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第106話 生みの苦しみ

 部屋のチャイムが鳴って、蓮美はまどろみから目を覚ます。

 ぼんやりとした頭で机の上の時計に視線を移すと、さっと頭の中から血の気が引いた。


「やばっ」


 なおも繰り返すチャイムの音で、飛び上がるように立ち上がる。

 それから、自分が今、人前に出れる格好をしていることだけ確認して、バタバタと玄関へ走った。


「は、はぁい!」

「蓮美ちゃん? 大丈夫?」

「千春ちゃん? ち、ちょっと待って!」


 知り合いだったのが幸か不幸か、玄関先に散らばったいつのものか分からない広告の束をまとめて廊下の傍らに積むと、あっちこっちに向いた靴やらサンダルやらを揃えて、何食わぬ顔で扉を開けた。

 すると千春と、その後ろに緋音の姿もあった。


「お、お待たせしました」

「大丈夫? 体調悪いとこ推しかけちゃって、逆に迷惑だったかな」

「あの、ポカリとか……いろいろ買ってきましたよ」

「体調?」

「あれ、今日、風邪で抗議休むって」

「あ、ああ!」


 そういえば今朝、徹夜明けの朦朧とした頭でそんなメッセージを送った気がすると、もう昨日かおとといのことみたいに思い出す。


「ああっ、そうだったね……うん、今は良くなったとこ」

「なら良かった。顔見れたし、迷惑なると悪いからこれで帰るね」

「あ、ううん! ほんとにもう大丈夫だから! お茶でも飲んでって」


 流石に体調不良(仮病)を心配してきてくれた友人たちを邪険にするわけにもいかず、部屋の中へといざなった。

 相変わらず人を呼べるような状態の部屋ではなかったが、机周りのものを避けて二人分の座る場所を確保する。

 それからお湯を沸かして、三人分の紅茶をティーバッグで淹れた。


「おまたせしまし……わっ!」


 キッチンから戻ると、千春たちは散らばったメモ用紙と五線譜をまとめて、ふたりで回し読みをしていた。

 蓮美は慌てて飲み物を配ると、紙束をそそくさと回収する。


「新曲、進んでるんだね」

「いやあ……進んでるというか、いっそ全然進んでないというか」


 書きかけの原稿に視線を落とすと、深夜に全く進まない白紙の五線譜と向かっている時の気持ちが蘇ってきて、モヤモヤとする。


「軽い気持ちで引き受けたわけじゃないけど……息を吸うように作曲してる向日葵さんや栗花落さんが、なおさら雲の上の人みたいに感じる」

「そうです。RAiNさんは素晴らしいお人なのです」

「緋音さんは先入観入ってる気がするけど……でも、あの二人も簡単に作ってるわけではないんじゃないかな」

「それはそうだけど、なんていうかこう、〝ちゃんと完成させてる〟ってのがすごいなあって。それっぽいものができても、ここが足りないなあ、あれが足りないなあってなって、どの段階になったら〝完成〟って胸を張って言えるんだろうって」

「なんだか、蓮美さんが深い話をしているような気がします……わたしは全然わかりませんが」


 緋音の尊敬のまなざしを受けた蓮美は、尻込みしながら愛想笑いを浮かべた。


「そうだなあ……聞いたところで私にアドバイスできることがあるか分からないけど、何がどう詰まってるの?」

「うーん……書きたいものはあるんだ。結構はっきりと、頭の中に。でも、それを歌詞やメロディにすると、全然違うっていうか……自分で首をひねっちゃうの」

「書きたいものって、例えば?」

「それをね、言葉にするのがまた難しいんだよね」


 お茶を飲み下しながら、蓮美はもう一度だけ書きかけの五線譜に視線を落とす。


 曲に込めたいものは挙げればたくさんある。

 ただ、それが一本の物語として繋がらないというか。

 一番大切な、芯となるストーリーが、彼女の中にはまだなかったのだ。


「でも、この曲で何をしたいのかはハッキリしてる」

「というと?」


 それまでの虚ろな視線と違い、まっすぐ自信に満ちた――というよりは、憤りと悪戯心に溢れた瞳で悪い笑みを浮かべた。


「涼夏さんにぎゃふんと言わせてやる」

「蓮美さんが燃えてます……!」

「あはは」


 笑顔で同調する千春だったが、すぐにどこか心配そうな目で蓮美を見つめる。


「蓮美ちゃんはさ、どうするつもりなの。アメリカ」

「え? ううん……正直なところ、決めかねてるよ」

「それは、涼夏さんの誘いには乗らないってこと?」

「実感が無いんだよね。誰も知らない土地でサックス吹いてる自分っていうのが。生まれてからずっと、県から出たこともないわけだし」


 そう言って蓮美は、大事なものを抱えるようにマグカップを両手で包み込むように持つ。


「……というよりも、ペナルティボックス以外で演奏してる自分がイメージできないのかな。バンドが無かったら私、今でもずっと、誰かと演奏してることなんて無かったと思うから」

「そう、だよね」


 蓮美が高校時代に部内で受けた仕打ちを、千春も知っている。

 知ってはいるが、通う学校が違った手前、何も力になることができなかった。


 受かった自分だけ志望校に進学せずに、蓮美と同じすべり止めの高校に通えば良かった。

 ただ、通った高校で慕ってくれた吹奏楽部の後輩たちのことを思えば、入学したこと自体を後悔はしていない。


 結局のところは、力にれなかったのではなく、ならなかっただけなのだ。

 強豪校吹奏楽部の忙しさを理由にして。


 ペナルティボックスは、一度は音楽への情熱を失った蓮美にとっての居場所だ。

 アメリカという新天地を引き合いに出したものだとしても、彼女の意志と関係なく、バンドから追い出したり、バンドそのものを解散したり――居場所を失くす提案を突き付けた涼夏を、千春は許すことができない。


(結局のところ、蓮美ちゃんは何の返事もしてない。練習には欠かさず顔を出しているし、こうして曲作りにだって全力で向き合ってる。彼女なりに前に進もうとしているんだろうけど……)


 自分の力で前に進めるなら、それに越したことはない。

 でも、どんな些細なことでもいいから相談してほしいと言う気持ちもある。

 つい最近まで――それこそ、涼夏と一緒にバンドを始めることになるあたりは、なんでもよく相談をしてくれたのに、と。


(それは……私の我儘なんだろうけどね)


 蓮美だって高校時代の彼女のままじゃない。

 たくさんの出会いがあって、成長もしている。

 千春も、高校時代とはまた違った気持ちで音楽と向き合えている。


(つくづく涼夏さんってとんでもない人だよ)


 彼女ほど、出会った人間の人生をまるごと変えてしまうようなバイタリティを持った人に出会ったことがない。


「あっ、そうだ」


 うつむきがちだった蓮美が、不意に顔を上げて声を弾ませる。

 千春と緋音もつられて彼女を見た。


「あ、ううん、でもなあ……」

「どうしたの?」

「うーん」


 蓮美は、しばらく思い悩むようにしたのちに、改めて大きく頷く。


「やっぱり、そうする。あのね……明日、ふたりに付き合って欲しいんだ」

「うん?」

「わたしも……ですか?」

「う、うん。その……ちょっとでも人が多いほうが、心強いっていうか……」


 歯切れの悪い返事だった。

 よっぽど頼みづらいことか、蓮美にとっては思い切った決断なのだろう。

 それがどんな内容だとしても、千春の返事は決まっている。


「わかった。明日だね」



 今度こそ、何があっても蓮美の味方でいる。

 どんな立場であろうと、そのことだけは決して変わらない、と。

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