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第107話 あの日へのエール

 あくる日、三人は駅前に集合してそのまま目的地へと向かった。

 蓮美に先導されるまま、住宅街を地図も見ずに慣れた足取りで進んでいくと、やがて開けた敷地を持つ大きな建物が迫ってきた。


「ここって……」

「うん。私の学校」


 厳密には、蓮美が通っていた高校だ。

 市内にある私立高校のひとつで、高校受験の本命が公立校になることが多い地方においては、すべり止めの立ち位置にある。


 校門に立つと、蓮美は小さく身震いをした。

 通っていたのは二年も前のことなのに、この門をくぐるたびに憂鬱な気分になっていた日々は今だに忘れられるものではない。


「大丈夫?」

「うん」


 心配そうに尋ねる千春に、蓮美は強がって頷く。


「ちょっと身構えちゃっただけだから……でも、ふたりに来てもらって良かった」


 震えはしても、校舎を見つめる瞳はなお力強い。

 意を決して一歩踏み出せば、もう歩みを止めることはできない。


 職員玄関から入り、入館の受付を済ませる。

 卒業生の訪問ということで手続きはすんなりと済んで、揃いの入館証を首から下げて校舎内へと足を踏み入れた。


「わぁ……わたし、他の学校に来るの初めてです。やっぱり、全然雰囲気が違うんですね」

「緋音さんって、高校どこだったっけ?」

「私は学院です」

「ああ、教会がある」

「ええ、まあ、あるってだけで、生徒全員がクリスチャンというわけではなかったですが」

「あそこのハンドベル部の演奏は聞きに行ったことがあるよ。すごくレベルが高かった」


 千春と緋音の他愛ない話は、もちろん大部分は蓮美を気遣ってのことだ。

 校舎を進んでいくたびに重苦しくなっていく空気を、少しでも和らげようと。

 平日の校舎は、独特の静けさに包まれている。

 大半の生徒は教室で授業を受けているのだろう。教室から離れた実習棟は、今はどのクラスも使っていないのか、不気味なまでの静けさに包まれている。

 その、一番奥まったところに音楽室はあった。


「……失礼します」


 万が一、授業をやっていないか改めて確かめてから、そっと扉を開け放つ。

 比較的分厚いが、普段のスタジオやライブハウスの防音扉に比べれば、よくこんなペラペラ一枚隔てて演奏していたものだと思う入り口の扉。

 いいや、そもそもあの頃は音漏れなんて気にしたこともなかったかもしれない。

 演奏する側も、しない側も、日常生活の中で数多の喧騒が入り乱れるのが当たり前の場所。それが高校。


「ああ――」


 音楽室に入ったとたん、蓮美の口から溜息が零れる。

 身構えていた身体のこわばりがすっかり取れて、ふっと、肩の力が抜けたのが分かった。


「蓮美ちゃん……?」

「……ちょっとね、怖くはあったんだ。ここに来たら、一番に何を感じるのかなって」


 絨毯張りの空間を、彼女は軽やかな足取りで横断する。

 それから部屋の真ん中に立って、くるりと千春たちの方へと向き直った。


「〝懐かしい〟だった」


 そう言って、蓮美は笑った。


「ずっと、自分勝手に怖がってただけだったのかな……嫌な記憶だったはずだって決めつけて。本当は、とっくに過去の話になってたんだね」

「そっか」


 千春の口からも、ふっと笑みがこぼれた。

 自分のことではないのに胸の奥がじんわりと温かくなって、緊張の糸がはらはらと解けていく。


「あ、見て見て」


 壁の一角で、蓮美が手招きをする。

 ふたりがそばに寄ると、そこには歴代吹奏楽部員の集合写真が順番に飾られていた。


「えっと、二年前だから……あった、これこれ。これが私たちの代」


 おそらくは地区予選のあとに撮影したのだろう。

 見慣れた市民ホールの正面に並んで、顧問を中心に笑顔の部員たちが並ぶ。

 当然ながら、退部した蓮美の姿はそこに無い。


「これが卒業した年のだから、そっから二年前……あ、いたいた!」


 声のトーンが一オクターブぽーんと跳ね上がって、蓮美が写真をトントンと指先でつつく。

 都合、四年前の集合写真。

 その片隅に、あどけない表情で微笑む高校一年の時の蓮美の姿があった。


「か、かわ……蓮美さん、かわいいっ」


 緋音が、興奮を抑えられない様子で身をよじりながら写真に釘付けになる。

 同世代に比べれば背が低めで、今でも大人の女になったとは言い難い蓮美だったが、四年も前ともなれば〝若い〟を通り越して〝幼い〟と形容すべきだ。


「わぁ、なんか、妖精さんみたいです。楽器の妖精さん。コロポックルみたいな」

