかしら?」
「いや……」
それまでの意志の強さとは一転、涼夏は俯きがちに言葉を濁す。
普段は決して見せないような弱気な姿は、彼女が自分の意志を、自分自身で否定しているからに他ならない。
「それじゃあ、ダメ……だよなあ」
ぽつりとこぼした一言が、これからのすべてを決めるのだ。
涼夏は、頭の端っこである人物のことを思い返していた。