「それは、言いすぎなようなって言うか……なんかむずがゆくて恥ずかしい」

「懐かしいね。私の知ってる蓮美ちゃんだ」


 千春からすれば、大学に入って再会するまでは、この写真の中の蓮美が記憶通り姿だった。

 中学の部活で一緒に切磋琢磨し、一丸となって全国大会を目指していたあの頃。

 そんな彼女が、たった一年で潰れてしまうことになるなんて、あの時は思いもよらなかった。


 蓮美が映る、最初で最後の集合写真。

 それから卒業までの二年分には、彼女の姿は影も形もない。

 文字通り、彼女が音楽の表舞台から消えていた空白の二年間だ。


「私、こんなんだったんだなぁ。それに見てよ。周りの先輩たちだって、今見たらさ、こんな子供だったんだ」


 当時の自分からすれば一年や二年違うだけの先輩たちが、手の届かないくらい大人びて見えた。

 けど、大学生になって自分の方が年上になってしまえば、写真の中の彼女たちはひとり残らず社会を知らない子供でしかない。


 そんな子供たちにたった二年とはいえ人生を狂わされたと思えば、憤りを通り越して、当時の自分に呆れもする。


「ううん……でも、みんなに……涼夏さんに出会わなかったら、こんなこと一生思うことは無かったかもしれないんだよね」


 もちろん、高校時代が〝過去〟になったからと言って、あの日々のこと、苦しみ、嘆き、すべてを忘れたわけではない。

 かび臭い音楽室の空気を吸えば、嫌でも思い出す。


 入部したてのころの、みんなの期待の眼差し。

 それに応えようと、受験に失敗して沈んでいた心を入れ替えて奮起した自分。


 失敗した演奏。

 糾弾。

 排斥。

 あっという間に居場所を失ったあの頃。


 怒るとか、恨むとか、そういう話じゃない。

 たったひと言、声をあげることさえできたら、きっと世界は違って見えたのだ。


 蓮美は、もう一度だけかび臭い空気を吸い込んだ。

 演奏する直前みたいに、たっぷりと灰の中を満たして、渾身のハイトーンを奏でるように――吐き出す。


「うるせぇ!!」


 ほかふたりがぎょっとして振り向く中で、蓮美はひとり、満足げな顔で乱れた前髪を指先で直した。


「ふぅ、すっきりした」

「は、蓮美ちゃん? どうしたの?」

「わわわわわ私が妖精さんみたいとか変なことを言ったせいで!?」

「違う違う! あの、ずいぶん経っちゃったけど、あの日の自分にエール、的な」


 本当は、もう少し複雑な思いがあったけれど、とっさに説明しようとしたらそんな言葉に落ち着いた。

 しかし、あの日の自分にエールというのも、間違った表現ではない。

 卒業まで頑張れば、やりたかった音楽ができるよと――行くあてのない絶望を振り払う、道しるべにはなるだろう。


「ね、ふたりともまだ時間あるよね? このあと、スタジオに戻ってちょっと付き合って欲しいんだけど……」


 少し気分が晴れたおかげか、頭の中に渦巻いていた雑念や誘惑の雲もさっと吹き飛んだように思えた。


 ――今なら書ける。


 けど、ひとりになったらまた要らないことを考えて、迷いが出てしまいそうだから。

 仲間の力を借りよう。

 それが、あの日の自分と、今の自分の、何よりも大きな違いなのだ。




 それから数日後。

 スタジオ練習の終わりに、蓮美は手書きの五線譜の束を栗花落の前へと差し出した。

 ソファーに腰掛けて中に目を通した栗花落は、蓮美を見上げて、にこりと愉しそうに笑った。


「素敵な曲。タイトルはこれでいいの?」

「はい。宣戦布告みたいなものなので」

「ふふ、その勢いに負けないようにアレンジしなくっちゃね」


 もう一度、五線譜に目を落とした栗花落は、鼻歌交じりに紙面のオタマジャクシを目で追った。

 小節を重ねるたびに、この曲の完成した姿が目に浮かぶようだった。


(そう。あなたは真正面から戦うのね。流石だわ)


 こと音楽においては、栗花落はバンド内でも中立の立場のつもりだ。

 だからこの曲も過不足なく、最高の状態で仕上げてみせるだろう。


 ただし、新曲にあたって栗花落自信が蓮美たちの前で言ったことを、忘れたつもりはない。


(これは、蓮美ちゃんなりのアンサー。あとは――)


 アレンジを終えた曲を、いの一番に聞かせる相手は決まっている。

 彼女の感性を通してはじめて、この曲は完成するのだ。


 ――新曲はふたりで作る。


 これからニュージェネ本戦に向けて忙しくなるであろう日々が、栗花落は楽しみでならなかった。

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